1-11. 礼儀は守る
「ひぃ!?」
入り口から差し込む光を受け、鎧男の長剣がギラリと鈍く輝く。
シーラは思わず身を守るように両手を胸元に当てて体を引いた。
そこに鋭い切っ先が向かう。凶器とシーラの間には子ネズミー匹がはいる隙間もない。
突き立てられると思った瞬間、周囲を赤い光が照らした。
「え?」
いつの間にか閉じていた両目をそっと開ける。
男の隣に立った鹿が、彼の後ろから覗き込むようにシーラの包帯に覆われた両手を見ていた。
「え?」
もう一度シーラの口から困惑した声が漏れた。
顔をせわしなく目の前の兜と剣と鹿の間を行ったり来たりさせて首を傾げる。
直後、ふわりと自分の体の周囲から黒いもやが立ち上って消えるのが視界の端に映った。
「えっと、今、浄化、しました?」
胸の前で両腕を交差させたまま、シーラは兜の隙間から見える男の瞳を伺う。鹿の赤い炎を受けて、チラチラと仄かな光が奥から漏れる。
カシャっとかすかな音を立てて男は頷き、それから高い音を立てて剣を鞘に戻した。
聞きなれないその音にシーラは小さく体を跳ねさせ、いまだ煩い鼓動を抑えて彼の動きを目で追う。
鎧男はシーラに背を向けると、厩の隅に置いてある袋を手に取る。それが彼の荷物の全てらしい。
「あ、待って。まだ行かないで」
厩の入り口に向かおうとする鎧男の前に回り込み、シーラは彼を見上げる。
男はシーラを押しのけようとはせず、無言で足を止めた。
「その、浄化、ありがとうございます。それと私の力も浄化があるので、この手を治してちゃんとヒーラーとして動けるようになったら教会に行きます。その時にはまたちゃんとお礼をさせてください」
シーラの言葉に兜がわずかに上下に揺れる。それを諾と取ってシーラはほっと息をつく。
それからシーラは慌てて言葉を続けた。
「あ、一つ! 教えてほしいことが!」
全く反応が返ってこないが、動き出さないということはシーラの言葉を待っているということだと判断する。まったく、馬でも牛でももうちょっと感情を出すものを。
シーラは大きく息を吸って詰まりそうになる喉を広げる。
先ほどからずっとシーラを見上げてくる親精霊と子ネズミたちの視線が地味に痛い。あの信頼の眼差し。シーラはひゅっと息を吸い込んだ。厩の匂いが肺に入る。
「お名前を、教えていただけますか?」
意を決して発した質問。
だが一秒経っても、二秒経っても、目の前の鎧男からは何も返ってこない。
ふと、しゃべれないのかとも思ったが、おっとんは彼と会話したような口ぶりだった。
つまりたとえしゃべれなくとも意思を伝達することはできるはずだ。
たっぷり一分、根気よく返答を待ち続けるシーラの耳に、鎧の中からくぐもった声が届いた。
「クリフだ」
シーラは表情も何も見えない兜を見上げ、口の中でゆっくりとその名前を転がす。
「クリフ、様」
鎧男の名前はクリフ。
教会所属で単独行動ができるとなれば騎士爵であるのは確実。
「クリフ様」
シーラはもう一度彼の名を呼び、自分にできる最上級の礼を取った。
「私の精霊の命を救ってくださり、ありがとうございました。私だけでなくこの村の人たちの命、それから住む場所を守ってくださいました。クリフ様に心より感謝申し上げます」
心の中でシーラは「決まった」と満足げに鼻息を飛ばす。シーラだってやろうと思えばできる。
できないからやらないのではなく、やる必要がないからやらないだけなのだ。
そんなシーラが顔を上げると相変わらず微動だにしない鎧男。
それでもシーラがじっと兜の隙間から見える瞳を見つめていると、兜が上下に揺れる。
キイっとかすかな金属がこすれる音がした。
「無理は、するな」
短い言葉。それだけを告げて鎧男クリフはシーラの横を通って厩を出て行った。
これがシーラが最初にクリフと交わした会話のすべて。
ほんのわずかな時間で出会いは終わった。
ちなみに、この時シーラはクリフが「瘴気焼けを負ったばかりの体で無理をするな」という意味で言ったのだと思っていた。そう、優しい言葉をかけてくれたのだと。
数年後、再会してしばらくしてから彼は「慣れない言葉遣いと作法で無理をするな」と言いたかったのだと知る。
二人が再会して、気の置けない会話ができるようになるまではまだまだ先である。
猪サイズの精霊とは言っても、シーラの精霊はふかふかな毛皮があるので中にみっちり肉が詰まっている猪とは違う。
ポカポカした日向に寝そべった親精霊のお腹にもたれかかり、シーラはむぎゅむぎゅと両手で毛糸玉を揉みこむ。
これは瘴気焼けで麻痺が残る手の訓練。シーラの両手はあの日から一か月経っても手の力が入りにくく、指の曲げ伸ばしが不自由なまま。
