1-13. シーラの手紙
第一章 最終話となります。サイドストーリ―的なお話を続けてあげています。
尚、第二章の連載開始は4月26日となります。
人差し指を鼻の下に当て、クウィーヴァはゴシゴシと乱暴にこする。ズビビっと鼻を鳴らす彼女に、ファーガルはポケットから取り出したハンカチを渡す。
「浄化がホコリに効かないってのは本当に不便」
「確かに。これを掃除する侍女さんたちにはちゃんと謝るんだよ」
「はーい」
荒れた部屋を見回して告げたファーガルに、クウィーヴァは豪快に鼻をかんでから素直に応えた。
憂いはもう晴れたのだから、この部屋に人を入れても当たり散らすようなことはないはずだ。
「クリストフ、君もそこに座って。見上げてると首が辛い」
「はい。失礼します」
全身鎧はそう言って折り目正しく礼をしてから、ソファにことさら慎重に腰を下した。
キイっとかすかな音を立て、ソファのクッションが鎧男の重みを受けて沈む。
それから男はゆっくりとかぶっている兜を外し、顔を左右に振って顔にかかる髪をよけてから、姿勢を正して正面に座る聖女クウィーヴァと彼女の夫ファーガルへと冷静なまなざしを向けた。
その顔の半分に刻まれているのは、赤黒い瘴気焼けの痕。
ファーガルは驚いた様子もなく彼の顔を見つめ、それから話を切り出した。
「改めて一ヶ月前、娘を助けてくれたこと、感謝するよ。御覧の通り、聖女様の大事な大事な、本当に大事な子だからね」
「シーラが落ち込んでなかったかとか、無理してなかったかとか、聞いても全然答えられなかったけど」
「こらこら」
クウィーヴァがけっと鼻を鳴らすのをファーガルはなだめ、口を左右にひき伸ばして薄い笑みを浮かべる。
その目には感情のかけらが皆無で、この場に彼の娘がいたなら別人だと思っただろう。だが幸いにもここにシーラはいない。
「それで、クリストフ、いや、クリフ、と呼んだ方がいいのかな?」
ファーガルの呼びかけに、クリストフはピクリと瞼を揺らす。しかしそれ以上の動揺は見せずに低い声で「クリストフと」とだけ返した。
ファーガルは特に気にした様子もなく頷いて話を続ける。
「あの時、君がいてくれて本当に助かったよ。私だったら大切なシーラの精霊を殺してしまうところだったからね。あの子の悲しい顔は見たくないんだ」
娘の話題の時だけは眼差しを緩めてファーガルは告げる。それから突如、鋭い視線をクリストフに向けた。
「それで、シーラに手を出したりはしてないだろうね?」
「全くそんなことは!」
クリストフは膝に手を置いたまま、首を左右に振る。ファーガルと、ついでに彼の隣にいるクウィーヴァにも疑いの目を向けられて、着慣れた鎧の中でタラリと汗を流す。
「そうか。今後もそのようなことはないように。それとこれは、シーラから預かったものだ」
そう言ってファーガルは折りたたまれた紙片をクリストフに差し出す。彼は両手で受け取り、了承を取ってからそれを広げた。
――くりふさま、ありがとう
紙の範囲ぎりぎりまで使って書かれた、短くつたないメッセージ。一瞬脳裏にシーラの声と顔が浮かび、クリストフは思わず目元を緩めた。
しかしその表情を見て、ファーガルはぴしりと指先を彼の前に突き付けて叫ぶ。
「ほんっとうに、なんっにも、ないんだな?」
「は、はい!」
クリストフは慌てて背筋を伸ばし、勢いよく顔を縦に振る。先ほどよりも厳しくなったファーガルの目つきに、喉奥がぐっと締まる。
「それで?」
「はい?」
「シーラに返事を書くんだな?」
「え? はっ! できれば書かせていただきたいと!」
「ふん、ならいい。シーラの頑張りを無視することは許さんからな」
「はい」
神妙に頷くクリストフに満足げにファーガルはよろしいと呟く。
その直後、愛する妻が発した言葉にぴくりと体を震わせる。
「でもクリストフとシーラの出会いは私たちのことを思い出すわよねぇ」
「クウィーヴァ、あれは素晴らしい出会いだった。でもシーラにはまだ早いから」
「私は十五だったわよ。シーラはもう十七じゃない」
「今は瘴気焼けが治っていないから、家から出せない。クリストフも、勘違いはするんじゃないぞ」
「はい」
夫婦の出会いとその後に続く騒動は、世代の違うクリストフでも聞いたことがある。
目の前にいる本人たちがいまだに熱い様子なのは、いいことなのだろう。ただそれに自分を巻き込まないでほしいと目をそらす。
