穴倉兄弟のゆくえ(三十と一夜の短篇第58回)
おかあさーん。
おかあさーん。
いくら呼んでも返事がなくて。ぼくはひとりで泣いている。
※ ※ ※ ※ ※
今時の若者の喫煙率はさがっているとネットニュースで流れていたが、どうやらここは違うらしい。
しょぼい飲み屋の立ち並ぶ、小便臭い路地裏。半地下の店「こせど」は、白い煙とアルコールの匂いに満ちている。
穴倉グズリの好みではない。客の指定だ。
だからさあ。と言うのが、今回の客である須藤シュウの口癖であった。
だからさあ。俺、なんかまちがってる? 俺的にはちゃんとやってんじゃん。頭わるいのは遺伝だよ。遺伝。それって俺のせいなわけないじゃん。別に産んでくれって、俺、頼んだ覚えねえしさ。
色の悪い唇からながれでる言葉の羅列を、グズリは黙々とのみ込んでいく。
無味無臭。
美味くもなければ、マズくてゲロを吐きたくなるほどでもない。こういう平均的なのが、もっとも面白くない。しかし仕事である。雀の泪ほどとはいえ金をもらっているかぎり、面白さの追求などは、それこそ無意味である。
レモンサワーを飲みながら話し続けるシュウの前で、グズリは時折うんうんと頷いてみせる。
彼の仕事は話しを聞くことだ。話しであれば愚痴であろうが自慢話であろうが惚気であろうが。条件さえ合えば、なんでもござれだ。物心がついた頃から仕込まれた技術は、望んで得たものではないが、役にはたつ。
だからさあ。俺は、親ガチャで外れひいたわけ。マジで最悪。だからさあ。そこそこの家に生まれてたら、俺くらいだって大学とか専門行けたっしょ。金さえあれば予備校だって行けるわけだし。
高校三年の春。
シュウの目下の悩みは進学であったが、その割りには切羽詰まった感じは伝わってこない。これでは例え予備校に通えたとしても、継続的な努力ができるかどうか甚だ疑問だ。
そう思うが、グズリは口にはださない。こういう手合いは話しを聞いて欲しいだけなのだ。適切な助言などは求めていない。ましてや耳に痛い小言など、もってのほか。顧客のニーズに合わせてこそのプロというものだ。
それにしても。よくも毎回同じことばかり言えるものだ。たしか今日で四回目だが、ほぼ毎回同じ話しが繰り返される。進展も広がりもない。
腹のなかでは大いに呆れながらも、穴倉グズリは微笑んでいる。決して美形ではないが、目元が涼しい顔立ちなので、そうやっていると周りの女たちが色めきたつ。この店はシュウを筆頭に、部活にも勉学にも精を出さず。ただのんべんだらりと夜をすごす子どもたちの溜まり場だ。
優しそうじゃない。シュウの愚痴にあそこまで付き合うなんて、良い友達だよね。え? 友達なんかじゃないぜ。あいつ、金もらってやってんだし。
シュウとつるんでいる男友達が、すかさず口をはさむ。
そうなの? じゃあアタシだって頼みたーい。お話ししてみたーい。十五分百五十円だって。なにソレ。ビミョーな金額。ボランティアじゃないんだ。タダであんな事するやついるかよ。いるじゃん。ええと、ホラ。駅前で前にビラもらったよ。バーカ。そういうのは大抵おっさんとかが、やってんじゃん。なんで俺らみたいな年で、そんなつまんないことすんだよ。だよねー。
周囲の喧騒をものともせずに、シュウの愚痴は決壊したダムのごとく流れていく。
だからさあ。俺だってイヤんなってるわけ。うちのババア、いい年してパートしかできないでやんの。最低賃金ってやつ。そのくせ変な男つれてきたりする。それで俺に卒業したら働けって。やなこった。
だからさあ。元々ババアが勝手に結婚して、俺産んで、離婚して。そんでビンボーって、全部あいつの責任じゃん。だからさあ。俺、関係なくね。せめて専門くらいいかせてもらえなきゃ。な、俺だってちゃんと考えてる、つーの。そしたらアイツなんつったと思う? 地元の県立大なら行かせられるって。頭おかしいって。俺の成績ではいれるわけないじゃん。イヤがらせだよ。イヤがらせ。
