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悪役令嬢は穏便に暮らしたい 〜4~


「まあ、そろそろ限界かな」


「御嬢様は豊満でいらしたから、まだ大丈夫そうではありますが」


 月のモノが止まってから半年。そろそろ七ヶ月に入るエカテリーナ。悪阻が長く続いたのもあり、この世界では点滴や栄養剤なんて夢のまた夢なため増える腹部の体積が悪阻で痩せていくのと相殺され、未だにお腹は目立たない。

 しかし最近食欲が増している。以前の体重に戻るのもすぐだろう。ってことは、お腹も目立つようになるわけで……


「じゃ、引っ込む用意でもしましょうかね」


 さらりと笑うエカテリーナに、フーは畏まりましたと答えて何処かへ消えていく。

 それを見送りつつ、彼女は一通の封筒を抽斗から取り出した。王家の封蝋がされた金縁の白い封筒。


 これも片付けておかないとね。


 ふくりと笑みを深め、翌日、エカテリーナは王太子へと先触れの文をしたためる。その返事は速攻で戻ってきた。驚きながらも中身を確認すると、短い文面だが快諾とある。

 ふむ、と軽く思案し、彼女は父親の執務室へと足を向けた。




「うあぁぁぁっ、誰かあるーぅ!」


 絶叫にも近い王太子の声を耳にし、執務室にいた側近達が飛び込んでくる。何事かと眼を見張る彼等を見つめ、王太子は頭を掻き毟りながら情けない顔で口を開いた。

 

「明日…… いや、明後日か。時間は作れるな? 三時間は空けておけっ、あと、御茶と菓子と……」


 オロオロと右往左往する王太子の手にしている手紙。あれが元凶かと、ウォルターは然りげ無くナイトハルトの手から手紙を取り上げる。そして、その差出人に眼を剥いた。


「……これはまた。恥も外聞もないようで」


 例の売女からの先触れ。面会を求める書面に、ウォルターは目尻をひくつかせる。


「何を言っておるのだっ! 私から何度も要請したのだぞっ? ようやく体調が整ったらしい。良かった」


 満面の笑みな王太子。その無邪気さにウォルターは呆れ果てた。元はといえば弟王子の策略に嵌められただけではないかと。こんな女に良い顔をすれば、何を望まれるか分りゃしないと。

 だが恋は盲目とはよく言ったもので、王太子は世間の風評など、どこ吹く風。身分的に釣り合いも取れる彼女に傾倒していく一方である。逢えない時間が、その熱病をさらに拗らせてくれたようだ。


 こんなことなら、とっとと侯爵に話を持ちかけて精算しておくのだった。


 思わず握り潰しそうになる手を理性で抑えつけ、ウォルターは忌々しげな眼差しで件の手紙をにらみ続けた。




 そうこうするうちに仕度が整い、エカテリーナが王宮へ訪れる。


 それを今や遅しと待ちわび、冬眠前の熊のように王宮正面でウロウロしていた王太子がエスコートした。


「歓待いただき畏れ入ります、王太子殿下」


「何を仰いますか。一夜とはいえ睦んだ仲でございましょう。……未だに忘れられぬ記憶です」


 頬に朱を走らせ、耳元で囁く王太子に唖然とし、エカテリーナは脳内の算盤を弾き直す。


 おかしいわ。アレはエカテリーナとその兄の協力による弟王子の陥穽じゃなかったの? 怒りこそすれ、こんな甘やかに語られる話じゃないはずなのに。

 

 どうやら彼女の想像を上回る何かが起きているようだ。慎重に事を進めないと不具合が起きかねない。そう心を引き締め、薫はテーブルに着いた。

 部屋には予め御茶は用意がされており、人払いも済んでいるようで、ここには王太子と側近筆頭のみ。軽く指先でメガネをなおし、側近筆頭のウォルターが書類の束を差し出した。

