1-10. ここで会ったが
治療の後、シーラはたっぷりと寝て、起きて、食事をして、薬を飲んで、包帯を変えて、そしてまた寝た。
朝日がぼんやりと照らす窓を力の抜けた目で見上げ、シーラはため息をつく。
「ね、ずぎだ」
カラカラの喉からしわがれた声が出る。
おっとんが置いて行ってくれた水でゆっくり喉を潤し、コホンっと一つ咳をする。
全身はまだ少し熱を持ったように重い。弱火でトロトロ煮込まれている気分だ。
「ん? 煮込み?」
何かが記憶に引っかかってシーラは首を傾げる。確か誰か、シーラ以上に料理がへたくそな奴が、シーラを煮て食べようとしていたのだ。
「夢でも見たんかな」
瘴気のせいで悪夢でも見たのだろう。シーラはそう結論付ける。
キュウウっとお腹の奥から可愛らしい音が鳴る。朝から食べ物のことを考えたらお腹がすいてきた。
今日は一仕事が待っている。何をするにもまずは腹ごしらえをしてからだ。
シーラはふんっと気合を入れて窓の外を眺める。
あの鎧男がいなくなったら親精霊と子ネズミたちを家の中に入れてあげよう。
おっとんだって鳥のズーと常に一緒だ。この狭い部屋に猪サイズのネズミはやや窮屈だが、それでも離れ離れはいやだ。
自分の精霊と一緒に寝るのがシーラの昔っからの夢なのだ。
幼いころ、おっかんと並んでピンクの熊のお腹で昼寝したみたいに。ずっと一緒がいい。
「んんんんんー!」
両手を組んで思いっきり上に伸びる。ぴきぴきと背中が伸びて気持ちいい。
肺に思いっきり空気が入って胸が広がる。最後に体の中を漂う怠さもすべて呼吸と共に吐き出してシーラは手を下ろした。
「おっし。行くべっか」
呟いてベッドから足を下ろす。体の奥でまだ瘴気がくすぶっているが、動きに支障はない。
精霊の補助も借りて自分に浄化をかければもっと良くなるだろう。
素足のまま靴をはき、ぺとぺととかかとを鳴らして部屋を出た。
夜遅くまで絵を描いていたのか、それともシーラの看病でつかれていたのかおっとんはまだ起きてくる気配はない。
「精霊に、会いに行こうかな」
昨日も、ほんのわずかな時間しか触れ合えなかった。
あのふかふかな毛に埋もれたい。ふわふわの奥の温かさを感じたい。
一度そう思いだしたらシーラの足は止まらない。
台所とリビングを通り過ぎ、玄関を目指す。
摺りガラスが朝の光を受けて柔らかく光っている。
少しだけ重い扉を体で押し開け、外に出る。
そこにはいつもの風景。
畑が広がっていて、野菜の緑が揺れていて、ぽつぽつとまばらにご近所さんの家が見える。
爽やかな鳥の鳴き声に混ざって聞こえるのは鶏や馬など家畜の声。
いつもの変わり映えのない、大切な情景。それが損なわれずにここにあることを、嬉しく思う。
口元をほころばせ、シーラは弾む足取りで家の裏手に回る。
馬のローは突然現れた五匹もの新入りたちに驚いていないだろうか。精霊と仲良くしているだろうか。
通常、精霊と動物の相性は良い。精霊が動物の形を取っているのもあるだろうし、自然の力から生まれているかもしれない。
「名前、どうしようかなぁ」
親精霊はもちろんだが、子精霊たちはどうするべきか。
今は四匹。だがタロ芋もどきの状態の精霊が十六匹もいる。
つまり、足したら二十匹。
ぴたりと足を止めてシーラは澄んだ空を見上げる。
「うん。無理」
さすがに二十匹も名前を考えられないし、たとえ名付けたとしても子ネズミたちを見分けられない自信がある。
リボンをつけて目印にしたら……いや、やはりやめておくべきだ。
「最初の子たちだけでも? いや、それは贔屓?」
むーっと眉を寄せ、目を寄せ、鼻を広げて、口を尖らせ、顎に饅頭を作る。
その時、厩から音がしてシーラはその顔のまま、そちらに首を回す。
ガションガションという音がして、厩から人が出てくる。
こんな朝から鎧とは。もしかして寝ている時も外さないのか。
そう思いながら視線を顔に移す。
そしてシーラはむぎゅっと顔のパーツを寄せたまま、二度三度と目を瞬かせた。
顔の位置にあるはずの兜がない。いや、兜があることのほうがまれなのだが、この教会所属の鎧男の頭部に兜がないのは初めて見た。
それからシーラは兜がないこと以外にももう一つの特徴をとらえた。
顔の左半分、口元から頬、こめかみ、そして耳と首の一部が赤黒く変色している。
――瘴気焼けだ。
シーラがぼうっと見ている先で、鎧男に続いて赤い揺らめく炎を纏った鹿が厩から出てくる。