グズリは客の前では、常にわずかばかり唇を開いている。それが彼の癖なのか、仕事の最中の流儀なのか。シュウには分かる由もない。ただグズリの歯並びの良い前歯の奥を凝視していると、頭の芯が痺れるような快感に襲われる。
もっと。もっと。もっと話していたい。シュウの頭のなかは興奮で桃色に染まっていく。
シュウは夢想する。グズリにとって、きっと俺はなくてはならない存在に違いない。だからこそ親身になってくれるのだろう。俺、サイコー。求められる存在。シュウの承認欲求が発火し、ばちばちと爆ぜる。ああ気分がいい。
初対面の時は違った。街でいきなり「あんた悩み事ある? あったら話し訊くけど」声をかけられた。宗教の勧誘かと思った。てめえふざけんなと、肩を怒らせた。ところが、今ではすっかりダチ気取りだ。俺の気持ちをわかってくれるのは、コイツだけ。他のやつらは陰で俺を馬鹿にしている。ババアと一緒だ。俺の話しを聞くだけ聞いて、もれなく説教というオプションがついてくる。
それは君が前向きになるように、お母さんが考えて。おまえ、自分の偏差値わかってんの? 生まれた時から負け犬なわけ。シュウちゃんバカだからさあ。
散々訊かされてきた言葉の棘で、シュウのやわなハートは穴ぼこだらけだ。但し。速攻で都合良く忘れるものだから、穴ぼこはトンネルとなって脳髄までは届かない。気持ちを入れ替えるほど思考も反省も持続しない。浅い傷の上に、ただただむしゃくしゃした気持ちばかりが降り積もっていく。
だからさあ。俺、金がたまったらババアとはすぐさま縁を切りたいわけ。とりあえずITとかよくね? だからさあ。専門行って、そっちいきたいわけ。一発当てたらババアなんて捨てちまう。だからさあーー
唾を飛ばす勢いで話し続けるシュウの会話が、「終わったおわった。ははははは」天使のごときボーイソプラノで突如さえぎられる。
シュウとグズリの向い合った顔の間に、ソプラノの君が差し出すノートが一冊、にゅうとはさまれたのだ。シュウもかつて使っていたジャポニカ漢字練習帳。表紙には赤い花の写真。シュウの眉間に皺がよる。漢字の小テストで落第しては、放課後に散々書き取りをさせられた小学校時代。あの担任は年よりの女だった。須藤くん。もっと頑張らなくちゃ。書き順もしっかりおさえて練習するの。はい、一。二。三。
毎度点数の悪いシュウは、斑競争のお荷物だった。せんせー、須藤くんがいると、うちの斑勝てません! なんていったっけ。あの眼鏡の生意気で嫌味な女。きっとあいつも今ごろは、ババア予備軍になっているはずだ。苦い思い出に、シュウは顔をしかめる。
「あっち行けよ」
学習帳を片手ではじく。
「あっ」
幼い指先が、慌ててしっかと持ち直す。つるりと白く、まるで女みたいに小さな指先だ。それもそのはず。ソプラノの君は、十歳にも満たない男児なのだ。
「終わったから、帰ろうかえろう。ききききき」
男児はさも当然とグズリの隣に座り込む。レモンサワーの置かれたテーブルに練習帳を広げると、帰記器奇樹と書きはじめる。
変声期前の澄んだ声が、「ききききき」歌うように呟き、さらなる機期黄基来を書いていく。
変わり者の男児は、襟付きの水色のシャツに、ニットのベスト。クリーム色のズボン姿で、この場には年も格好も合っていない。
「なんだよお。終わりって!」
レモンサワーでかるく酔っぱらっているシュウが声を荒げると、すかさず店の一角から文句の雄叫びがあがる。女どもの一団だ。
シュウうるさい。すうちゃんに絡むな。すうちゃん大丈夫? こっち戻ってきな。シュウといるとバカがうつるよ。ほら、お姉ちゃんたちがストロベリーパフェ頼んだげる。
「ありがと。いちご。ごごごごごご」
