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めしや・うのはな  作者: 蒼井ふうろ
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2-1 頑張るきみにレンジプリン

 目を覚ましたら知らない天井だった。


 聖真はぼやけた視界と頭でそのことを認識し、認識が理解に変わってからがばりと勢いをつけて起き上がった。ここはどこだ、今は何時だ。きょろきょろとあたりを見れば時計があり、短針は四と五の間にある。ほんの僅かに外が白んでいるところを見れば早朝なのだろう。慌てて跳ね起きたせいで心臓がものすごい勢いで跳ねている。ふーっと長く息を吐いた。


 それから改めて辺りを見回す。見知らぬ天井のある部屋は、やはり見知らぬ部屋である。小綺麗に整理された和室は聖真の寝ていた布団と、小さな木製の机、両開きの扉がついた棚のようなものしかない。


 ここはどこだろう。


 もう一度あたりを見回した時、からり、軽い音がして襖がわずかに開いた。一瞬身を固くした聖真の耳に「あら」と鈴を鳴らすような声が聞こえる。



「おやようございます、お目覚めでしたか?」

「あ……」



 昨日の、と言おうとして喉に異物感を覚え、せき込む。昨晩聖真に食事をとらせてくれた女性は慌てることなく丁寧な所作で襖を開くと水の入った透明な急須じみたものを聖真に差し出してくる。



「ここをくわえてください」



 言われるがままに急須の注ぎ口のような場所をくわえれば甘い液体が流れ込んでくる。うまい、と思わず目元が緩んだ。


 ごくりごくりと喉が鳴るのが分かる。心地よい冷たさの液体をすべて飲み干して、聖真はようやく息を吐いた。



「いい飲みっぷりでしたねぇ」



 女性は聖真の口が触れた部分を布で拭うと、液体が入っていた容器を載せてきていた盆の上に戻した。かろんかろん、氷が容器に触れて涼しげな音を立てる。その音にハッと我に返った聖真は布団の上で居住まいを正した。



「あ、あの……すいません、僕……」

「ああ、大丈夫ですよ“伊佐木聖真”さん。……不躾とは思いましたが、万が一のことを考えて身分証明証は預からせていただいていますから」



 穏やかに頬笑む女性はその言葉に続いて美しく頭を下げる。



「初めまして、わたくし、卯ノ花かなえと申します」

「どうも、伊佐木聖真、です……あの、昨日はとんだご迷惑を……」



 居心地悪くぼそぼそと話す聖真に卯ノ花かなえと名乗った彼女は首を横に振る。



「伊佐木さんはずいぶんお疲れの様子でしたからねぇ。ご飯も食べずに働くなんてこと、この暑い時期にするのは無謀ですよ?」



 かなえの諭すような声色に聖真の肩がみるみる下がっていく。強く叱責されることには耐性がついていたが、逆に心配がにじみ出る声で言われると何とも言いようのないむず痒さと申し訳なさがこみあげてきた。


 お仕事忙しいんですか?とかなえが問う。聖真は一瞬悩んだが、素直に頷いた。



「今年、社会人一年目で……俺、要領が悪いから他の人に迷惑かけてばっかりで……」



 聖真の細切れになったような言葉をかなえは遮らずにじっと聞いている。続けてするすると現状を説明する言葉が口から零れていくのを、聖真は不思議な感覚で聞いていた。自分が話しているので“聞く”という表現は本来適切ではないのだろうが、喋っている自分を斜め上から客観的に見ている自分がいるといった感覚である。


 夢見て教師になったこと。在学中と就職してからの周囲との関係性のギャップ。教師という仕事の予想を上回る忙しさ。上司にうまく対応できない自分の情けなさ。自分の能力のなさへの絶望。


 誰かに話すと馬鹿にされそうで黙っていた言葉たちが流れ出ていく。“社会人なのに”と言われることをどれほど恐れていたのか、その時聖真は初めて認識した。社会人になったのだから、学生ではないのだから。それくらい自分で考えなさい、自分で率先してやりなさい。情けない話だが、学生気分が抜けていないというのはどうもその通りだったのだ。


