4-9. さようなら、いつか。
シーラとさほど身長の変わらない十二歳の少年の強い眼差しが、近い場所からシーラに突き刺さる。
どうしてなのだと不満に満ちた瞳。それを口にしないだけ良いのだろうか。
シーラはあえて表情を消し、ウサギの精霊を受け取った。
そして父親と母親に向けて告げる。
「主人をなくした精霊がとどまるのは危険です。実際、もう少し対応が遅ければこのあたりは瘴気堕ちの被害で住めない場所になっていたでしょう。精霊の状態を安易に判断しないように」
シーラの注意に両親は顔をうつむけて頭を下げる。
亡くなった娘の元にやってきた精霊を守りたいと思った気持ちは痛いほど分かる。だが瘴気がこの地に広まってしまっては元も子もない。
「娘さん……マリーヤさんも、精霊のマーニャもあなたたちが傷ついたり、命の危険に陥ったりすることは望まないでしょう」
こんな言葉は気休めだ。
だが母親は嗚咽を漏らして口に手を当てる。
父親のオズルも心痛な顔で頷いた。
シーラは親子三人を見回し、一歩後ろに下がる。
父親の手が息子の肩へと回された。
「この子をここに残していくことはできません」
ラズが前のめりになり、口を開ける。
だがその前に肩に乗った父親の手に力が入った。
ラズが父親を見上げるよりも早く、硬く低い声が響く。
「浄化士様のお手を煩わせてしまい申し訳ありません。マーニャを、よろしくお願いします」
父親と同時に母親も頭を下げる。
肩に食い込む指の力に、ラズは顔をしかめる。泣きそうになっているのは痛みゆえか。それとも心の、痛みか。
これ以上別れを引き延ばしてもと思い、シーラは踵を返す。
だが一歩進んだところで歩みを止め、体半分振り向いてラズの名を呼んだ。
「ラズ」
呼びかけに、少年は両目に涙をためた顔を上げた。
その拍子にポロリと雫が零れ落ちる。
「良いお兄ちゃんになって」
突然のシーラの言葉に、ラズはぱちぱちとせわしなく瞬きをする。
その度に涙が散って少年の頬を濡らした。
シーラは喉奥の熱を飲み込み、努めて平静な声をだす。
「死んだら、会えなくなってしまったら、どんなに大切だと思っているその思いも届かなくなる。生きている間に、声が届く間に、家族を大切にして……お願いね」
最後、声が震えてしまったのには気づかないふりをしてほしい。
少年ラズは握りしめた拳で乱暴に目元を拭い、シーラを強く見つめ返す。
ほんの数時間前に出会った時の幼さが抜けて、少し男らしさが出てきたようにも見える。
シーラはウサギの背をそっと撫でて笑う。
「これから出会うあなたの精霊との日々が長く続きますように」
シーラは最後に浄化士としての礼を取り、家を出る。
マークが支度を整えた馬車にミュー、カオドキもどきに続いて乗り込み、シーラは座席に座って家の前に並んで立つ一家へと顔を向ける。
何と呼び掛けて良いか考えあぐねていたシーラに、三人はそろって頭を深く下げた。
シーラは口を引き結び、姿勢を正して前を見つめる。
伝えたい事はすべて伝えた。ここからは、彼らが乗り越えていくことだ。
「行きましょう」
シーラの声にマークは一つ頷き、馬車を進めた。
ベンジャミンの乗った馬も横に並ぶ。
浄化士が回る区域は都度変わる。
この場所に再び来ることがあるかどうかも分からない。だから再会の言葉は告げられない。
少年が成長し、精霊と出会い、どのような人生を歩むかを知ることは無いだろう。
できるのは新しい命が健やかに育つことを願うことだけだ。
馬車が山を降り始める。
ガラガラと響く車輪の音に混ざって少年の声が聞こえたような気がして、シーラは振り返る。
