1-12. シーラの肖像
馬のローが引く荷車に乗り込み、絵を縛る縄を確認しておっとんが満足げにうなずく。
その横でシーラがおっとんの旅の荷物が入った袋を持ち上げると、おっとんは慌てて荷台から降りてきた。
「シーラ、無理しないで」
「無理じゃないし、腕で支えてるから痛くもなんともない」
「でもねえ」
「それより、杖も持ってくん?」
荷車の端、御者台に置かれた杖を見てシーラは尋ねる。
おっとんの瘴気焼けはすべてシーラが癒した。歩行にも支障がないはずで、もう家の中でも杖は使っていなかったのに。
そんな問いかけに、おっとんは眉を八の字に寄せて困ったように告げた。
「いきなり治ってたらシーラの力が教会に伝わってしまうんじゃないかと心配でね。今年は杖を使うようにするよ」
「あー、そういうこと。気を使わせてごめんね」
「来年はシーラの治療の進み具合によるかな。とりあえず今年だけね」
「うん」
おっとんの気遣いにシーラは素直に頷く。頼りなさげなおっとんだが、やっぱり敵わない。
瘴気堕ちが出た時も冷静だったし、判断に迷いがなかった。やはり重ねた経験が違う。
「今年も、教会に行く?」
シーラは肩に上ってきた子ネズミの首をくすぐりながら、おっとんの目を見ずに聞く。
毎年の習慣だから答えが同じだと分かっていても。
案の定おっとんは短く「行くよ」と告げる。シーラは頬をネズミに寄せて曖昧に頷き、着ているエプロンのポケットから折りたたまれた紙を取り出しておっとんに渡した。
首を傾げるおっとんにシーラは少し迷い「開けて」と促す。
言われるままに紙を広げたおっとんはそれを見て目を細めた。
「クリ……フ様にかい?」
「そう。お礼。会わなかったら渡さなくていいから」
「騎士様は忙しいからね。でも誰かに託すこともできるかもしれないし。できる限りやってみるよ」
「ありがとう」
シーラは頷く。
おっとんに渡したのは、シーラがクリフに宛てたお礼の手紙だ。
まだまだペンを上手に握れないシーラは、おっとんの絵筆で紙いっぱいに「くりふさま、ありがとう」と書くだけで精いっぱいだった。
まるで字を覚えたての子供のような文字。あの騎士が喜んで受け取るとは思えないが、おっとんが騎士に会える可能性も低い。
自己満足にしかならないけれど、やらないよりはまし。それくらいの気持ちでいる。
「それじゃ、気を付けてね」
「ああ、シーラも。何かあったら村の人に助けてもらいなさい」
「うん。大丈夫」
任せなさいと胸を張るシーラに、おっとんも小さく頷く。それからおっとんが馬のローに声をかけると、ガラガラと荷車が進みだした。
「行ってらっしゃい!」
「行ってきます!」
大きな声であいさつを交わす。
これから十日間、二人暮らしの家はシーラー人になる。
寂しさもあるが、いずれここを出ていくことを思えばなんてことない。
「グッフ」
「ヂヂ!」
自分たちもいるのだと主張するようにネズミたちが鳴く。ポンポンっと親精霊の首筋を撫でシーラは大きく息を吐き出した。
「さ、そろそろあんたたちの名前を決めないと。この十日間が勝負だから」
「グゥッフ!」
「ヂヂィ!」
ネズミたちが喜びの声を上げる。遠ざかっていくおっとんの背中にもう一度大きく手を振り、シーラは家の中へと戻っていった。
石造りの廊下にゆったりと低い足音が反響する。
時折、テンポが外れたようにカンッと高い音が響く。それは足音の主が持つ杖が奏でている。
「ファーガル様、お待ちしておりました」
廊下の途中、聖職者の装いに身を包んだ男性が頭を下げる。それに一切の反応を示すことなく、杖を持った男は足を進めた。
『第一級聖騎士クリストフをここへ』
男の肩に止まった鳥が、ギシギシと機械仕掛けの声を発する。
不気味なその声に聖職者は身を震わせる。すぐ恐れを浮かべた顔を隠すように慌てて腰をかがめ、礼をして足早にその場から立ち去った。
ファーガルと呼ばれた男は足を止めることなくそのまま歩き続ける。
彼の足音と杖の音、時折彼の鳥が時折「ゲェッ」と嘴を震わせて鳴く。
大人が何人も立てそうに広い通路には、この世界に顕現した数多の精霊たちを模した彫刻が等間隔に並ぶ。
中でも、教会に貢献し力を振るったといわれる聖人、聖女たちの精霊は大きく威厳のある姿で静かにたたずむ。
その時、周囲の空気を震わせるような獣の咆哮が響き渡った。
ファーガルは一瞬足を止め、口元を緩める。肩に止まった鳥もせわしなく翼をばたつかせた。
獣の声は廊下の突き当り、成人男性よりもはるかに高い両開きの扉をビリビリと振動させてる。
この扉の表面にも、数多くの精霊たちが隙間なく彫り込まれている。だがその芸術的な造形よりも目をひくのは、左右の扉二枚ともに深く刻みつけられた獣の爪痕。明らかにこの扉の奥にいる猛獣によるものだ。
『聖女様、ファーガルが定期報告……』
ーードガアアン!
