悪役令嬢は穏便に暮らしたい
「ご教授ありがとうございました」
「いえいえ。さすが伯爵令嬢。呑み込みが早くてあらっしゃいます」
頭を下げるエカテリーナとテーブルを挟んで立つ好々爺な男性。歳の頃は初老を過ぎたあたりか。柔らかな笑みを浮かべたまま、彼はエカテリーナを見つめていた。
彼の名前はホイットニー・ロンブラン。彼女は、かつて彼が早々に見切りをつけた生徒の一人である。ホイットニーは、以前、親バカな伯爵が子供達のために招いた教師だった。
しかし、当の子供らは学びを疎かにして遊びほうけ、彼の授業をことごとくサボったのだ。さらには、そこいらじゅうで馬鹿げた悪戯ばかりをやらかし、教師である彼の顔に泥を塗りたくる。
ある時など、お茶会に呼ばれたエカテリーナは、気に入らないという理由だけで格下の男爵令嬢の足を引っ掛けて転ばせた。
「あらやだ。なにをそんなに急いでおられますの? ……ふうん。第一王子殿下ですか? ぷっ、まるで盛りのついた猫のようですわね。はしたないこと」
エカテリーナは爪先で男爵令嬢のスカートを捲くりあげ、その素足をさらけ出させる。膝上までたくし上げられたと気付き、男爵令嬢は悲鳴のような叫びをあげた。
何事かと慌ててやってきた大人達は、あられもない姿の男爵令嬢に呆れた顔をする。
「転んだのですか? ……それにしても、どうやったら、そんな転び方を」
「さっさと起きなさい、はしたない。いったい親はどんな躾をしておられますの?」
やれやれといった顔の紳士に手を貸してもらい、なんとか起きあがった御令嬢は、顔を強張らせて首を振った。
「ちっ、違…っ」
だが誰も彼女を庇わない。
転ばされていたのを見ていた子供達は、男爵令嬢がドレスの裾をたくし上げられても、何も言わずに静観していた。むしろ呆れ顔な子供らに、大人達も同意の表情をする。
なんで?
それからも蔑んだ視線の嵐にさらされ、いたたまれなくなった男爵令嬢は、わけが分からないまま会場から逃げ出した。
小さな御令嬢はこれが心の傷となり、対人恐怖症を引き起こして社交界から消える。ほんの些細な失態が長々と尾をひき、嘲笑われ続けるのが貴族社会なのだ。まだ幼かった男爵令嬢は、それに耐えきれなかったのである。
……ふん。ナイトハルト様に近づこうとするからよ。良い気味ね。
今回のお茶会は王家主催。当然、二人の王子も出席していた。その二人が現れた途端、件の男爵令嬢は頬を染めて、いの一番に駆け出したのだ。そそとした優美な歩調で。
男爵令嬢にとって雲の上の御仁。そんな人々に会える機会を、挨拶出来る幸運を。彼女は、ただ楽しみにしていただけなのに。
男爵令嬢のテーブル近くにエカテリーナが居た。彼女の不幸は、それだけだった。
そしてエカテリーナの苛烈っぷりは子供らの間で有名だ。『君子危うきに近寄らず』。幼いとはいえ貴族教育を受けている子供達は、不運のお裾分けから遠ざかるため傍観したにすぎない。
事情を知らない大人達はさらに冷淡だ。王家主催のお茶会でやらかした御令嬢を擁護などしない。厭わしい視線を向けるだけ。
こうして男爵令嬢が夢に見た王子達とのお茶会は悪夢に終わったのである。
しかも、ことはこれで終わらない。
後日、エカテリーナを信奉する御令息らによって乱暴された男爵令嬢は、修道院に送られた。本人の希望だそうだ。
気に入らない。たったそれだけで、一人の少女の人生を終了させる。これがエカテリーナという生き物である。
己の美貌と艶めかしい肉体を武器に、何人もの令息らを骨抜きにし、エカテリーナのためなら何でもやる取り巻き達。弱冠十二歳の子供に手玉に取られる令息達の情けないことよ。
生まれついての毒婦。そう判断したホイットニーは、即座に伯爵家の教師から降りた。それで彼女との縁は切れたはずだったのだ。
なのに突然舞い込んだ書状。
アンダーソン伯爵家の印章で差出人は件の毒婦。やや訝しんだものの、その内容を読んでホイットニーは瞠目する。
『御無沙汰しております、先生。以前は幼く、多大な御迷惑をおかけいたしましたこと、心より謝罪いたします。話でしか存じませんが、わたくしの素行が酷く悪かったことを皆から聞きました。というのも、わたくし忘れ病を患い、過去の記憶がないのです。当然、あらゆる知識も朧気で実践にいたれません。先生は貴族教育のスペシャリストと聞きおよんでおります。なにとぞ、わたくしの新たな人生にお力添えいただけませんでしょうか? …………』
と、エカテリーナの近況を綴った懇願の手紙だった。
忘れ病だと?