遠ざかりつつある家の前で、少年が大地を踏みしめるように立ち、叫ぶのが見えた。
「また、来て! 俺の、精霊と、妹と会って!」
どうやら生まれてくる子は、少年ルズの中では妹で確定らしい。
思わず微笑み、シーラは幌のない馬車から手を振る。
約束はできなくても、その思いを受け取った証に。
「ブー」
「あ、ごめんごめん」
体をひねって後ろを向いていたシーラに圧し潰され、腕の中でウサギの精霊が不満そうな声を上げる。声というか、鼻息だ。
「ドゥ」
「ヂ」
精霊たちが長い髭を揺らしてウサギを覗き込む。
ウサギはカオドキもどきたちより二回りほど大きいくらい。ウサギとしては小さい。
背中にある翼がふわふわと揺れる。それを見ながら、シーラもふわわと小さくあくびをした。
「ちょっと疲れたな」
手を伸ばして、ミューとカオドキもどきを順番に撫でて、撫でて、撫でまわす。
今日はいっぱい頑張ってくれた。
ミューのおかげでウサギの浄化ができたし、カオドキもどきも土の浄化に走り回ってくれた。
「ありがとうね」
「ヂュ」
最後に膝の上のウサギ精霊マーニャの背に手を置いてゆっくりとなでる。
ふわふわの精霊たちの毛が温かい。
緊張と疲れからシーラはゆっくりと眠りに落ちていった。
──くるるるる
囁くような鳴き声が聞こえる。
喉を鳴らす、甘えた声。
ミューともカオドキとも違う。寂しい、寂しいと鳴く声。
そばにいてあげないと、鳴いて泣いて涙で目が溶けてしまう、そんな声。
シーラは手を伸ばして、大丈夫だと伝えようとした。
その手が、空を切る。
まるで夢の中でガクリとベッドから落ちるような感覚。
はっと息を飲み、シーラは両目を開いた。
一瞬何が起こったのかとせわしなく視線を動かし、最後に自分の膝の上に目を落とす。
「マーニャ!」
驚きに声が上がった。
「マーク、止めて! 馬車を止めて!」
考える前にマークに指示を出す。
マークは慌てることなく、巧みに馬を操り馬車をゆっくりと止めた。
その途中で振り返り、シーラの名を呼ぶ。
「シーラ様、どうされました?」
「マーニャが、消えかけてるの!」
「え?」
シーラの膝の上で丸くなっているマーニャ。
実体はまだあるものの、その体はうっすらと消え始めている。
意識しなければその存在が分からないほどに薄い。
「シーラ様、扉をお開けしても?」
馬から降りたベンジャミンの声がかかり、シーラは彼に目だけで許可を出す。
「外に」
短くシーラが告げると、ベンジャミンが扉の脇に移動してシーラが馬車から降りられるようにした。
はやる鼓動を押さえ、シーラはゆっくりと馬車から外に出た。
ふと見渡せば、シーラが寝ている間に馬車は山のふもとまで降りてきていたようだ。
ふるりとウサギの翼が動き、耳がピンッと立つ。
小さな鼻を上に向けてヒクヒクと動かす姿は、完成する前の綿菓子の様に淡い。
「そう、還るんだね」
もうほとんど消えた体をそっと撫でる。意識しなければ触れられないほど存在が儚くなってしまっていた。
輝く蜂蜜のような瞳が煌めき、ふわりとマーニャが浮き上がる。
翼がパタパタと揺れている。でもおそらく飛んでいるのは翼の力ではない。
精霊を導く見えない力がマーニャを引き上げているのだ。
ちかちかと木漏れ日が揺れる。
温かな光が、マーニャを誘っている。
こっちへおいでと。
そうすればもう寂しくないと。
「幸せに」
安らかな眠りではなく、幸福を願う。
マーニャはそれに応えるように、翼を大きく揺らしてシーラの頭上を一周回った後にすっと空気に溶けていった。
シーラはその場に立ちすくんだまま、たださらさらと揺れる木々を見つめ続けていた。




