4-7. おかえり
仁王立ちになったシーラの向かいで、ウサギがピルピルと翼を震わせている。
これじゃどっちが悪者か分からない。
そうじゃない。違う。精霊は悪くないんだ。
「瘴気が悪い。全部悪いのは瘴気。だから、追っ払うのに協力してよ、ウサギちゃん」
甘い焼き菓子のような目を細め、シーラは口角を緩める。
温かな笑み。おっかあが好きだと言った、シーラの笑顔。
「よっしゃ!」
さっと掲げたピーラーをニンジンの上に走らせる。
ミューの髭がさわっと揺れた。
カオドキもどきたちがニンジンの皮の予想落下点に集まる。
後ろ足で立って鼻をひくつかせるカオドキもどきを横目で見て、シーラはふふふっと笑った。
可愛い。ああ、なんて可愛い子たち。
精霊との出会いは奇跡だ。共に生きていけることの喜びがあふれる。
ヒラリとニンジンの皮が落ちる。
カオドキもどきがさっと一枚の皮の両端を引っ張りあって離れていく。
くるくると軽快にニンジンを回し、あっという間に薄い皮の下から艶々な肌が出てきた。
手元のニンジンをミューが覗き込んでクンクンと匂いを嗅ぐ。
「気になるの?」
「ドゥ」
「んん?」
すぐそばにあるミューの背中のほわほわにピーラーを手に持ったままの手を当てる。
と、その時、ミューが突然ニンジンを口にくわえた。
「え?」
すとっと前足を地面におろし、ミューは走り出す。向かう先は――ウサギの精霊。
「ミュー!? だめ!」
「シーラ様、いけません!」
ミューの後を追って走り出そうとするシーラの前にベンジャミンが立ちふさがる。
その間にもミューはウサギの元にたどり着いてしまう。
ゆらりと揺れるウサギの翼。そこにまとわりつく黒い影。
ベンジャミンの腕を押しのけて前に進もうとするシーラの目に、ミューが口にくわえたニンジンをウサギの目の前で噛み砕いた。
ガリッボリッというなんとも小気味良い音が響く。
「ミュー?」
驚きに固まるシーラ。
ミューはふさふさな尻尾をご機嫌に揺らして、ぼたぼたと噛み砕いたニンジンを地面にこぼす。
そしてそのうちの一つをチョイチョイっと鼻で前に押しやった。
そう、ウサギの目の前に。
「グッフ」
ミューはまるで食べろというようにツツツっと小さな欠片を何度も鼻でつつく。
シーラはベンジャミンの腕を軽くたたき、問題ないと伝える。
彼は右腕を剣に添えたまま頷いた。
「ミュー、危ないから。無理、しないで」
囁くようなシーラの声に、ミューのふさふさ尻尾がゆったりと揺れる。
まるで「心配ない」と言っているよう。
「クゥッフ」
ミューのいつもより甘く和らかな声が聞こえる。
白ウサギのピンっと張られた両翼がゆっくりと体に沿うように横たわる。
忙しなく動く長い耳。ウサギも緊張しているのだろうか。
だがシーラの緊張には勝てまい。お腹に力を入れすぎて攣りそうだ。喉奥がグギュルっと変な音を立てる。
「クゥゥ」
ミューの鼻から空気が抜けるような悲し気な音が漏れた。
シーラはいっそのこと「とっとと食え!」と叫びそうになるのを必死で抑える。
その時、ウサギの体が僅かに前に傾いた。そしてぴょんっとは言い難い、おずおずとした小さな歩幅でウサギが前に出る。
バクっとニンジンのかけらを奪い、逃げるようにして墓のすぐそばまで遠ざかる。ブワリと、黒い霞をまとわりつかせて。
「あ、効果ありそう?」
「かもしれません」
咥えただけで、瘴気が精霊の体から離れ始めている。
期待のこもった眼差しでウサギを瞬きもせずに見つめる。
何か異変を感じたのか、ウサギは閉じていた翼を広げてプルプルと震えた。
パラパラと埃のように瘴気がこぼれる。
シーラはピーラーを強く握りしめる。手袋とピーラーがこすれてキチチっと音を立てた。
温かな陽だまり。揺れる木漏れ日に照らされた空間。
時間だけが凍り付いたように止まった。
カリっと小さな、まるでおっとんが真夜中に好物のクッキーをキッチンで隠れて齧る時のような音が聞こえた。
敏感になった耳がその音を拾う。耳に集中しすぎて血管を流れる血の音すら聞こえてきそうだ。
その時一一
「!!!」
声にならない叫びが空気を震わせる。
白いウサギの精霊から膨れ上がった瘴気が、広がってはまた元の場所へと戻る。
寄せては返す波のように繰り返す瘴気の揺れ。
「がんばって。お願いだから」
あと一息、あとちょっとで深く根を下ろした瘴気を引っこ抜ける。
シーラの頭の中に村のおっちゃんの姿が浮かぶ。
野菜を引っこ抜く時の、あの完璧な腰の溜め。
ぐぐぐっと力を入れて、野菜の向きに逆らわずにずぼっと一気に。
「んむむむむ」
きつく結んだ口から何かを踏ん張っていそうな声が出る。
いきみすぎて、出てはいけないものがでたら乙女として危ない。
シーラはふーっふーっと自分を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。
ウサギは翼をピンっと張り、食いしばるように体を固くする。
精霊も瘴気を追い出したいはず。
ミューが瘴気堕ちしかけた時、ミューも徐々に理性が戻ってからはシーラが瘴気を払うのに協力してくれた。
このウサギだって、きっとその思いは一緒だ。
