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19杯目

 

 さすが、場数を踏んでいる人は、違うものだ。



「アゼリア、アゼリア」


 ジョウロを傾けながら、昨夜のことを考えた。夜も更けてきたことだしとどちらともなく早口に言い訳をして、すっかり互いに背を向けてしまった。思い出すと、なにやら額の辺りが熱くなってくるような気がする。唇に当たったのは、硬い指先だった。正直、意外だった。線の細い男性だと思っていたのに、アゼリアの柔らかい手とは、まったく違う。きちんと鍛えられている体だった。


 人との関わりは、必要最低限に生きてきたものだから、男女の距離感なんてわからない。でも、それでも彼の行動は、大胆に感じた。アゼリアの口元に触れた彼自身も驚いているように見えたが、されたこちら側としては、もっと驚くに決まっている。「はあ……」 勝手にため息が漏れて、胸の奥が痛くなった。


 社交界で浮き名を流していると噂されている割には、なんだかイメージと違う人だとばかり思っていたのに、やっぱり間違いなかったのかもしれない。色恋まで遊びのように洗練された貴族の常識なんて、アゼリアがわかるわけがない。「はあ……」「アゼリア!」「うわあ!」 耳元で叫ばれたから、跳ね上がった。


 瞬くと、ルピナスが腰に手のひらをあてて、アゼリアを覗き込んでいる。「なにかあったの? おかしいわよ、あなた」 昨夜のことを、彼女は知らない。早々に寝床にひっこんでいたからだ。ルピナスはディモルのことをよく思っていないから、知られてしまっては大変だ、と、「まさか、なんでも」 首を振った。しかしアゼリアの嘘は下手くそだ。


 ふうん、と彼女は一つ疑い深げに流し見をして、「それより」 小さな指をちょんと向けた。


「水、あげすぎじゃない?」

「……え? う、わ!」


 庭師がうっかりしていたなんてすまされない。悲鳴をあげて、じょうろの先を慌てて持ち上げた。あまり水は好まない品種だ。土の具合を確認して腰を落としたとき、「ひぎゃあ!」 今度は別の声が響いた。


 金髪の少年がいた。仕立てのいい服を着ていて、大ぶりの草丈の中に体育座りをしている。知らないうちに、アゼリアはじょうろを投げ捨てていたらしい。彼の足元に転がっていて、直接ぶつからなかったことは幸いだったけれど、頭から下までずぶ濡れだ。黄色い、小さな花がいくつもついたハーブの下で、少年は鼻をすすりながら泣いている。緑色の瞳をこちらに向けて、ぐずぐずと口元をへの字にしていた。整った顔の子供だった。


(い、いやそうではなくて!)


 これでは以前と同じだ。この間も、アゼリアは彼に瞳を見られた。そのときの恐怖を持った顔つきだとか、涙だとかは、忘れられない。アゼリアだって、無闇矢鱈に人を怖がらせたいわけではない。

 彼女の瞳を恐れると、人は大抵彼女に近寄ることはなくなる。だからこの間のときも、申し訳なく感じたが、これきりのことだと思っていたのに。


 ただでさえうるませていた瞳を、少年はさらにひどくさせ、ぼたぼたと洪水のような涙を流した。「ふ、ふ、ふ、ふんぎゃあ!」 それから、形容しがたい泣き声を出して、転げるように逃げていく。子犬みたいだ。


「な、なんだったの?」


 前回もまったく同じ感想を呟いた気がする。確かに、彼はアゼリアに恐怖していた。なのに、何度もやってくるとは不思議なことだ。「……魔力への抵抗が強いのかしら。よっぽど強力な精霊に守られているのかも」 アゼリアの瞳は魔力を含むらしい。ルピナスは呟いた。よくわからないけれど、少年の、すっかり土で汚れたお尻がどんどん遠ざかっていくことを確認して、小さなため息をついてしまった。風邪をひかなければいいんだけど。





 ***





 真っ黒なローブは、街中では逆に目立ってしまう。世間知らずなアゼリアでも、時間をかけて気づいたことだ。新しいローブはクローゼットの中にしまい込んでいたはずなのに、重苦しい気持ちでゆっくりと扉に手をかけた。臙脂色のローブの裾には、形ばかりの刺繍がついていて、お気に入りのつもりだった。それがすっかり色あせて見えるのは、不思議なことだ。