おっとんも十年以上も瘴気焼けに苦しめられた。だから焦ってもしょうがない。それに後悔もないのだからこれでいい。
今回、シーラの元に強力な精霊が来たことで、シーラの浄化の力は一気に覚醒した。
元々ピーラーでちまちまと瘴気を払う程度だったのが、親精霊や子精霊と力を合わせれば畑一枚は一気に浄化できる。
その力はもちろん人体にも効果があり、おっとんの瘴気焼けはこの一か月集中して治療すれば杖をつかずに歩いても痛みを感じないほどに回復した。
だがシーラ自身の治療は時間がかかっている。
おっとんが言うには、おっとんの瘴気は十年以上かけて徐々に薄れてきていたことに加え、ここ数年シーラがマッサージをしながら浄化をしてきた。だから残っていた瘴気は微々たるものだった可能性が高い。
シーラの中にはまだ濃度の高い大量の瘴気が入ってしまっている。
教会所属の鎧男、もとい、クリフが一週間浄化をしても完治しなかったのだから、気長に癒していくしかないだろうと。
「僕はシーラがうちにいてくれるんだから嬉しいけどね」
おっとんが筆を滑らかに動かしながら告げる。
精霊たちが慣れない絵の具の匂いに鼻をひくひくと動かす。
シーラも真似をして鼻を上に向けて二カリと笑う。
「もちろん。あたしの芸術的な刺繍の腕が復活するまではここにいるから」
「シーラはもともと刺繍ができなかったのは僕の記憶違いかな?」
「おっとん、ボケ初めてんね」
「こら、それは言い過ぎ」
「ふふっ」
ばっちゃんの刺繍の腕はシーラには遺伝しなかった。おっとんはばっちゃんの芸術的センスを見事に引き継いでいるのに。遺伝とは不思議なものだ。
今も、おっとんは一抱えはあるキャンバスにシーラと精霊たちの姿を見事なまでの誇張を加えて描き出している。
深い森の中にぽっかり空いた日向で白い精霊と共に眠る美女。その周りには、散らばった果物に夢中な子ネズミたち。柔らかな緑と白と光の調和が夢のようだ。
「あたし、そんなにべっぴんじゃない」
「シーラは綺麗だよ。精霊が来てから美しさに磨きがかかったね。ママにどんどん似てくる」
おっとんがキャンバスの横からひょいっと顔を覗かせて目を細める。
シーラはそれがおっとんの贔屓目でしかないことを知っている。
ばさばさの麦穂のような髪と少しばかり肉付きの良い体。おっかんのすらっとした姿とは程遠い。
さらに瘴気焼けを両手に負ってしまい、外に出る時は絶対に長袖と薄い手袋が必要になった。
鎧男のクリフが顔を隠していた気持ちも分かる。精霊を守れたことは誇らしいし、この瘴気焼けも勲章だ。
でも周囲はそう捉えない。痛まし気な目、同情のこもった視線、そして時折向けられる侮蔑一一
瘴気焼けが残る者は、瘴気を体に溜め込み、いつか瘴気に支配されて瘴気堕ちになるという迷信のせいだ。
「でもさ、あたしの中のおっかんのイメージは熊に乗って心具を振り回してるんだけど。それに似てもいいのかな」
「勇ましくて格好いいよね」
「はいはい。それで、絵の完成はいつ? 今年も町に売りに行くんでしょう?」
おっかんの話から、シーラはさりげなく話題をそらす。
子ネズミたちが毛糸玉を転がして部屋中を走り始めた。その端を握り、シーラはもう一度毛糸玉に戻していく。これも指の訓練の一環。
ネズミたちが手や足を使って毛糸玉を追いかけ、追い越し、部屋中を走り回る姿はなんとも可愛い。
おっとんの精霊であるズーは鳥の本能が刺激されるのか、止まり木の上から忙しないネズミたちの動きをじっと目で追っている。
「これが今年の新作の最後だよ。いつも通り十日くらいで戻るけど、その間は一人でも大丈夫かい?」
そう言っておっとんが心配そうな眼差しをシーラに向ける。
おっとんが書き溜めた絵を町に売りに行くのは毎年のこと。だが今年はシーラが怪我をしたばかりで、一人で全部こなすことはできない。もともと器用ではない上に、細かな作業ができないこの手ではさらにできることが限られてしまう。
それでもシーラは笑って大丈夫だと告げる。
「村のみんなが助けてくれるし、どっちみち町には行けないんだしさ。気にしないで」
両手を前に出してひらひらと振る。村では理解があっても、町では人の目も多い。
余計な気を遣うよりも村にいたほうがずっとか楽だ。おっとんもそんなシーラの気持ちを汲み、柔らかく目元を緩めた。
「それじゃ、村のみんなに挨拶してから行くね。今年はシーラと精霊が一緒にいる姿が描けて最高だ。きっといい値段で売れるはず!」
「モデルがあたしってことは言わんどいてよ!」
毎年この時期になるとシーラをモデルにして一枚描くおっとん。
さりげなくシリーズとして売り出しているらしいが、一体どんな奇特な客が買っているのか。
シーラはため息を吐き、背中をぼふっと親精霊のお腹に預けた。