 それらに眼を通しつつ、薫は説明を聞く。


「この書類に異存がなくばサインを御願いいたします。最大限の謝意をこめ、金額は上限スレスレまで用意させました」


 慇懃無礼ではないが、どことなく突き放した感じを受ける男性だ。だがまあ、エカテリーナのやらかしたことを考えれば致し方あるまい。

 小さく頷いて薫は書類を確認する。

 そこには今回の件を大事にしないよう多額の金子を払うとあった。慰謝料に今後の賠償。そして書類の片隅に小さく記された一文。


『ここより一切王太子殿下と関係を持たぬこと。面会、及び謁見などを申し込まぬこと』


 ふむ。と、薫はウォルターに視線を流した。しかし彼はしれっとしたもの。なので彼女は少し揺さぶってみる。


「この文面で宜しいのね? 相違はございませんね?」


 チラッと王太子を見て、ウォルターは大仰に頷いた。


「相違ございません。……金子は足りますか?」


 その言葉で王太子も気がついたのか、しきりに書類の金額を確認している。金額そのものに不服はない。数字だけが目立つように記載された書類の片隅に王太子は気づいているのだろうか。

 まあ、こんな書類を王太子が眼を通していないとも思えないし、薫にとっては渡りに舟。だが彼女はウォルターからペンを借り、少々加筆したいと申し出る。


「……どこを変更なさると?」


 訝しげなウォルターにほくそ笑み、薫は優美に口角を上げた。その妖艶な姿に眼を射られ、思わず固まるウォルター。

 

「王太子と記載されている部分を両名に直したいのです。よろしいでしょう?」


 ペンを渡そうとしたウォルターの手がビクっと震える。


 ………こんな書類の束の一文に気づいたのか。


 書類を確認した王太子ですら、その控えめな一文に眼もくれなかったのに。と、ウォルターは忌々しげな眼差しをエカテリーナに向ける。


「書き直してまいります。書類に不備を残すのはよろしくないので。こちらが改竄したと疑われるのも困ります」


 そう言い、彼は踵を返して別の紙に書類を書き写した。


 それを眺めつつ、王太子はエカテリーナを見つめる。


「不備がありましたか。申し訳ない」


「いいえ。両者の合意ですから。王太子様個人名よりも、両名とする方がよろしいでしょう?」


「確かに。これで晴れて貴女に償える。胸の空く気持ちです」


 そうね。大分待たせてしまったみたいだし、気が気じゃなかったでしょうね。でも、こうしてザックリと縁も切れたことだし、今日から枕を高くして眠れるわね。御互いに。


 あはは、うふふと微妙に温度の違う営業スマイルを振りまく二人。その様子をじっとりと見据える側近筆頭。


 ……どういうことだ? あの女は王太子の妻の座を狙っていたのではないのか?


 書き換えた書類に視線を滑らせ、あらためてエカテリーナに渡すウォルターは、躊躇いもなくサインする彼女を信じられない眼差しで凝視する。

 唖然と立ち竦む自分の側近に気づきせず、王太子はエカテリーナを熱く見つめた。


「これで事は済みましたし、これからを相談したくあるのですが……」


 テレテレと俯きがちに口を開いた王太子を見て、ウォルターがぎょっと眼を見張る。


「これから……? とは?」


「いや、その…… 男としての責任と申しましょうか。いえ、それに見合う魅力が貴女にあったというか。あ〜……」


 訳が分からず、きょんと小首を傾げるエカテリーナ。その小鳥のように無垢な雰囲気に流され、王太子は羞恥心で身悶えた。

 

 いや、なに? その瞳っ! あの夜のベッドでは、すこぶる艶めかしく奔放だったくせに、昼は清楚な淑女なのか? 待って、待って、心臓が持たないっ!!


 俗にいうギャップ萌え。


 床上手なエカテリーナな翻弄された王太子は、彼女の淫猥な手管でメロメロにされたのだ。賢く勇猛、政務軍務を滞りなく行う王太子が、こんなに女性に免疫がないのだと誰が思おうか。

