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悪役令嬢は穏便に暮らしたい 〜2~

「……………」


「……………」


 これはいったい、どういうことなのだろう。


 目覚めてから二ヶ月。ややお腹に張りを感じるようになった今日この頃。まだ目立ちはしないし、ゆったりとした部屋着しか身に着けていないので誰もエカテリーナの懐妊に気づいてはいない。


 ………そのはずなのだが。


「フー? どうかした?」


 薫が覚醒して、すぐに救出されたフーは、今、侍従見習いの形でエカテリーナに仕えていた。

 そのフーの視線が、常にエカテリーナの下腹部をチラ見しているのだ。


「いえ…… 別に」


 尋ねれば、ふいっと視線を逸らされる。

 まさか気づかれているわけじゃないだろうけど。だが、妊娠でいえば六ヶ月だ。そろそろ急激に大きくなる頃合いだった。

 無意識にお腹を撫でると、フーの顔が、はっとひらめく。そして暫し逡巡してから意を決したかのようにエカテリーナを見つめる。


「その……っ、僕に御用命はないのですか?」


「は?」


 ややうつむき、耳まで真っ赤にしてフーは言葉を絞り出した。


「……最近、情人の方もお招きしておりませんし。……お慰めが必要なのではないかと」


 ………………………


 薫は意識が遠くなる。


 ああ、そうだわ。この女は、フーをそういう風に調教してきてたんだったわ。


 何も知らない無垢な子供を玩具にして、口にするも悍しい破廉恥な行為を日常的にさせていたのだ。時には情人を交えて複数で。

 そんな暮らしを何年もしてきたフーにすれば、今の生活が不安なのかもしれない。自分の存在価値がなくなったような。奴隷となった者が役立たずとなれば通常は処分される。売り払われるならまだ幸運だが、身分ある者の奴隷は、大抵、下働きらの慰み者として下げ渡される。

 ………そうなったら、もはや命はない。散々酷使され、ボロ雑巾のごとく使い潰されて終わりだ。フーは、それを知っているのだろう。


 エカテリーナは、そういう事を何度もやっていたしね。


 気に入らない。ただそれだけで、多くの使用人達を嬲り潰してきた稀代の悪女。


 はあっと大きな溜息をつき、薫はフーの視線の意味を知る。彼が見ていたのは自分のお腹ではない。そのさらに奥だったのだ。


「あのね、フー。アタシは、もう疲れたのよ」


「疲れた…?」


 怪訝そうな少年を穏やかに見つめ、薫は静かに言葉を紡ぐ。


「そう。もうね、貴族社会にも、腹の探り合いや見栄の張り合いにも疲れちゃったのよ。だから、そういったくだらないお遊びも卒業したの」


「では……っ、僕はお払い箱ですかっ?」


 今にも泣き出しそうな顔でエカテリーナの足元にすがりつくフー。


「僕、頑張りますからっ! もっと上手にお慰め出来るよう頑張りますから……… 御願いです、捨てないでくださいっ!」


 ……御願いです、犯罪に抵触するんで離してくださいっ、ってか、ショタは趣味じゃねぇぇぇっ!! 

 

 喉元まで迫り上がった本音を必死に呑み込み、薫はドレスの裾を掴むフーの手を優しく外して、そっと握り込んだ。


「あのね、フー。捨てたりしないわ。ちゃんと侍従として働いているじゃない」


「でもっ、皆がっ、……御嬢様に飽きられたんだなって、……新しい玩具が来るって」


 ………誰がそんなことを。


 えぐえぐと泣き崩れるフー。純真な庭師の子供だったはずの彼を、こんな悲惨な状態に貶めたエカテリーナが恨めしく、薫は心の中で死ぬほど毒づいた。

 貴族は手に入れたモノを滅多に手放さない。それくらいなら壊してしまう。だからこその恐怖だろう。

 元々、フーは奴隷などではないのだ。邸の下働きの子供。エカテリーナが気まぐれに取り上げただけである。

 しかし、ここまで彼女に依存し躾られたフーには、奴隷になるほか選択肢がない。邸中の人間が知っている。彼がエカテリーナの淫らな玩具であったことを。だから今の彼を知る者がいる場所では人間として扱ってもらえない。エカテリーナの情人らにも弄ばれてきたフーは案外広い範囲に知られている。

