問題は待ってはくれない
目の前にはふんわりとあまいミルクの匂いが香るスープのボウル。ところどころ浮島のように姿を見せているのは白い部分だけを小さくちぎって入れられた柔らかなパンだろう。今は同じく白いスープを吸ってしっとりとその身を沈ませている。大きな具材は他になく、細かく刻まれた何らかの野菜が底の方に沈んでいる。思いやりに溢れた病人のための食事だ。
目が覚めて、倒れて、もう一度目が覚めて――長く待たされた食事がやっと目の前に来たのだ。
勿論、私が食べるよりも前に誰かが毒味をしたり、そもそも近くはないだろう距離にある厨房から運んできたりと時間が経ってしまっているため、現代日本のときのようにできたて熱々というわけではないだろうが、上ってきた熱が頬をなでて知らずこわばっていた私の身体がほぐれていくのがわかる。
スプーンを受け取って支えられたボウルからひと匙すくって口の中に入れれば、想像した以上に優しい暖かさが身体にじんわりとしみた。ミルクよりも甘い蜂蜜に、少しのシナモン、底に沈んでいたのはかぶか何かだろうか。全体的に甘い味付けなのは子供向けだからなのだろう。ほっと息を吐くのと同時にこの身体の鋭敏さに感心した。裕福ではないとはいえ、なるほど貴族というだけあって良いものばかりを食べていたのだろう。自炊が面倒だからといって外食しがちだったかつての私と比べてはいけない、これが貴族の身体なのか。
「お口に合いましたか。」
「えぇ、とても。」
あっという間にミルク粥を平らげる。さすがのタイミングで声をかけられ、口元を布で拭われた。
「先程旦那さまと奥様がお戻りになられましたが、お会いになれますか。」
「お父様とお母様が……お二人のご都合が問題なければ呼んでちょうだい。」
「かしこまりました。」
言われてみれば目が覚めてから両親のどちらとも会っていなかったが、二人して出かけていたとは思わなかった。
しばらくぼうっとしていると、扉をノックする硬い音が響き、すぐに両親の姿が現れた。
私のこの顔があるのだからわかってはいたが、揃って美男美女だ。年の頃もどちらも三十前後だろうから、三十路の記憶を持つ私としてはいらぬときめきを感じそうになる。いけない。私の実の親なのだから邪な気持ちは何処かへ行ってほしい。
「フレーズ、ジョゼフから聞いた。倒れたのだって……大丈夫かい。」
髪や瞳の色彩こそ落ち着いた色味だが、それをおいても若々しい印象の男がベッドの脇に跪く。この美男子が父親だなんて冷静に考えても理解が追いつきそうにいない。
そして、ジョゼフというのは文脈からしてあの診察時間の長い医者のことだろう。にこりと笑って大丈夫だと告げれば、遠慮がちに頬に触れていた手を離し、すぐさま両腕で包み込まれて視界が埋まる。
「ごめんなさいねフレーズ、お母様がいれば女の子が頭を打つなんてことにならなかったのに……」
涙ぐんだ声で私の小さな手を握っているのは、これまた父親に勝るとも劣らないほどの造形の女性――こちらが母親だろう。金の柔らかな髪に木漏れ日を集めたような瞳。まさに今の私と全く同じ要素を兼ね備えた美女。ただ一つ違うのは猫のようにつり上がった目の形だけだ。タレ目がちな私の目はどうやら父親譲りのようだ。
母親の方へも問題ないことを告げてごめんなさいと、と謝罪をすれば少しは安心できたのか声色が柔らかくなる。
私という存在は、両親にまでこんなにも目にかけられているらしい。貴族のひとりっ子なのだから当たり前かもしれないが、なんとなくむず痒くなる。
「そうだフレーズ、明日の昼に約束していたアルコンシェル侯爵家でのお茶会だが行けるかい。」
「貴女のためでもあるから……お母様と頑張れるかしら。」
アルコンシェル男爵家のお茶会。今の今まで全く思い出しもしなかった行事だったが、そういえばと言うように思い出された。
明日は社交界デビュー前の子供とその親のみで集まるお茶会が開催されるのだ。この世界の社交界ビューはおおよそ十一から十二歳。十四歳には学園へ入学する慣例のため、その前に顔合わせをして同じ派閥の人間の顔ぶれを覚えさせるため、年頃になる前から有望な婚約者候補を探すため、と他にも様々な思惑が会って開催されるものだ。本来多少の体調不良で休んで良いものではない。
正直貴族としての振る舞いを強いられる行事に微塵も気乗りはしていないが、ここで派閥への顔見せも出来ずにコミュニティから阻害されるなんてことが会っては貴族社会で生きていけないだろう。そんな事になったらゲームの主人公の年令になる前に最低な相手と結婚をさせられかねない。
そもそも両親の問いかけ方からしても私が断る想定は全くされていないのだろう訪ね方だ。
「本当に大したことはありませんし、わたくしも楽しみにしております。」
「そうか、それは良かった!」
色好い返事にぱっと喜びの色に変わった父親が身体を離して立ち上がる。母親と目を合わせてうなずきあう横顔には喜びと安堵の色が見て取れた。
常識的に考えて、前日になって急遽不参加なんてのは不名誉この上ないのだろう。体調不良なら致し方無いとも思うが、貴族の常識とは実に面倒なものだ。
(それにしても……アルコンシェル侯爵)
最後にもう一度、それぞれに優しく頭をなでてから部屋を去った両親の存在はすぐに頭の隅に追いやられ、明日訪問予定の侯爵の名前に妙な引っ掛かりを覚える。その名前をどことなく聞き覚えがある気がするのだ。ただ、その記憶がかつての自分なのか、今の自分なのかが定かではない。
かつての自分であればもしかすると攻略対象につながる人物かもしれないが、今に自分の記憶であったら、聞き覚えがあるのも当たり前だ。招待される時点で同派閥、かつ似たような年代の子供がいるのだから。同性であればお友達として、異性であれば婚約者として候補に上がっていても何ら不思議ではない。
今の私は伯爵家のひとり娘なのだから、家を継げないとわかりきっている伯爵や辺境伯、頑張って侯爵の家くらいまでの次男や三男が婿入り候補として見ているはずなのである。
(流石に攻略対象だったら顔を見れば、わかる……はず……いや、待ってよ)
今の私は十歳。ゲームの世界で主人公は確か十五歳だったはず。つまり攻略対象も五歳若い状態。
ゲームの立ち絵も曖昧な私にわかるだろうか、五年前かつ実写版の姿のキャラクターが。男の子の十歳から十五歳への成長っていったら間に変声期も成長期も挟まっているのが一般的ではないだろうか。声も違ければ、姿も違う相手をどう認識しろというのか。
小学生以来会ってなかったいとこが高校受験シーズンにあったらあまりにも変わっていたのを忘れてはならない。
(もしかして学校に行くまで誰が誰なのかわからない可能性あるんじゃ……)
かつての子供時代を思い出して、あまりの事実に愕然とする。
これはもう、攻略対象なんて探さずに明日のお茶会で有力な婚約者候補を見つけてしまったほうが良いのではないだろうか。
わたしはもう、周りに振り回されないようにすると決めたんだから。
ゲームだの攻略対象だの甘いことを言っていないで、一日でも、一分でも早く安定した婚約者を迎えるべきだ。
そして、問題が起きる前にどうにか結婚をしてしまうなり何なり、確実に悪夢を回避する手段を見つけなくては。子供時代の五年なんてものはあっという間に過ぎてしまうものだ。