 エカテリーナの色香に惑わされたナイトハルトにとって、今の純真な薫は天使に見える。恋の熱病のフィルターは強固だった。むしろ、今初めて彼は恋に落ちたのかもしれない。

 エカテリーナという稀代の毒婦ではなく、薫という一人の真っ当な女性に。


「……っ、そうですね、こういうのは本人とする話ではありませんでした。まずは伯爵様におうかがいいたしましょう」


 完全に落され白旗全開なナイトハルト。


 見る人が見れば気づくだろう蕩けた瞳にウォルターは苦虫を噛み潰した。だが残念極まりない薫はそういった方面に酷く疎い。それこそわざとじゃないかと思うほど鈍感である。

 なので彼女はニッコリ笑い、事は終わったとばかりに立ち上がった。


「では御前失礼いたします。本日は時間を取ってくださいまして、ありがとうございました」


 そそとカーテシーを披露し、何事もなかったかのように退出していくエカテリーナを、それぞれ違う思惑を描いた双眸が見送っていた。


「……可愛らしいな。あの夜は女神かと思ったが、どうやら彼女は天使だったらしい」


 アバタもエクボか、アホらしい。


 うっとりとエカテリーナの余韻に浸る王太子を余所に、ウォルターは先程受け取った書類を見つめる。

 王太子と記していた部分を両名に書き換えさせた彼女。それに躊躇もせずサインした彼女。


 あれが本当に悪名高き御令嬢なのか? 彼女が王太子の周りにまとわりつこうとしていたのは事実だ。その全てを薙ぎ払い、自分が防波堤になっていたのだから間違いはない。


 だがしかし………


 あまりに潔いエカテリーナの姿を見て、ウォルターは己の思考がブレるのを感じた。王太子ではないが、確かに今日の彼女は純真そうに見えたのだ。しかも、ウォルターに思わず固唾を呑ませるほど妖艶な姿も。


 分からない御令嬢だ。


 はあっと大きな溜め息をつき、ウォルターは腕捲くりをする。

 放っておけば突進していくだろう王太子を止めるために。


 書類で大義名分は頂いた。御令嬢に気づかれるとは思わなかったが、存外バカではないらしい。彼女からも同意をもらったのだから遠慮はいらない。


 後日、件の書類の一文を見せつけられ、雄叫びをあげる王太子が心配げな宮内人から見守られる姿が目撃されるが、それも御愛敬。


「ふざけるなっ! そんなモノは無効だっ!!」


 鳴き声にも近い絶叫がウォルターの鼓膜に突き刺さる。


「殿下が気づいておられないとは…… 書類の確認はなさいましたよね? 御令嬢はちゃんと気づいたうえ、王太子となっていた文章を両名に変更して欲しいと仰いましたよ? 無効となさるのなら、御令嬢にも許可を得ないと。両名となっているのですから」


 ガーンと大きな文字が後ろに見えそうなほど蒼白なナイトハルト。

 こうなることを見越していたわけでもあるまいが、ウォルターは賢しいエカテリーナに少しだけ感謝する。

 あのままの文面であったなら、ナイトハルト側からは彼女に近づけてしまうのだ。今思えば迂闊だった。

 王太子にとあるところを両名に直したため、エカテリーナの許可がなくばナイトハルト側からも近づけない。玉璽の入った正式な書類である。たとえ王太子であろうと横紙破りは出来ない。


 ………思わぬ所で救われたな。


 窓の外に軽く眼を馳せ、ウォルターのエカテリーナに対する認識が少し変わってきた。

 噂どおりの悪女であったかもしれないが、しょせん噂は噂だ。尾ビレ背ビレもつくだろう。ウォルターの観察した範囲では、少なくとも彼女はバカじゃなかった。

 だがそれはそれで逆な警戒心を彼に抱かせる。

 股の緩い売女ならば相手にもせず排除可能だ。けど、賢しく立ち回れる淑女であるのなら油断は禁物。


 ものの見事に用心を忘れ、子供のように泣き喚く王太子がよい証拠だった。

 

 ああいうのを傾国の美女とでも言うのだろうか。


 思わず思案に耽るウォルター。


 だが彼は知らない。逆境慣れした王太子の不屈の精神を。後宮で虐待され続けてきた彼にとって、御小言や叱責など歯牙にもかけられない。

 周りが総掛かりで何度むりやり鎮火させようとも、不死鳥のごとく蘇るエカテリーナへの恋慕。


「彼女から無効の許可をもらえば良いのだろうっ!!」


 そう吠えながら、今日も筆をとり文をしたためる王太子を、ウォルターは死んだような眼差しで見つめていた。


 ………勘弁してくれ。


 彼の心からの叫びである。

 

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