結局クリストフはその後も何度かシーラに手を出すなと念を押され、部屋を退出した。
シーラへの手紙の返事はファーガルが帰るまでに書くこともしっかりと約束して。
重厚な扉がゆっくりと締まり、クリストフとその精霊の気配が去る。
クウィーヴァは頭をファーガルの肩に預け、彼の横顔を見上げた。
「ねえ、気になってることがあるんだけど」
「どうぞ?」
妻が何を気にしているのか知っていながら、ファーガルはその声を聴きたくて先を促す。
クウィーヴァは左手を伸ばし、ファーガルの右太ももに乗せる。そこから感じるべき気配が全くない。
「瘴気焼けは、どこに行ったの?」
「シーラがね、一週間くらいで」
「え?! 本当に」
ガバリと顔を上げる妻の凶器と化した頭をすっと避け、ファーガルは頷く。
「本当。僕もね、びっくりだよ」
「本当、なのね」
聖女が喜びよりも苦痛に満ちた表情でファーガルの太ももを撫でる。
クウィーヴァは聖女だ。彼女だって、一年に数回しか会えない夫の足を何度も浄化してきた。
何年もかけてゆっくりと。それを、たったの一週間で完治に近い状態にしてしまう。
それは明らかに、シーラの浄化の力が異常に強いことを示している。
「シーラの親精霊には、子精霊が二十体ついている」
「え?」
元々大きな瞳を限界まで広げるクウィーヴァ。零れ落ちてしまいそうに大きな瞳には、驚いた顔も可愛いとデロデロに溶けたファーガルの顔が映る。
ファーガルは指先で彼女の横髪をそっと撫で、愛娘の精霊について報告する。
「クリストフにも言っていない。シーラにもちゃんと教えて、いつもは四体を除いて森や畑にいるようにさせている。おかげでうちの村の土地は、瘴気なんて一切受け付けない健康な場所になったけどね」
浄化の力を持つシーラの精霊たちが土の中を駆け巡るおかげで、瘴気が入り込む余地が全くないほどに土地は常に浄化されている。
もちろん、シーラは毎日ネズミたちにピーラーをかけて浄化をし、タロ芋化して動けなくなるのを防いでいる。
「あの力で巡業したら、どれほどの町や村を救うんだろうね」
ファーガルは真剣みを帯びた眼差しで壁に飾られた肖像画を見つめる。
腕を伸ばし、もう一度妻の頭を自分の肩に寄せる。そして少し癖のある髪の毛を撫でながら、優しく告げた。
「でも、まだ教会には渡さないから。あともうちょっとだけ、愛娘との再会は待っててね」
「分かった。あたしだって、シーラをこのままの教会に来させられないからね。中で頑張る」
「ほどほどに」
ぽんぽんと頭を撫でるとクウィーヴァは気持ちよさそうに目を細める。普段の彼女しか知らないものが見たら、猛獣が懐いている姿に驚愕しただろう。
「そういえば、足が治っちゃったら、杖はどうするの?」
「うーん、今年と来年はごまかせると思うんだよね。どうしようねえ」
そう言いながらファーガルは横に置いた杖に左手を伸ばす。それから左足で杖を床に固定し、丸い杖のヘッド部分を回した。
カチっと微かな音がして、握り手と柄の間に数ミリの隙間ができ、そこから鈍い銀色の金属が顔を覗く。
『キュイイ』
それに反応するように、精霊のズーが首を伸ばして羽をばたつかせた。ピンクの熊がなだめるようにその羽に鼻面を数度押し付ける。
「瘴気焼けは治っても、衰えた足は治らないとかでごまかせないかな」
おどけた風に告げてファーガルは杖を元の状態に戻す。持ち手をクルリと回し、彼は片手で杖を誰もいなくなった正面のソファにぽんっと放った。
精霊のズーが軽く羽ばたき、熊の背中からソファの上に移動して翼を休める。巨大な熊もソファの足元に陣取ってクワアっと大きな口を開けてあくびをした。
「シーラがここに来るのが楽しみだ。そうしたら僕も戻ってこようかな。内緒にしてさ、驚かせるのとか」
「あたしが名乗り出られないの分かってて、あなただけ勝手はずるい。せめてあの子の環境が落ち着いてからよ」
「分かった分かった。それじゃ、しばらくは大人しくしてる。でも助けが必要になったらすぐに呼んで」
「うん。頼りにしてる。ありがとう、ファーガル」
「どういたしまして」
寄り添い、二人は指を絡めて手をつなぐ。離れている時間は長いが、心の絆は何にも勝って強い。
いつかきっと家族三人がそろって笑いあえる日を夢見て、二人は限られた時間、寄り添って過ごした。
シーラが瘴気焼けの治療を終えて教会に浄化士としてやってくるのは、この日から約二年後のこととなる。