後語碁伍護午の文字を書きながら、男児は左手をひらひらと振る。やだあ、手ふった。ホントかわゆい。嬌声を浴びる男児は、シュウから見ても女受けが良い整った顔立ちをしている。
「けっ。なんだありゃあ」
シュウが下唇をつきだす。男児はシュウの不満など、我存ぜぬとばかりに知らぬ顔。女性陣が手招きする席へと走り寄る。いくらチビとはいえ、あっちばかりチヤホヤされるのは、同じ男として面白くない。これは生物学的に正しい怒りだ。
「けっ! けけけ」
男児を真似て語尾を重ねてみるが、誰もかわゆいなどとは言わない。ガキじゃねぇんだから。一気に羞恥心がこみあげ、ニキビ跡の残る頬をシュウは赤く染めた。
「悪いね」
苦笑いをしながら、グズリがテーブルに置きっぱなしにされたノートを手にとる。ページには、派波葉覇羽刃歯。延々と続く、はの字の書き取りをグズリは指先でゆっくりとなぞる。
「弟は場の空気を読めないんだ」
「言葉も変だしよお。アレだろ? 発達障碍ってやつ。ま、個性つーか、特性ってやつだろ?」
「……かもね」
目を細めグズリが微笑む。
弟ほどではないにしろ、この兄もなかなかモテる。女子のなかにはグズリ目当てで、スグリにことさら優しくしているのもいる。だがお生憎。女子のあからさまな誘いに、グズリはいっさい靡かない。片っ端から袖にする。いつか女の好みを訊かれた際など「三十から五十代」と答えて、大いに笑わせてくれた。
※ ※ ※ ※ ※
シュウが深夜にアパートに帰ると、部屋には誰もいない。カーテンのひかれていない窓から覗く夜空は、厚い雲に覆われている。
母ひとり。子ひとり。元々平日は滅多に顔を合わせない。シュウが学校へ行く時には、母親は工場の夜勤明けで高鼾。シュウが学校から家にまっすぐ帰る事は、滅多にない。しけたアパートに一人ぽつねんといたって、面白くもなんともないからだ。
一人はイヤだ。寂しい。むなしい。お腹が空いた。
幼い頃のしみったれた思い出が、狭い部屋のなかを行ったり来たりする。それくらいならバイトをしているか、仲間とつるんで溜まり場でくだを巻くのが良い。かるいアルコールで景気をつける。たまに女の子と仲良くできたらしめたもの。それやこれやで帰るとアパートの部屋はもぬけのから。ちいさなテーブルのうえには冷えきったおかずが、ラップをかけられ置かれている。時にはそこにメモ用紙が添えられている。便所を綺麗につかえとか、成績表をだせとか、うざったい内容だ。
気がつけば。この頃はメモの小言が姿を消した。母親も以前ほどは、絡んでこない。
こちとら一端の男だ。男に、やいのやいの指図したって無駄ってもんだ。どうやらババアなりに学習したらしい。ご満悦でシュウは、レンジに皿をつっこむ。
そうだ。グズリに話しを聞いてもらう様になってから、なんだか調子が良いのだ。
おおらかな気分になるのか、トラブルも減る。ババアさえ静かになった。それともなんだ、俺が優しくなったのか? 常にたまっていた胸のもやもやは、すうとうすくなっている。「SNSもアリだけど。面と向かって話すって大事なんだ」グズリの言葉は、シュウの気持ちの襞にちゅるりと吸い込まれる。
そうだ。そうだ。もっともだ。やっぱ基本はコミュニケーションだな。
グズリは聞き上手なだけではない。ふと口にする二言三言がこころに沁みる。それはグズリができた男だからに違いない。なにせあの奇天烈な弟を、イヤな顔もせずに相手をしてやっている。きっと面倒見が良いのだろう。
穴倉兄弟の親が、どこでなにをしている者か、シュウは知らない。ただ以前。グズリがぽつりと口にした、「俺はごみ箱」が記憶に残る。まあ、なんだ。グズリもあんま恵まれていないのだろうと、シュウは仲間意識を勝手に高めた。だからと言って、根掘り葉掘りと訊く気はない。