 なるべく道の端を歩きながら、横掛け鞄の紐を強く握りしめた。鞄の中では心配げな顔をしたルピナスが顔だけ出してこちらを見上げている。


 ローブの刺繍は、小さな花が黄色い色で縫い付けられていて、衣装店に吊り下げられていたときに見たときは、まるで夜空の星のようだ、と思ったのだ。きらきらしているように見えた。でも、今の姿をどんどん足元へ視線を下ろしてく。土だらけの、ぼろぼろの靴だ。長いローブの裾でも、隠しきれていない。気づけば、自分の情けなさばかりがよく見える。


「アゼリア、やっぱり帰ったほうが……」


 無理することなんてないわよ、とルピナスも言ってくれる。確かにそのとおりだ。でも、茶葉は作ってしまった。この間で全部を持ってこればよかったものの、作り貯めた茶葉は持ちきれなくて、それならと使ったところで、味に寿命にあるものだから、だめにしてしまうことなど目に見えている。アゼリアにとって、それは許せないことだ。


 形あるものになれたはずが、アゼリアのせいで、なんの意味もなく消えてしまう。そんなのだめだ。勇気を出した。一歩を踏み出した。そして反転した。(ま、また万一ディモル様にお会いしたら……!!?) 考えたら頭の中がおかしくなってしまいそうだ。


 可能性はゼロではない。そのため、以前とは違う時間にずらしたのだ。それより、別の茶屋に行ったほうが、と思案したものの、それができれば苦労しない。今の店で茶葉を卸しているのも、奇跡のようなものなのだ。


 反転して、進んで、やっぱり戻ってを繰り返した。いい加減にしたら? とすっかりルピナスは呆れていたが、自分だってそう思う。何度も同じことをしていたら、疲れてしまって、アゼリアは道の端に座り込んだ。レンガでできた道を歩くことは、彼女にとって、とても疲れることだ。禿頭の街路樹の下に座り込んで、ため息をついた。吐き出した息は真っ白だった。さすがの土の精霊でも、街を覆いきれるほどの力はない。一部の場所を除いて、街は正しい季節を刻む。真っ白い雲が空を覆っていて、今すぐに雪でも降り出してしまいそうだ。


 人の往来を、ただじっと見つめた。分厚いコートを着ていたり、忙しく走り抜ける人もいる。たくさんの人がいるのに、アゼリアは、決して彼らと同じものにはなれない。それは諦めでもなく、嘆きでもなく、自身と異なる人々を見つめていただけだ。ときおり、道の端に座り込んだアゼリアを、怪訝に見つめるものもいたが、ローブを深くかぶればこちらからは見えやしない。でも首元が、すうすうするような気がした。やっぱり帰ろう。紅茶は家に帰って、お腹をたぷたぷにしながら飲めばいい話だ。


 帰ろう、と告げたアゼリアの言葉に、ルピナスはほっと息をついた。彼女だって、アゼリアの行動を強制したいわけではなかった。ただただ、心配なのだ。いつもと同じく、彼女たちは花が芽吹くまで春を待ち、また彼らの眠りを見届ける。静かな日々だが、小さな幸せはあった。先代はいなくなってしまったが、彼女たちがすべきことに変わりはない。


 さて、と。

 諦めたときこそ、会いたくはない人間と鉢合わせるものである。


「もしかして、きみ」


 幾度も、夜に聞いた声の主だ。振り返ると、ディモルがいた。冷たい空気の中で、彼の金の髪だけがきらきらと輝いていて、宝石のような真っ青な瞳が見つめている。何度見ても、整った容貌だ。夜に出会うときよりも、堅苦しさのない服だった。奇妙に、心臓が音を立てていた。立ち止まったアゼリアに向かって、ディモルは足早に近づく。


「あのとき、マフラーを落とした子だね?」


 彼の言葉を幾秒か考えて、首元を慌てて両手で隠した。何をしているのかわからないけれど、とにかく、胸の奥が痛くてたまらなかった。


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