 ただ泣き言が許されるならば。学校を卒業して、「はい、今すぐ一人前の社会人になってください」と言われても、それは聖真にとって非常に難しいことだった。少し待ってほしかった。すぐに一人前の社会人になるから、頑張るための時間がほしかった。要領が悪いだけだとわかっているが、ただ、それだけだった。


言葉を吐き出しきって、聖真は口をつぐむ。



「がんばりましたね」



 聖真の言葉が止まった時、かなえは静かに、本当に静かにたった一言そう言った。じっと聖真の目を見つめて、深く頷きながら紡がれたそのたった八文字に視界が滲む。



「わたしは教師になったことがないので、正直を言うと伊佐木さんがどれほど難しい立場にいるのかはよく分かりません。でも、なんとか頑張ろうとして、頑張って頑張って、頑張りつくして今ここにいるのはなんとなく理解しているつもりです」

「……」

「伊佐木さんのおっしゃったように、伊佐木さん自身が意識して変わらなければならない部分もたくさんあるでしょうね。社会人になるために、学生の殻を破るのは確かに必要なことですから」


 そこまで言うとかなえは一度言葉を止めた。



「でもね、頑張るためのエネルギーなくして頑張るのは、ガソリンのない車に無理やり走らせようとするのと同じですよ? 最初はよくても遠くないうちにガス欠が起きてしまいます」



 昨日の伊佐木さんはちょうどそんな感じでしたね、とかなえが笑う。聖真は自分の顔が赤らむのが分かった。そうだ、ガス欠を起こした挙句、目の前の女性にラムネを食べさせてもらい、ここまで連れてきてもらってご飯をごちそうになり、あまつさえ寝落ち。他人に迷惑をかけてはいけないなどと、どの口が言えたものかと思う。


 笑顔のかなえに頭を下げる。畳に額が付きそうなほど頭を下げ、それからゆっくりと上げた。



「その……」

「はい、なにか?」



 自分でも半ばどうかしているな、と思いながら首をかしげるかなえに言葉をかける。



「……昨日のご飯、ごちそうさまでした」



 キョトンとした顔、とか鳩が豆鉄砲を食ったようば顔、という文章の横に挿絵として載せればさぞや分かりやすい辞書になるだろう。そう思ってしまうほど目の前のかなえは驚いた顔をしている。


 なんとなく言わずにいられなかったので告げた言葉だったが、言わないほうがよかっただろうか。そんな聖真の微妙な怯えは次の瞬間、かなえのほころぶような笑顔に氷解する。



「いいえ、ふふ、こちらこそ……ふふふ、お粗末様でした」



こらえきれないというようにかなえはくすくすと笑っている。一気に恥ずかしさがこみあげてきたが、それと同時に、かなえがあまりにも嬉しそうに笑うものだから言葉を挟むこともできない。


 ひとしきり笑った後、かなえは聖真に向き直り、笑いすぎてうっすら涙を浮かべた目のままこう言った。



「なんだかんだでいい時間です。シャワーを浴びる時間はありますか?」

「ああ……この時間なら大丈夫です」



 ちらりと時計を見やれば一時間ほど経っている。まだ六時前なので、今から軽くシャワーを浴びていけば学校には七時半に着けるだろう。こくりと頷くとかなえは「じゃあ、洗面所に案内しますね」と言い立ち上がる。


 次いで立ち上がろうとして聖真は気が付いた。自分の服が、スーツではなくなっている。ラフなTシャツにステテコとでも言おうか、軽い素材のズボンを履いていた。



「う、卯ノ花さん」

「はぁい?」

「あの、俺、いや、僕の服なんですけど……」



 そこまで聞くと笑顔だったかなえの顔が若干引きつる。そうしてうろうろと視線をさまよわせた後、大変申し訳なさそうな細い声で告げた。



「伊佐木さん、寝てしばらくして戻しちゃったので……失礼だとは思ったんですけど、着替えさせて、服を洗って乾かしてますぅ……」



 それを聞くが早いか、聖真は立ち上がった姿勢を崩して再び両膝を折り曲げ、今度は音がなるほど勢いよく頭を畳に叩きつけた。


 人々はこれを、土下座、と呼ぶ。






§2 頑張るきみにレンジプリン








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