緊迫した空気の中、ウサギが力を込めてニンジンを噛み砕く音が聞こえた。
「!!!!!」
ガリガリガリと、ウサギはものすごい勢いでニンジンを食べ始めた。
まるで苦い薬を一気に飲み干す時のシーラのようだ。
ウサギの周囲に漂っていた黒い霧のような瘴気が濃さを増し、渦を描く。
絡みつく瘴気の根元が細くちぎれ、ウサギの体から離れていく。
シーラは目を最大限に見開き、瘴気の揺れを見守る。
まだかまだかとはやる気持ちを抑え、前のめりになってその時を待つ。
そしてついに――ウサギが絡みつく瘴気を追い払うようにバサバサと強く翼をはばたかせた。
「ブー!」
小さな体を精一杯に伸ばし、顎を空に向けるように突っ張ってウサギが鳴いた。
鳴き声にしてはやや情けない音。
それでもシーラはそれが精霊の最後の抗いの叫びに聞こえた。
直後、シーラはその場から駆け出した。
「シーラ様!」
ベンジャミンの声を振り払い、ウサギの元へとまっすぐに進む。
「ヂィ!」
いつの間にか、カオドキもどきもシーラの足元をすり抜けて前を走っている。
ミューもトコトコと地面に倒れ伏せたウサギの元に近寄る。
パタパタと長い上着が足に絡みつく。短い距離が遠い。
服が汚れるのも気にせず、シーラは滑り込むように地面に膝をつく。
両手を伸ばしてそっと横たわるウサギに触れた。
「がんばった、がんばったね」
ぽろぽろとこみ上げる涙を落とし、シーラはウサギを胸元に引き寄せる。
もう亡くなって会うこともない主を守り、瘴気に侵されても耐え続けた精霊。
腕の中のウサギは軽く、小さくて頼りないのに、どれほどの想いを持ってここに立ち続けたのか。
可愛くて、可哀そうで、涙が止まらない。
「ミュー、ありがとうね」
「ドゥ」
手を伸ばして、そばにあるミューの顔に触れる。
もっとというように顔を近づけるミューに、シーラも顔を寄せた。
「無茶、するんだから」
びっくりしたんだと文句を言えば、後ろからため息交じりな声が届いた。
「それはこちらのセリフです。精霊はもう問題ないのですか?」
「あ、うん。ごめん。もう大丈夫だから」
「そうですか」
ベンジャミンは頷き、後ろを向いて遠くにいるマークとオズルに合図するように手を挙げた。
それを見て二人が小走りにやってくる。
マークは安堵を、オズルはどこか戸惑った表情を浮かべて。
シーラは微笑み、まずはマークに礼を告げた。
「ほら、マークのおかげで浄化が上手くいったよ。ありがとう」
「いえ、出しゃばってしまいました」
「ううん。浄化士としてまだ未熟だから、意見をもらえるとすごく嬉しい。この子を傷つけずに浄化出来て良かった」
シーラの言葉にマークは柔らかく微笑む。毎日外を歩いて日焼けした顔にできた皺が深くなった。
シーラは腕にウサギを抱えたままゆっくりと立ち上がる。
そしてどこかまだ困惑した様子のオズルの前に進み出た。
「娘さんの、精霊です。息子さんのルズ君が名前を付けてませんでした?」
「マーニャ……娘のマリーヤの精霊だと。ほ、本当に? あの子の」
三歳で死んでしまった幼い娘。成長する姿も、心具を授かる姿も見ることは叶わなかった。
それなのに精霊がこうしてやって来るとは。
信じられない思いでシーラの腕の中を見つめるオズル。
その目の前で、ウサギが僅かに身じろぎした。
「あ、気づいたのかな? おーい、マーニャ?」
のんびりした声でシーラはウサギの精霊、マーニャの顔を覗き込むようにして首を最大限右に傾ける。
ゆっくりとウサギの目が開き、シーラに気付いてぴんっと耳と翼を立てた。
「おっとっと。まだ動かない動かない」
広がった翼が当たらないように、シーラはウサギの胴体を両手で持って自分の胸元から離す。
その時、正面に立っていたオズルが驚きの声を上げた。
「そ、その目」
「え?」
シーラはプランっとマーニャを掲げたままきょとんとする。
オズルは大きく一歩近づき、ウサギの瞳を凝視する。
「目の色が、あの子と一緒だ」
彼の呟きに、シーラはウサギの体をくるりと回して瞳の色を確認する。
勝手に赤だろうと思っていたウサギの目は、琥珀のような黄色を帯びた茶色だった。
もしくはシーラの大好きな蜂蜜がたっぷり入った瓶の色だ。
どこか憮然とシーラを見つめ返すマーニャ。恩人への感謝の気持ちは全くなさそうな不機嫌顔だ。
「抱いてみます?」
プランっと後ろ足を揺らしてシーラはウサギを前に突き出す。
オズルはわずかに迷った後、ウサギを受け取ってそっと胸元に引き寄せた。
「軽い、ちっこいなぁ」
筋肉流々としたオズルの腕の中で、ウサギは満足げに「ブー」と小さく鳴く。
大きな手でオズルはウサギの翼の間から背中をゆっくりと撫で、呟くように告げた。
「マリーヤも小さくて、軽くて、俺が抱いたらつぶれちまうんじゃねえかって。羽みたいに軽いって言ったんだ。本当に、どっかに飛んでっちまいそうで……」
涙声を漏らし、ぐっとオズルが喉を詰まらせる。
うなだれたオズルの鼻先に、マーニャが小さな鼻を寄せて翼を震わせた。
たった三歳で生涯を終えた娘。
その重みを思い出すように、オズルはウサギの精霊をぐっと抱きしめる。
シーラはカリカリとミューの頭を掻きながら、小さなお墓のそばで揺れる花を見つめていた。