十代の友人関係など、そんなものだ。親など、異星人よりとおい位置に存在する。生きていくうえで無くてはならないけれど、ちかくにいられると、面倒だ。衣食住をはじめとした金は必要で、その金を生み出すのが親の存在意義だ。
その点うちのババアの存在意義は低い。どうしようもなく低い。やっぱりアレだ。親ガチャに失敗した。だけどさあ。ババアはシュウを傷つけはしなかった。シュウの躯に目立った傷跡はない。ババアは違った。
幼い時。狭い湯船のなかから見た、洗い場の背中は傷だらけだった。記憶にもない父。幼稚園の時に逃げるように去った場所。結構エリートだったと聞いている。もちろんババアの嘘八百かもしれないけれど、昨年おっ死んだ正真正銘の婆ちゃんは「学さんがあんな人だったなんてねえ」そう言って何度もため息をついていた。つまるところ、ババアは旦那ガチャに失敗した。そのツケが今、まわりまわって俺にきている。
だからさあ。俺はちっとも悪くない。
レンジがチーーンと鳴る。熱いくらいになった皿を、シュウは引っ張りだした。
いつもの週末。いつもの店。
もう何度目になるのだろう。グズリの前に座って絶好調で話すはずが、この日は違った。だからさあ。の次の言葉は萎んで先が続かない。
シュウちゃんどっか悪いんじゃね? 隣のテーブルの顔見知りの女が言う。そんなんじゃねえ。ふてくされた声でシュウが言う。これはアレだ。俺のなかのぐずぐずの気分が、綺麗さっぱり片付いたんだ。そうだ。そうだ。きっとそう。
「よかったじゃないか」
グズリが笑う。いつものおっとりした笑みじゃない。シニカルな男臭い笑みに、またしも隣の女がしゃしゃり出てくる。え、じゃあ今度はあたしあたし。あたしの話し聞いてよおおおおお。うるせえよ、黙っとけ。シュウが睨むが、女は素知らぬ顔だ。テーブルのうえ。口をつけていないレモンサワーの横で、スマホがジジジジジと鳴りだす。画面には「母」の文字。シュウの目が見開かれる。こんな時間にババアからの電話なんてありえない。仕事を首になったのか。それとも宝くじでも当たったか。まさか新しいパパでーす、なんて、男を連れてくるんじゃねえよな。だったら俺はとんずらこいてやる。ジジジジジジ。「とらないの」え?と顔をあげると、グズリと目が合う。
「とった方がいい」
真剣な声だった。
「あ、ああ」
気圧されたままスマホを手にとる。シュウが口を開く間もなく「須藤アカネさんのご家族ですか?」切羽詰まった女の声は、ババアのものじゃない。赤の他人の事務的な声だ。
「ああ、はい」
相手の緊迫感につられるように、思わず声がうわずった。
「アカネさんが先ほど搬送されてきました。すぐに来ていただけますか? こちらF緊急ーー」
スマホを持つ手が震えた。
シュウは自分を賢いと思ったことはない。だがらと言って、周りから言われるほどバカだとは思っていない。学校の勉強はからっきしだったが、それは嫌いだったからだ。社会にでれば。そこで適正な仕事にさえつけば。上手いこと世間ってやつを、渡っていけるんじゃないか。そんな楽観的な未来を思い描いていた。
友人は多いし、人に嫌われる性格じゃない。たまに気の合わない奴がいるが、そういう手合いはぶっ飛ばす。コミュニケーションは出世の必須項目だと誰かが言っていた。それなら俺は十分合格だ。稼ぎの良い男になってやる。
だからさあ、上手くいくって言ったろう。おそれいったかと、いつかババアに吼えてやる。そうしたら、ババアは泪目になって「さすがあたしの息子だよ」そう言ってくれるはずだ。そのはずだった。なのにどうしてこんなことになってるんだ。
だからさあ、誰か教えてくれよ。頼むから。なんでコイツは目を開けない。
たどり着いた病室の、ベットのうえでこんこんと眠り続けるババアの顔色はまっしろけだ。あっちこっちに皺がよって、染みが散らばってる。これじゃあ本当のほんとにババアじゃねえか。こんなに年とっていたっけ? どうして良いのか分からない。でっかいモールで迷子になって、途方にくれるガキみたいな気分になる。えーんえーん。おかあさーーん。できるもんなら大泣きしたい。救ってくれるやさしい掌が欲しい。
