4-10. 始まりの地
ルヴァリーの悪夢
十三年前、小さな町ルヴァリーで起こった出来事を思い出す時、人々はそう口にする。
最も、そう呼ばれるようになったのはだいぶ時が経ってからのことだった。
悪夢の訪れはあまりにも突然で、そしてあまりにも悲惨であったため、何年も人はそれを話題にすることすら避けていたからだ。
明るい昼間に人々の奥底に隠された悪意が夜に悪夢となって襲い掛かるように、それは起こった。
笑顔の裏で痛みを耐え続けていた心が限界を迎え、決壊を越えてあふれ出した。
瘴気が土地を焼き、家々を焼き、家畜を焼き、そして人を焼いた。
瘴気を浴びながらも、住民の大半は逃げおおせた。
その町に住む強力な浄化士と元騎士夫婦による、迅速かつ的確な誘導のおかげだったという。
だが守れなかった命もあった。
皮肉なことに、何よりも住民の命を優先した夫婦の二人の娘が命を落とした。
そしてもう二人。
ルヴァリーを訪れていた浄化士の友人とその息子。
人々は彼女のことをこう呼ぶ──瘴気堕ちの聖女と。
禍々しい瘴気が漂う大地を見つめ、クウィーヴァは精霊のゾールにまたがったままフンっと鼻を鳴らす。
「臭いったらありゃしない。まったく、一体いつまでしがみついてんのか」
「でもちょっとずつ良くなってると思うんだけどねえ」
空を飛び回っていたファーガルの精霊のズーが彼の肩に止まり、顔を寄せる。
ズーの体に染みついた上空の冷えた空気と、澄んだ香りがファーガルの鼻腔をくすぐる。
「キュイイイ」
「お帰り」
甘えるように頬ずりをしてズーが翼を震わせる。
ファーガルはしばらく目を閉じてから、クウィーヴァと同じく鋭い視線を目の前の荒れ果てた地へと向けた。
「負の遺産は親の代で減らしたいねえ」
「そうね。焦りたくはないけど、できる限りはすべきだわ」
タンッとクウィーヴァは手に持った鍬を地面に突き立てる。
周囲の乾いた土の表面が揺れて、少なくない瘴気が浄化されたのが見えた。
「さすが、聖女様。でも無理はしないで」
「分かってるわ。それでも、今は私が踏ん張らないと。ずっと悲しんでばかりもいられない」
二人の遠くを見つめる目に映る景色も、蘇る光景も同じだ。
若かった二人は、この町でファーガルの母親と暮らし始めた。娘が生まれ穏やかで忙しい日々が始まる。そして授かった二人目の命。
成長を見守り、大切な母親を見送り、しばらくして訪れた悪夢。
いや、あの子は悪夢でもなくただ一人の優しい女性だった。
クウィーヴァの親友を悪夢に変えたのは、その弱さに入り込んだ瘴気だ。
「あの子が、もう悲しまなくていいようにしたい」
「そうだね」
聖女の座も教会も捨てて飛び出したクウィーヴァ。
彼女さえいれば良いと、聖人となる可能性も騎士の役目も投げ出したファーガル。
似た者夫婦と言えば聞こえはいいが、教会側からしたら無責任すぎる二人だ。
だからこそ、逃げ出した先で瘴気にとらわれてしまった親友を恨むことができない。
たとえそれで自分たちの子の命が失われたとしても。
自分たちを頼ってきた彼女を救えなかった。ただその罪悪感と後悔が胸を刺す。
「さて、二ヵ月でどこまでできるかを見て今後の計画を立てよう。年に一回が足りなければ、何回でも来よう。今の僕たちにはそれだけの意思と力があるんだから」
「ええ、そうしましょう」
太陽が高く上った昼間、草木も生えていないのにどこか薄暗い大地を見回して頷きあう。
その時、後ろから近づいてくる蹄の音に二人は振り返った。
そこには相変わらず全身鎧を着こんだ騎士ーークリストフが自分の精霊であるロッソにまたがってこちらに来るところだった。
「クリストフ」
ファーガルが彼の名を呼ぶと、クリストフはサッと精霊から降りて略式の礼を取る。
仰々しい挨拶は時間の無駄と考えるファーガルの意思に沿ってのことだ。
「周囲の確認が終わりました。予定通り野営はここから三時間ほど離れた場所で行います」
「そう。それで最初に浄化を始める予定だった水源は?」
「残念ですが、水が枯れてしまっています。浄化した水を利用することは難しいでしょう」
「分かった。それは想定内だ。ただ地下に水脈が残っていることは十分に考えられる。浄化したことで水が湧く可能性もある」
「はい。部隊にはそのまま水源周辺に残るように指示してあります」
「さすがだ」
クリストフの適格な判断に、ファーガルは妻と会話する時以外滅多に動かない表情筋を緩める。
細められた目と、緩やかに上がった口角。
嫌な予感にクリストフは全身鎧に包まれた体をかすかに震わせる。鎧の中にこもっていた熱があっという間に引いた気さえする。
「クリストフ」
「はい」
たじろぎそうになるのを押さえ、クリストフは短く返す。
ここで少しでも躊躇する様子を見せたら、ファーガルは容赦なくクリストフの評価を下げるだろう。
評価が下がるだけで済めば良いほうだ。評価にすら値しない、目の端にも止まらない存在とみなされる場合もある。
