2-5. 記憶をくすぐるにおい
食堂から人がほとんどいなくなり、入れ替わりに入ってきた男女。
おそらくいつも時間ギリギリになって来るのは周りへの配慮からだろう。
田舎で頻繁に嗅いだ覚えのある臭い。馬糞や腐葉土の臭いが二人のうちの一人から漂っている。
「懐かしい臭い」
「はは! いいね、シーラ。おーい、遠慮せずに、こっち座りな」
いつも彼らが座っている場所にシーラがいるのを見つけ、二人が足を止めそうになったところでユーリカは彼らを呼び寄せる。
シーラもペコリと頭を下げると彼らは安堵したように足を進めた。
馬糞臭がするのは男性。髪が腰に届くほど長いが、ぐちゃぐちゃに絡まっている。どこかねっちょりべっとりしたものがついているが、何だろうか。
もう一人の女性が近づくと、ふわりとなんとなく生臭い臭いがした。真夏の沼地で嗅いだことのある臭いだ。
彼女は見た目はユーリカよりもよっぽど小綺麗にしている。顔だちも優し気でふわふわとした金の巻き毛が似合っている。
「新人さん?」
女性の声がする。朝から聞くには少しなまめかしいというか、ぞくっとする色気のある声にシーラは背中を揺らす。
「ああ、シーラ、浄化士だって。土系だと」
「あら、残念。水のほうにも協力して欲しかったのに」
「くそ、動物系、いつ、来んだよ」
女性はユーリカの隣、男性は少し迷ってシーラの隣にわずかに間をあけて座った。
臭いと髪の毛に気を取られていたが、この男性、相当顔が良い。野性味と色気が共存している。
おっとんの絵のモデルになったら最高なのではないか。こげ茶色の髪の毛をちゃんと整えて、馬の隣に立ったら全馬の精霊が寄ってきそうな雰囲気を持っている。
「土系ってなんなん?」
シーラは最後にとっておいた果物に手を伸ばす。
不思議な臭いが周囲に漂っているが、田舎に住んでいれば慣れたもんだ。馬のローの手入れだって足の悪いおっとんの代わりにシーラがやっていたのだし、全く気にならない。
厩でローにもたれて食事をしたことだって何度かある。
「シーラの精霊は土に潜って土の浄化をするのが得意なんだろ?」
「あ、うん。そうそう。良く畑とか山とか入っとる」
「それだよ。浄化が得意な場所ってのがあんだよ」
「へぇ、初めて知った」
もう食事時間が限られているからか、横の男性がすごい勢いでがっつきだす。色男なのに、もったいない。
女性のほうはと言えば、時間を気にした様子もなくゆっくりとスープを口に運んでいる。あまりに悠長すぎてシーラのほうが心配になる。
「こっちのキャンディスは水系、んで、ネストルは動物系だ」
「キャンディスよ。よろしく。キャンディーって呼ぶのはやめてね。キャンちゃんだったらいいわ」
ふわりと笑みを浮かべるキャンディス。
一方のネストルはパンを持った左手を顔の横に上げ、すぐに食事に戻った。やや残念臭がする。いや、におっているのは馬糞臭か。
「キャンちゃん、水系って心具は何?」
「あら、早速呼んでくれた! この子、いい子! いい子ね、ユーリカ!」
「いいから、食べなって」
嬉しそうに両手を組んで感動を現すキャンディスに、ユーリカが横からスプーンを差し出して口の中に豆の煮ものを詰め込む。
キャンディスは大人しくもぐもぐと咀嚼を始めた。これは答えが返ってこないかと思えたが、代わりにユーリカが教えてくれた。
「キャンディスの心具は手鏡。精霊はちょっと凶暴だから気をつけな」
「はい」
水系で凶暴な生物を思い浮かべながらシーラは素直に頷く。
それにしてもユーリカはどう見てもキャンディスとネストルの世話係だ。もしかしたら同じ部隊にいるのかもしれない。
「ネストルのほうは、臭いで分かるけど馬だな。馬のブラシが心具だ。あ、それと私の心具は枕」
「へ? 枕?」
枕とはあの枕だろうか。シーラがまじまじとユーリカを見つめると、彼女はばりばりと頭を掻いた。
土がぱらぱらと舞って隣のキャンディスが手をひらひらと振っている。全く効果がない気はする。
「そ。枕。浄化の間、ずっと寝てられる」
「くふっ、それ、いいなぁ」
「シーラのは?」
「あたしのはピーラー。野菜の皮剥くやつ」
そう言ってシーラが皮むきの真似をするとユーリカが目を細めた。
「ヘー、いいね。料理できるの?」
「まーったく。ぶきっちょなもんで。だからピーラーを崇めてたら心具に」
「なるほど!」