「昏睡状態か」
シュウの隣でグズリが呟く。
店で事態を知るやいなや、シュウはパニックになった。なにをどうしたものか。そんなシュウを尻目に、グズリの行動は素早かった。スマホをシュウの手から奪い取り(抵抗する気力さえなかった)、搬送先などを聞き出すと、こせどのマスターに「タクシー呼んでもらえませんか」指示をする。
シュウちゃん、ちょっと大丈夫? 目、死んでね? そこ結構遠いぜ。タクシー代あんのかよ。大丈夫。俺が立て替える。よっ、グズちゃん男だねえ! そういうの、いいから。ホラ。シュウ立って。荷物持て。スグリ、一緒においで。ええー! すうちゃん連れて行っちゃうのお。アタシらで面倒みてようか? いや、連れてく。店の外からクラクションの音。見上げると半地下の窓にタクシーの車体。ほら、シュウ行くぞ。
ぼんやりしたままシュウはグズリに腕を引っぱられて、ここまで連れて来てもらった。頼りになる奴。面倒見の良いダチ。そうだ、コイツがいた。
「なあ、」
とりあえず。お前んとこ泊めてくんない。
シュウの言葉は続かなかった。グズリが満面の笑みで、「よかったな」そう言った。
何を言われているのか、一瞬わからない。「は?」阿呆みたいに口をぽかんと開けた。
「よかったじゃないか。疎ましかった母親は眠っている。死亡じゃないから、すっかり一人ってわけじゃないけれど。シュウは十八歳になった? まだだったら施設にはいれる。そうしたらそこで身の振り方を考えれば良い」
「おまえ、何、言ってんだ?」
ついさっきまで親友だと思っていた男の思考回路が理解できない。この状況での不安が、グズリの言葉で膨れ上がり、すぐさま怒りを呼び寄せる。シュウはグズリの胸ぐらを掴んだ。
「ふざけんなよ、てめえ」
「ふざけてなど、いるものか」
グズリは涼しい顔。シュウは混乱した。自分がなにか決定的な間違いを犯しているのかと、錯覚してしまう。それくらいグズリは朗らかだ。いや、違う。自分は間違ってなどいない。惑わされるな。怒りを滾らせたシュウは、拳でグズリの左頬を殴る。グズリは多少躯を震わせたものの、「痛いぞ。シュウ」落ちついたものだ。それがますます頭に血を昇らせる。今度は右だ。さらに拳を突き出す。しかしこれはグズリに易々と止められる。逆に腕を取られた体勢から床にねじ伏せられた。
「いてぇ!」
「気が動転しているのは理解するが、二度目はないぞ」
腕を背にまわされ、肩がみしみしと鳴る。グズリはシュウより上背がある。この体勢から跳ね返すのは至難の業だ。「いてぇ。いてぇ」足をばたばた動かす。病室の隅では、大人しくついて来たスグリが、怯えた目でふたりを見ている。そんなとこでちんまりと固まっているくらいなら、誰か呼ぶくらいの機転をきかせろ。シュウは無関係のスグリを恨む。
「乱暴はするな」
グズリがきっぱりとした口調で言う。これじゃあまるで、俺が悪者みたいじゃねえか。文句大有りだ。だからと言って、そんな口を叩くほどシュウもまぬけではなかった。
「わかった。悪かった」
痛みに堪えかねて白旗を振る。「よし」グズリがシュウのうえからどく。
「おまえ、わけわかんねえ。もう出てけ」
せめてもの腹いせに睨みながら叫ぶと、「わけが分かっていないのはシュウだ」グズリが言う。
「母親がそうなったのは、シュウのせいだ。八つ当たりをするな」
「はあ? おまえ、何言ってんの」
「母親は、シュウの毒気にあてられたんだ」
なんのこった。まるで分からない。グズリは頭がおかしくなったのか。病院の空気に当てられたのか。じゃなければ大ボラを吹いているに違いない。
「俺は、客の言葉を躯にためる」