赤茶色の髪をしたその男は瘴気焼けしていない側の口の端を上げ、目を細めて微笑んで鹿に手を伸ばす。
ああ、鎧男でも笑うのかと漠然とした考えが浮かぶ。
柔らかく細められた目が精霊への愛情に溢れている。あの目はおっとんやおっかあが自分の精霊を見る時と、そしてシーラを見る時と同じ目だ。
ふと、鹿が顔を上げてシーラのいる方向へ頭を振った。
それにつられるようにして鎧男が顔を上げる。
男とシーラの視線が合った。眉を寄せ、目を寄せ、鼻を広げて、口を尖らせ、顎に饅頭を作ったままのシーラと。
鎧男が目を見開いてシーラを見つめる。
二人、やたらとゆっくりと瞬きを繰り返た。
突如、鎧男がガバリと左手を上げて顔半分を隠し、踵を返して厩へと引っ込んでしまう。
「あ、待って」
シーラは慌ててその後を追う。その間に鼻の下を伸ばし、口をぐりぐりするのも忘れない。
シーラが厩の入り口にたどり着くと、鎧男がこちらに背を向け、梁にひっかけられた兜に手を伸ばすところだった。
同時に奥に固まっていた親精霊と子ネズミがシーラの元に駆け寄ってくる。
「プィ〜」
「ヂィ!」
「ヂヂヂ」
「ヂィー」
「ヂュヂュ」
なんとも騒がしくて間抜けな鳴き声。でも愛おしくてシーラはその場に膝をつき、彼らを腕の中に迎え入れる。
猪サイズの親精霊はシーラの目の前でちゃんと止まり、その鼻先をシーラの鼻にちょんっと付けた。
「ふふ。冷たい」
「プィ」
「ふふふふ」
太い首元に包帯だらけの両腕を巻き付け、シーラは思いっきりにおいをかぐ。
蔵の干し草や乾燥した土と馬のローの匂い。それと共に精霊からは森の奥の重なり合った落ち葉や木々の香りがする。
「あー、いい匂い」
「プィー」
どこから出ているんだと問いたくなるような、間延びした高い声。
シーラは精霊に抱き着いたまま体を揺らして笑う。
「ディ」
白いネズミが一匹、シーラの太ももに手を添えて伸びをするように見上げてくる。視線を落とすと、残りの三匹も集まってきた。
「ふふっ、可愛いねえ」
「ヂヂ」
「ヂィ」
「ヂ!」
順番に撫でると嬉しそうにシーラと親精霊の周りを駆け回り始める。声を上げて嬉しそうにするその姿に、この子たちがいたから親精霊が姿を現したのだと思い出す。
「ああ、あんたたちのおかげだね。ありがとね」
「ヂィ!」
親精霊のそばにくっついては嬉しそうに鳴く子ネズミたち。頑張って良かったと心底感じる。
だが、シーラだけが頑張ったのではない。
子ネズミも、親ネズミも、そして今、厩の奥でじっとこちらを見ている全身鎧男も、全員がいたからこうやって笑いあえるのだ。
いや、全身鎧男が笑っているかどうかはシーラには分からない。でも、少なくとも先ほどは自分の精霊に向けて笑みを浮かべていた。
だからおそらく、きっと、喜んで、いる、はず、だと思いたい。まったく欠片ほどの確信もないけれども。
シーラは立ち上がり、ぱんぱんっと膝についた土を払う。
それから優しく親精霊の首元を撫で、顔を上げてまっすぐに鎧男の兜のさらにその隙間を見つめる。
わずかな光の加減で、男の瞳が揺れたのが見えた。
「私、シーラって言います。あの時、私と精霊を助けてくれてありがとうございました。私の力だけじゃ、この子を瘴気堕ちから助けられなかったと思います。それから、おっと、お父さんに、あなたが私の瘴気焼けの治療をしてくれたって聞きました。何から何まで、本当にありがとうございます。それから……昨日は勘違いして殴っちゃってごめんなさい」
そう言ってシーラはガバリと頭を下げる。麦わら色の髪がぴょんっと跳ねた。
あの時、シーラがつかみかかっても微動だにしていなかった鎧男だが、謝罪はしなければならない。
全くもってシーラの攻撃が効いてなかったとしても、理不尽な暴力を振るったのはシーラなのだ。
たとえ、男にとっては子猫のパンチよりも無意味な攻撃だったとしても。……そう考えるとちょっとイラっとする。
顔を下に向けたまま大きく息を吐き出して胸のもやもやも追い出す。そして顔を上げれば、いつの間にか鎧男が近くにいてシーラは一歩後ずさる。
「ひゃあ!?」
お礼と謝罪に必死で、足音が全く聞こえていなかった。
だが驚くシーラの目の前で鎧男がとった行動に、シーラは身を固くする。
男は腰に下げた剣を抜き、それをシーラの目の前に高く掲げたのだ。
「行くべえか」「行くべっか」「そうすべっか」などはうちの母親が使うんですが、どこの方言になるのやら。