 一応、侍従としての知識や体裁も整ってはきたが、彼を自由にするのは存外難しい。

 

 手に職がつけば何とかなるかと思っていたんだけど………


 ホイットニーに学ぶようになって、上滑りだったエカテリーナの記憶が理解出来てきた薫は、一度奴隷落ちした者の復権が困難なことを悟った。特にフーは愛玩奴隷だったのだ。その不名誉な経歴は彼が死ぬまで付き纏うだろう。まだ成人もしていない子供なのに。

 十二歳になったばかりの、いたいけな少年。その人生を潰した毒婦、エカテリーナ。

 彼女の過去の悪事はスルーしていくつもりだった薫だが、このフーのように放置出来ない事例もいくつかある。


 あああ、もーっっ! なんでアタシが尻拭いしなきゃなんないのよぅぅぅっ!!


 そう苦虫を噛み潰す薫だが、今にも溶けてしまいそうなほど泣きじゃくる子供を放っではおけない。これは主婦の性だ。

 ふうふうと息を荒らげ、鼻をすするフーの頭を撫でながら、ふわりと薫は微笑んだ。


「しかたないなぁ。アタシ、いずれ伯爵家を出ることになるかもしれないんだけど」


「お家を出る? なぜですか?」


 思わぬ言葉にフーの涙が止まる。


「ん〜、まだ秘密にしておきたいんだけど、フーには教えておこうか。アタシね、ここに子供がいるの」


 たまに、ぐに〜っと動くようになったお腹をさすり、満面の笑みで答える薫。

 呆気に取られて、そのお腹を凝視するフー。


「だからね。もう男性も慰めも必要ないのよ? アレは子供を作るためのモノだから。アタシには要らなくなったの」


「それで情人の方々も招かなくなったのですか? あ、………僕は?」


 驚き一色だった少年の顔が、すぐにどんよりと曇った。それを見て、薫は足りなかった言葉を付け加える。


「バカね、フーは必要よ? 何のために侍従を学ばせてると思っているのよ」


 嘘だ。そんなことは考えてもいなかった。でも泣きじゃくるフーをみて、置いてはいけないと思い、今考えた台詞である。


「これからアタシは、たぶん余所にやられると思うのよね。遠くの別荘か離宮に。だからね、フー。従者としてついてきてね」


 このあたりは間違いない。懐妊しているとバレれば、両親はエカテリーナを隠そうとするだろう。どこか遠くで子供を産ませ、養子に出し、何食わぬ顔で社交界に戻そうと。

 だが、そうは問屋が卸さない。薫は産んだ子供を養子に出される前に逃げ出すつもりである。そこにフーの一人くらい増えても平気だろうし、むしろ産後の薫には働き手になってくれる従者が必要だった。

 咄嗟の思いつきだが悪くはない。お給金は払うし、エカテリーナの持ち物を少しずつ売り払って、けっこうな金子も貯めてきた。贅沢をしなければ、十年くらいは暮らせる金額だ。


「貴族みたいな暮らしは出来ないけど人並みにはやっていけると思うの。フー、ついてきてくれる?」


「……もちろんですっ!」


 上唇を噛みしめ、フーは感無量な眼差しで薫に跪いた。


 ああ、飽きられたのではない。新たな仕事をいただけたのだ。


 完全にエカテリーナへ依存しているフー。


 それを見て、思わず天を仰ぐ薫。


 伯爵家から離して、この洗脳を解かなくては。今はまだ子供だが、大きくなれば顔つきも変わる。姿形でフーを見分けられる人もいなくなるだろう。そうしたら自分の人生を歩んで欲しい。

 ぶっちゃけ、そこまで面倒は見られないと薫は眼を据わらせる。

 十年もたてばフーも良い大人だ。依存も抜け、恋の一つや二つもするだろう。普通に育てて、普通に巣立っていただこう。彼女は、そう考えていた。


 しかし………




「独り立ち? 考えていませんね。私がいなくなったら、誰が後釜になるんですか? ………絶対に譲りませんよ。私だけが貴女の従者です」


 剣呑に眼をすがめて吐き捨てる大柄な男性にあわあわさせられる未来を、今の薫は知らない。


 

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