見ていろ。グズリは、けほりと喉を鳴らした。途端。開けた口から、キャラメル大の真四角が飛び出してくる。灰色でぼやぼやした輪郭のそれを、慣れた様子でグズリは右手に収める。
「これは、俺のなかで熟れて固まったシュウの言霊だ」
指先に力をこめると、それはあっけなく霧散した。塵の一粒ひとつぶから、しゃがれたシュウの声が流れ出す。
だからさあ。親ガチャが。マジで最悪。
ビンボーは全部、あいつの責任。だからさあ。俺は悪くない。
棄てちまう。いらない。いらない。いらない。
素面で聴くと、身勝手な言いぐさに、どっと後悔の念がわく。言った自分を恥じているのではない。こんな得体の知れぬ奴に、こころを預けた自分の甘さに嫌気がさすのだ。それもこれも、甘言で自分を搦め捕ったコイツのせいだ。
「俺は悪くねぇ。こんくらい、誰だって愚痴るだろう」
「かもね。けれど何十編と口にすれば、言葉は言霊になる。言霊は情念が強ければ強いほど力をもつ。それはいずれ毒になる」
「なんだあ、そりゃあ。ぜんっぜん、わかんねぇ」
聞きたくない。聞くな。逃げろ。ここから消えろ。なのにグズリは、入口を塞いでいる。スグリは隅でノートになにやら書いている。絶体絶命のピンチ。イヤな予感がのしかかる。シュウの毛穴から汗がわきでる。
「シュウは母親がイヤだった。上手くいかない全ての原因は母親で、だから母親を捨てたいと願っていた。逃れたかった。母親が嫌いで、憎んでいた。そうだろ? シュウの要求は俺のなかで、ものの見事に熟成して叶ったんだ。凄いだろう? あれぽっちの金額で、シュウは望みを叶えたんだ」
グズリが誇らしげに笑みを浮かべる。
「シュウの発した言霊は、毒気をまとって母親を呪った。母親が倒れたのはシュウのせいだ」
嘘だ。うそだ。うそだ。シュウは髪を掻きむしる。だからさあ、こんなの全部嘘っぱちだ。言霊なんて俺は知らねえ。信じねえ。コイツはやっぱり新手の宗教だったに違いない。俺をペテンにかけるつもりなんだ。そんでもって、最期は一切合切俺を絡めとっちまう算段だ。そんな手にのってたまるか。
「嘘だ」
「信じないの? さんざん友人だって吹聴しておいて、それはないよお」
情けない声で同情をかうつもりだろうが、そうはいかねえ。よく見てみろ。コイツの目は笑っている。ああ、可笑しいって。くすくすくすくす。笑っていやがる。
「もっと出そうか? ほら。いくらでも出る」
ぽかりぽかりと、グズリの唇から吐きだされるシュウの何気ない悪意の数々。胸糞悪い。吐き気がする。やめろ。これ以上見たくもねえ。
「てめぇ」
「あ! 見てみて。みみみ」
二人の間のぴりぴりした空気を、無邪気な声が切り裂く。
「おばさんの目、開いた。良かったよかった。たたたんたん」
スグリが覆い被さるようにして、母親を覗き込んでいる。
「かあちゃん!」
シュウが母親に飛びつく。
母親の顔色は悪いままだが、うっすらと目を開けている。死んじゃいない。助かったんだ。シュウの気持ちが歓喜に包まれる。くそくそくそくそったれ。なんだ全部でたらめじゃねえか。震える手でシュウは、枕元のナースコールを押した。天井のスピーカーから「どうされました?」看護師の声が響きわたる。マトモな世界のマトモな声に、シュウは勝ったと歯をむき出して笑った。
タクシーで来た道を、穴倉兄弟は歩いていた。
てくてくてくてく。病院の周りは外灯のすくない坂道だ。人通りがないどころか、行き交う車の数も少ない。グズリは今になって痛みだした頬をさすった。
いつもこれだ。最初に声をかければイヤな顔をされ。話しを聞いてやっている最中は感謝され。最期のさいごは、もめ事になる。殴られるなんて、もはやデフォだ。弁護士を連れてきた客までいたっけ。アイツ、今でも生きてるだろうか。もう名前どころか、顔さえおぼろな客のことを、ぼんやり考える。