シーラの言い方がツボだったのか、ユーリカは膝を叩いて笑う。キャンディスとネストルも食事を続けながら口元を緩めた。
ユーリカはテーブルに肘をつき、口の端をゆがめてシーラに告げる。
「シーラ、教会育ちの奴らには気をつけな」
「なんで?」
先ほども教会育ちの治癒士を嫌っていそうな発言をしていた。嫌味っぽいことを言われているようだが、ほかにも理由はありそうだ。
「たまに良いやつもいるけど、たいていは他の心具を見下す奴らが多い。教会育ちが持つ心具は男なら武器、女ならペンダントなどの装飾品だ。外育ちで剣を持つ奴もいるが、たいていは浄化士になる。武器持ちで治癒士なら教会育ちだ」
ユーリカの説明にシーラはふと疑問がわいた。クリフは剣を持っているが浄化士だ。ミューとシーラを浄化したのだから間違いない。
てっきり教会育ちかと思っていたが、もしかしたらそうではないのかもしれない。
「心具は心のよりどころだ。それを笑う奴らを私は信用しない。もし笑ってくる奴がいたら、近づくなよ。自分の心具に疑いを持ったり恥だと考えたら浄化の妨げになる」
「分かった。あたしは、あたしのピーラーが誇りだから絶対にそんなこと思ったりしない」
「そう、それでいい」
おっとんとおっかんの愛情があふれたピーラー。心具になるのはこれしかないと思っていた。
だからピーラーを笑う奴がいたらそいつはシーラの敵だ。深く頷くとユーリカも頷きを返す。
「さて、シーラの研修はどこだ?」
「どこって、ここで待てとしか言われてなくて」
「ああ、ファリン女史が来るんだな」
「ファリン女史? 眼鏡の人?」
「そうそう。精霊大好きファリン女史」
「ぷふっ」
「くくくっ」
「ふふっ」
ユーリカの言い方が面白くてシーラは思わず笑ってしまう。
キャンディスとネストルも肩を揺らして笑っている。どうやらファリンという女性の精霊大好きは周知の事実らしい。
「あ、噂をすれば」
「あら、ユーリカさん、私の噂を?」
「そうそう。ファリンさんに任せておけば研修はばっちりだってね」
入り口から入ってきたファリンに向かってユーリカが片手を上げる。
ファリンはユーリカの言葉に眼鏡の中央を押し上げて薄く笑う。どういう意味の笑みなのか分からないのが怖い。
「シーラさん、食事は終わりましたか?」
「はい、終わっています」
「では、トレーはあちらに片付けていきましょう。それから三人とも、前から言っていますが食堂では清潔に」
「はーい」
全く堪えた様子のないユーリカと、少し肩を縮めるキャンディス。ネストルは豆の煮ものをがっついていて聞こえていないようだ。やはり残念臭だ。
シーラが立ち上がって、そんな彼らに頭を下げる。
「それじゃ、行ってきます。明日も、ここに座っていい?」
「もちろん。頑張ってきな」
「頑張ってね!」
「がんば」
三人からの激励にシーラは満面の笑みを浮かべ、トレーを持ち上げる。
そして食器の返却に向かおうとしたところで、ファリンがシーラを呼んだ。
「シーラさん、こちらの三方と仲良くできそうです?」
「はい。もちろん」
唐突な質問に驚いたが、迷いなくシーラは答える。ユーリカが頬杖をついたまま柔らかな笑みを浮かべるのが見えた。
ファリンは少し考えて今度はユーリカへと視線を向ける。
「シーラさんの研修先はアーゲルさんの部隊なのですが、あなたのところも配属の候補に挙げても?」
「もちろん。シーラなら大歓迎だ。アーゲルのとこで欲しがったら戦うぞ」
「それはやめてください。アーゲルさんのところは二年前に配属された浄化士がいるので教育には適していると思いますが、実際の任務ではもしかしたらあなた方のほうが動きやすいかもしれません。またアーゲルさんを交えて話しましょう」
「了解」
どうやらシーラが研修を行うのはアーゲルという人の部隊らしい。
だが実際の配属先はまだどこになるのか未定のようだ。
研修の間もこれから毎日朝食の場でユーリカたちと会うことになる。
今日の短い時間でもたくさん勉強になることを教えてくれたユーリカ。もし彼女の下で働くことになったらとても楽しそうだ。
「それじゃ、行きましょう」
「はい!」
ファリンの声に、シーラは大きく頷き、もう一度三人に向けて頭を下げる。
がらんと人がいなくなった食堂で、三人は自然な姿で手を振り返してくれた。
ネストルの左右の手に牛乳とスプーンが握られていたことだけが、とても残念臭いっぱいだった。