そうやって聖女の周囲から多くの騎士が遠ざけられた。
残ったのはファーガルが”まだ使える”と判断した騎士たち。その多くがクリストフも信頼できる者たちだったことは少し驚いた。
それはファーガルとクリストフの判断基準が大きく異なるからだ。
クリストフの判断基準は騎士としての身体能力に加えて、人間性や精霊との関係など総合的に判断する。
一方、ファーガルの判断基準は常に聖女であり、彼女にとって害になる者は当然外される。
彼女にとって益になる者はーーほぼいないがーーねちっこい取り調べの後にしぶしぶ、ものすごく嫌な顔で残ることが許された。
あとはファーガルが”益にも害にもならないが使える”と判断された者たち。大半はこの中に当てはまる。
クリストフはこの数少ない”益になる”と判断された者の一人だ。
特権と思うべきか、それとも残ってしまったと嘆くべきかは分からない。
少なくとも嫌われてはいないのだから喜ぶべきだろう。
彼が”益になる”と判断した理由については考えないことにする。
「ルヴァリーにあった湖を、君は覚えているかい?」
ファーガルの問いかけに、クリストフは喉が締め付けられそうになった。
蘇るのは鮮やかな水の輝きと響き渡った笑い声。
幸せの全てが詰まった情景だ。
喉奥にまとわりつく感情を追い払い、クリストフは空気を求めるように唇を動かし、声を押し出した。
「はい」
「あの場所はルヴァリーの中心に近い。水脈は必ず続いている」
「はい」
「では、予定通り水源のあった場所から浄化を開始し、湖をーーラヴェール湖を目指す」
「はい。畏まりました」
胸に手を当て、頭を下げるクリストフ。
その彼の肩にとんっと華奢な手が乗った。
クウィーヴァが長いまつ毛を震わせて詫びる。いつもの豪快な聖女ではない。傷を内に秘めた儚い姿。
「あなたにも辛い思いをさせてごめんなさいね」
「いえ。私も来たいと思っていましたから」
そう告げ、クリストフはそっと彼女から視線を逸らす。
もしくは、彼女の横で憤怒の表情になっている彼女の夫の顔から。
ファーガルはそっと妻の手をクリストフの肩からはずし、指先に口づけを落として指を絡める。
「さ、行こう。ぼんやりしている暇はないからね」
「ええ」
蜂蜜のように甘い眼差しで妻を見つめたあと、ファーガルはクリストフに鋭い視線を向ける。
「浄化準備を進めてくれ」
「はっ! では失礼いたします」
頭を下げ、クリストフは踵を返してサッと精霊の背に乗る。
再度軽く礼を取ってから彼は二人の元から離れていった。
「また意地悪しちゃって」
つないでいない方の右手でクウィーヴァはファーガルの頬をツンツンとつつく。
ファーガルは妻の可愛い仕草に顔をとろけさせつつ、わざとらしく唇を尖らせた。
「シーラからの贈り物を全部食べた罪は重い」
「あなたがまだ教会に来る前の話でしょう? それにシーラが彼に送ったものを取り上げるのは良くないわ」
「分かってる!」
「それにあの店のクッキーなら自分でも買えるじゃない」
「分かってる!」
悔し気に眉を寄せるファーガル。
クウィーヴァは唇に指先を当て、首を傾げる。
「だったら何が不満なの?」
ファーガルはぐっと唇をかみしめる。言いたくない。
だが愛おしい妻の問いかけに答えないなど、考えられない。
「シーラは、あいつに気があるのか?」
「え? シーラが? クリストフを?」
「そう。頻繁に手紙をやり取りしたり、贈り物を送ったり。しかも美味しいクッキー。シーラだったら一人で食べつくしてもいいはずなのに、よりにもよって奴に渡すなど。シーラは……す、す、す……」
その先を言いたくないというように、ファーガルは顔全体をゆがめる。
そして”す”の先を言えないまま、口を尖らせてで激しく呼吸を繰り返した。
クウィーヴァは思わず盛大に噴き出して、お腹を抱えて笑い出す。
「ふふふ! ははっ! ファーガル! なんて顔! シーラがクリストフを好きかもしれないのが、そんなに嫌なの!?」
「嫌だ!」
「ふはははははは!」
即座に強い否定が返ってきて、クウィーヴァはさらに大きな声で笑う。
ファーガルは娘の恋、かもしれない状況に顔をゆがめる一方で、妻の取り繕わない笑顔に喜びを覚える。複雑な表情を浮かべたまま、ファーガルはぶつぶつと呟いた。
「だいたい最初はシーラだって嫌ってたのに」
「危機を救い出してくれた騎士様なら惚れるわね」
「顔も見たことがないだろうに」
「顔じゃなくて性格に惹かれるなんて純愛だわ」
「クウィーヴァ! どっちの味方!?」
「シーラ」
はっきりと妻に告げられ、ファーガルの顔から表情が抜け落ちる。
クウィーヴァは右手で彼の顔を引き寄せ、頬に軽く口づける。
「あの子も十分な大人よ。応援してあげなくちゃ」
「くっ……」
愛おしい妻の言葉であっても素直に受け入れられない。
だがファーガルは長い沈黙の後、渋々首を縦にかすかに振る。
クウィーヴァはもう一度朗らかな声で笑い、長く情熱的なキスを送った。