一方のスグリは、ご機嫌この上ない。グズリの前をスキップしながら歩いていく。胸に抱くは、ジャポニカ学習帳。ああ、ステキ。ぽかぽか暖かい波動が、胸に伝わってくる。母の愛ってやつは偉大なり。
「おまえは良いよなあ」
恨みがましく呟く兄の声に、スグリは歩をとめると、くるりと振り返った。
「えへへ。役得やくとく。とくとくとっくり」
「で、首尾よくやったんだろうな」
「勿論。ろんろん」
スグリはノートを高く掲げると、ページを開けてみせた。ふかい夜のなか。ノートのしろさが闇に浮かぶ。ぎっしりと埋められたマス目の文字は、スグリの字ではない。
シュウくんはホットケーキにあんこをつけて食べるのが好き。お天気の日に干したお布団をとりこむと、いくら止めてもダイブする。仮面ライダーのベルトが欲しいと駄々をこねた。めずらしい。買えなくてごめんね。母さん情けないね。泣き言は言わないはずだったのに、思わず口から出た言葉に、大人になったらオレが買う。母ちゃんの洋服も。ハンドクリームも。自転車も。全部ピカピカの新品をオレが買ってやるんだと言う。シュウのお母さんになれて良かった。シュウがつよい子で良かった。
グズリにとって、スグリのノートは眩しい。スグリがうつしとった文字は、一つひとつが星みたいに、ひかって見える。そんなわけはない。でも仕事の最期はいつだって、そう思う。
兄と弟。ふたりで一組みだと仕込まれた仕事は、天と地。正と負。善と悪ほどの隔たりがある。
グズリには客の負の情念が投げ込まれる。
おめえはいわばごみ箱だ。なんでもかんでも受けとめて、文句を言わないごみ箱だ。一級品のごみ箱だ。グズリを仕込んだ親方の褒め言葉は、何度聞いたって嬉しくなかった。
グズリは言霊を練って、ターゲットを弱らせる。それは客本人だったり、客の関係者だったりする。どちらにしてもターゲットを決めるのはグズリではない。
決定するのはスグリの役目だ。そして言霊の毒気で弱ったターゲットから、善の情念を写し取るのがスグリの能力であった。
「いいよなあ。お前の自動記述は。全然トラブルにならないもんなあ」
思わず吐いた愚痴に、スグリがくすんと笑う。
「貸してあげる。あったかい。かいかいかかかか」
腹に押し付けられたノートは確かに暖かい。須藤アカネから。そしてシュウから掠め取った暖かさだ。今ごろアカネのなかのシュウに対する思いは空っぽになっている。一方のシュウは違う。シュウは母親への気持ちを再確認した。不公平な一方通行のできあがりだ。でも良いじゃないか。どうせ家族なんて歴史の積み重ねのうえに、成り立っているもんだ。求める思いがあれば、又積み上げていけば良い。なにせ死んじゃいないのだ。生きてりゃ、御の字。なんだってやりゃあいい。
「サンキュ。さ、次の街、行くか」
ノートをスグリへ返し、疲れた足を引きずってグズリは歩き出す。スグリが続く。
「もっと集めて、スグリにちゃんとした母さんつくってやるからな」
兄と弟。それに母。兄弟の目標は家族を創り上げること。その為には多少痛い目にあってでも、ごみ箱になってみせる。
「やった。やった。楽しみたのしみ。しみしみししし」
無邪気に喜ぶスグリ。
一体あと何人の情念を吸い取ったノートを集めれば、母親代わりをつくれるものか。それはグズリにも分からない。人間の母親ならば、内側の情念だけじゃなく、外側の躯も必要になってくる。
「どっかに、ドストライクの熟女がいないかなあ」
無責任で身勝手なグズリの独り言が、喉の奥からころんと吐きだされる。真四角のエゴを弟に晒す前に。グズリはぐしゃりと片手で握りつぶした。
道はうねりながら続いて行く。街のあかりを目指し、ふたりは歩く。
足元の影さえ見えない、ふかくて暗い夜だった。
完
スランプ脱出か? 久しぶりに集中して書けました。最期まで読んでいただき、ありがとうございました。