驚愕の面持ちで無意識に口髭を撫で、ホイットニーは考える。
確かにエカテリーナは稀代の毒婦に相応しい女性だった。男性をたらし込むために様々な知識を網羅し、完璧な礼儀作法と艶やかな美貌。頭の回転も早く、飛び抜けて優秀な御令嬢である。
閨事にも発揮された彼女の貪欲な探究心。殿方を悦ばせる手管を習うために、高級娼館から売れっ子を招いたとも噂されるエカテリーナ。
それら全ては周りに有無を言わせぬための鉄壁な鎧で、傍若無人な行いを正当化するための鋭利な武器だ。あまりに完璧であるがゆえに、何をしても優雅な一枚の絵画のごとく麗しい。歳をおうごとに凄まじくなっていくエカテリーナのカリスマ性。
ホイットニーにしたら、力の使い方を間違っているとしか思えないが、そういったアレコレに関する記憶全てが失われた?
なら…… 今の彼女ならば稀代の毒婦から、稀代の淑女に変貌出来るのではなかろうか。
彼は残忍で狡猾なエカテリーナしか知らない。まるで生まれた時からそのようであったかのように、彼女は堂々とした大悪人だった。
凛と咲き誇る艶やかな黒薔薇。非常に優秀ではあったため、そこが惜しくて堪らなかったホイットニー。
……変えられる?
ぞわりとした歓喜が老骨の背筋を駆け登った。これぞ神の配剤。千載一遇のチャンス。
王国貴族に深々と蔓延った黒薔薇を、清楚な白百合に育ててみたい。
元々が教育者として知的好奇心旺盛だったホイットニーは、エカテリーナの申し込みを快く承諾し、今にいたる。
案の定、エカテリーナはまっさらな少女としてホイットニーの前に現れた。以前の高飛車で傲慢な貴族令嬢ではなく、思慮分別はあるものの、どことなく不安げな一令嬢として。
それでもやはり彼女は彼女だった。物凄い勢いで彼の教えを吸収し、めきめきと淑女としての教養を身に着けていく。ただ、そこに邪な思惑はない。
今のエカテリーナは純粋にホイットニーの学びを受けている。
なんと嬉しいことか。
彼女が優秀であるがゆえ、その残虐な性癖がなければと惜しんできた老人は、えもいわれぬ慈愛の眼差しを瞳に浮かべた。二度と道を誤らすまいと。
以前はすでに性格が出来上がってしまっていて、ホイットニーには何もしてやれなかった。エカテリーナはまだ十七歳だ。やり直しに遅くはない。
真摯な顔で学ぶエカテリーナを柔らかく見守る老人。まさか、彼女の中身が別人に入れ替わっているなどと、彼が知るよしもない。
「凄いね、エカテリーナの記憶で付け焼き刃だった礼儀作法や知識が、どんどん身についていくよ」
《彼は教師として超一流ですから。私でも教えられなくはないですが、実践に勝る学びはないです》
エカテリーナの記憶の中で、蛇蝎を見るがごとき眼差しだった教師。《彼は非常に優秀な導師です。ダメ元でも良いから手紙を書いてみましょう》と勧めてきたヒューズに感謝である。
こうして薫は、ちゃくちゃくと貴族令嬢としての学びを身に着けていった。
この先どんな状況になるか分からないし、何が役立つかもしれない。少なくとも教養は覚えて無駄なことにはなるまい。そう考え、彼女は伯爵家にいる間は、ここでないと学べないことを優先的に学ぶことにしたのだ。
この師との出逢いが彼女の人生を大きく変えてゆくのだが、今の薫に知るよしもない。