ファーガルの名を鳥が告げた途端、中から轟音が響き渡った。ファーガルは苦笑を浮かべ、今度は自分の口で名を告げる。
「ファーガルだよ。入るね」
親しい間柄の相手にするかのように言い、ファーガルは返答が来る前にその扉を押し開けた。
途端、中からピンク色の塊が飛んできてファーガルは身構える。
『クウウウオオオオ!』
先ほどまでの叫びとは全く違う、甘えた鳴き声を上げたそのピンクの熊は、ファーガルを押し倒し、首元から顔までを勢いよくべろべろと嘗め回し始めた。
『キュイイイイ!』
たまらずファーガルの肩から鳥が飛び立ち、文句を言うように高く叫ぶ。
「ちょ、ま、待って。ゾール、待っててば、ゾー、ぶふぇ、ゾールウウウウ」
情けない声を上げるファーガル。
だが彼の位置からは見えない熊の背中から降ってきた声に、起き上がるのを諦めてパタリと両腕を床に落とした。
「シーラ! シーラは無事だったの!? 瘴気堕ちに襲われたって。あの鎧人間の報告じゃ全っ然、分かんなくて。シーラ無事よね? 顔は? あの子の顔は?」
「クウィーヴァ……、落ち着いて。シーラは元気だから」
「本当!?」
「うん、本当。とりあえず、ゾールをどかしてくれないと、君の綺麗な顔が見えなくて辛いんだけど」
今もグルグルと甘えて顔を押し付ける熊の首元を撫で、ファーガルは熊の背に乗る人物へと優しく声をかける。
するとピンクの熊が数歩後退し、ファーガルの上からどいた。
ファーガルがよっこいせと呟きながら手を床について上体を起こすと、巨大な熊の影からほっそりとした女性が姿を現す。
「クウィーヴァ」
ファーガルは眩しいものを見るように目を細め、彼女の名を呼ぶ。
タイトなズボンとシンプルな白いシャツ、無造作に高い位置で結ばれた髪の毛は少し癖があり、彼女の意思の強い顔を飾っている。
だがそんな彼女の口から洩れた声はとても弱弱しいものだった。
「ファーガル」
声と同じく感情豊かな瞳を潤ませたクウィーヴァ。
ファーガルは吐息だけで笑い、床に胡坐をかいて手を広げた。
「ほら、一ヶ月、よく頑張ったね」
「ファーガルウウウウ! あんの、あほども! あたしの娘が苦しんでるっていうのにさ! ちきしょおおおおお!」
美しい顔をゆがませて怨嗟をこぼし続けるクウィーヴァを抱きしめ、ファーガルはポンポンと背中を撫でる。
聖女が住まう区画に入って誰もいないことに懸念を抱いていたが、聖女本人が荒れ狂っていたのだろう。
埃っぽくなった部屋を見回してファーガルはため息を吐く。
「また侍女たちを追い出したの?」
「暴力は振るってない。ゾールがちょっと不機嫌になっただけ」
「ゾールが不機嫌だと怖いからねえ。でもちゃんと食べないとだめだよ」
手のひらから伝わる愛おしい女性の痩せた体を気遣う。
怪我を負ったシーラ本人はしばらく動けなかったこともあり、だいぶ艶々とふくよかになっているというのに。
それからファーガルは部屋の一角、そこだけは綺麗に整えられた場所を見て目元を緩めた。
壁には大きなネズミ型の精霊に凭れて微睡む少女の姿がある――シーラだ。
「今年の絵、もう届いたんだね」
「あたしの機嫌を取るためにすぐに運んだみたい。だったら毎年すぐに持ってこいっての」
「はは! それは僕も賛成だ」
毎年聖女に献上される絵。検査だか安全の確保だか全く信用できない理由で数か月は留め置かれている。それが数日もしないで彼女の元に渡るとは。
呆れた顔を隠すことなくファーガルは不機嫌そのものの顔のクウィーヴァの頬に口づけを落とす。それからそっと彼女の手を引いて立ち上がる。
二人寄り添い、淡い色で描かれたその肖像画の前に立つ。
ピンク色の熊ゾールの上には、いつの間にか七色の尾羽を持つズーが羽を休めていた。
「シーラの精霊はネズミなのね。可愛らしいわ。シーラに似合ってる。柔らかな雰囲気がぴったり。子精霊たちも可愛い」
「そうだね。あー、クウィーヴァ、一つ、ちょっと言っておかないといけないことが」
ファーガルは絵に描きこまれた四匹の子ネズミたちを見て切り出す。
だが全く同時に、扉がノックされて彼は口を閉じた。
「第一級聖騎士クリストフ、参上いたしました」
「クリストフ?」
「ああ、僕が呼んだんだよ。――入りなさい」
「失礼いたします」
クウィーヴァを促し、ファーガルは服が積みあがったソファの前に立つ。
それらを適当に足元に落とすと埃が舞い上がり、二人そろって咳き込んだ。
その光景に、部屋に入ってきた全身鎧が立ち止まる。鎧姿の人物の隣には赤く光る鹿。
「あー、あかん。は、鼻が……ぶっしゃあ!」
色気のかけらもない聖女のくしゃみに、鹿が「キュイ」と鳴いて首を傾げた。
クウィーヴァ…言いにくいし打ちにくい名前。アイルランド系。ちなみにファーガルとシーラもアイルランド系の名前。