1-2 とろろおにぎりとたまごやき
女性に導かれるまま五分ほど歩く。四月に今の学校に勤めてから毎日通っているはずの道なのに全く覚えのない通りである。日頃お世話になっているコンビニ以外がどれほど目に入っていないのかを認識し、なんとなくいたたまれない思いになった。
「ここです、小さいんですけど」
そう言われて目線を向ければ、そこにあったのはごく普通の一軒家である。
いや、ごく普通、ではない。車庫部分になっているのであろう一階は無骨なシャッターではなく、小料理屋のような風貌である。紺絣の美しいのれんには抑えめな金の文字でこう書いてあった。
めしや うのはな。
「料理屋さん、ですか」
小さな声でそう聞くと、女性はこくりと頷いた。そうして慣れた手つきで大きな袋を抱えたまま鍵を取り出すと鍵穴に突き刺し、かちゃりと右回転に捻る。からからという小気味いい音を立ててスライド式の扉が開くと其処に広がっていたのは暗闇だった。
「ごめんなさい、電気つけますねぇ」
女性の声の後、ぱちり、という軽い音が暗闇に響く。じじ、ぱちぱちぱち。蛍光灯に電気が満ちてゆく音と僅かな点滅が繰り返され、それが終わるころには空間の内部が把握できるようになっていた。
木目調の美しいカウンターにはランチョンマットがちょこんと乗せられていて、五つほどの丸椅子が備え付けられている。既製品ではないのか、木の色合いは似ているが僅かに異なっている。画一化されていないとでも言おうか。何もかもが均等に整えられた学校という場所にいる聖真からすると、どこか落ち着かないような感じがした。
そしてカウンターの奥には単身者がまずお目にかからないであろう大きな冷蔵庫と、これまた大きなキッチンがあった。よく拭き清められているのだろう、シンクには水滴一つ無く、蛍光灯の光を浴びて白く光を返していた。
女性はかちかちと壁のリモコンを操作する。何かと思っていると聖真の首筋にやんわりと風が当たった。壁の上部に取り付けられた扇風機が涼しげな音を鳴らして首を振っている。
「さ、座って座って。荷物は適当にテーブルにのせちゃっても良いし、足元のボックスに入れてくれても構いませんからねぇ」
口調の緩やかさとは似ても似つかない素早さで女性は冷蔵庫に荷物の中身を収めていく。本当に座って良いものかともじもじしていると、女性は聖真のほうを見やって「そんなに緊張しなくても取って食ったりぼったくったりしないから大丈夫ですよぅ」と言いながらへにゃりと笑った。
その笑顔に特に騙そうとする意思は感じられない。いや、聖真が弱っているからわかりやすいぼったくりにも気づけないだけかもしれないが。少なくとも現段階で誰かを疑ったり敵視したり出来るほど聖真にはエネルギーが残っていなかった。
女性に言われたとおり、鞄を足元のボックスに入れて席に座る。ゆっくりと腰掛けた瞬間、口から「ああ……」とため息ともうめき声ともつかない音が漏れた。久しぶりに仕事をするという目的以外で椅子に腰掛けたかもしれない。
コトン、目の前に湯飲みが置かれる。白地に薄い青色で花の絵が描いてある、どことなく可愛らしい印象を与える湯飲みだ。中には僅かに湯気の立つ茶が入っている。麦茶かと思ったが、それとは違う独特の匂いがした。
「それ、玄米茶なんです。冷たいものを一気に飲むとおなかがびっくりしちゃうので、喉が渇いているかもしれませんがぐっとこらえてゆっくり飲んでくださいねぇ」
「はあ……」
女性に言われるがまま、聖真は湯飲みを手に取って玄米茶を口に含む。びっくりするほど熱いというわけではないが、冷たくもない液体。それは口に入った瞬間に香ばしい匂いを感じさせた。ごくん、飲みこむと玄米茶が体の管を通って降りていくのが分かる。食道を通って胃に落ちたのか、先ほど感じた香ばしい匂いだけが口の中に残った。
「美味しいでしょう? 夏場ってどうしても冷たいものを飲みがちなんですけど、そうやって微妙にごくごく飲むには勇気がいるなあって温度でお茶をいただくとおなかがストレッチを始めてくれるからご飯が食べやすくなるんです」
聖真のほうを見た女性は嬉しそうにそう言った。目が消えてしまうのではないかと思うほどにっこりと笑んだ彼女は「何か食べられないものとか、アレルギーはありますか?」と問うた。
「あ、いえ、特にないです。突拍子もないものじゃなければ大体何でも食べられます」
「そうですかあ、それはいいことです!」
本当に嬉しそうな声でそう言うと、女性は手際よく卵を割り、そこに調味料を合わせて入れていく。気づけばじゅうじゅうという音がして、コンロの上には玉子焼きに使うフライパンが熱されていた。
ちゅわわわわわわ!
どことなく間の抜けたような音を立てて卵液がフライパンに流し込まれていく。卵の焼ける匂い、醤油の焼ける匂い、後は何が入っているのだろう。少し甘い匂いがした。少し熱が入ると女性はくるくると菜箸を使って卵を巻いていく。見るからに柔らかそうな内側と違って外側はほんの少し茶色くなっていて、店でよく見る真っ黄色の玉子焼きの様相ではない。
しかしその玉子焼きはまだ聖真が学生だったころ、母が毎日弁当に入れてくれていた玉子焼きによく似ていた。いつもいつも同じ味で、飽きるから入れるなと偉そうなことを言った次の日にも変わらず弁当箱の隅にいた、実家の玉子焼き。
「急に食べると逆に体に悪いですし、食欲もそこまであるわけではないでしょうから……。あまり派手なものや凝ったものが作れるわけではないですし、これで許してくださいねぇ」
「あ、いや……むしろ、そういうののほうが食べやすいっていうか……」
「あらあら」
にこやかに笑いながら女性は手早く握り飯をこしらえていく。コンビニで売られている均等な形のものではなく、三角っぽかったり丸っぽかったりまちまちだ。
女性は真っ白な握り飯に何かを巻き付けていく。海苔かと思ったが、それにしては随分と薄い色のように見えた。ふわふわと鰹節のように湯気に従って揺れているそれは、淡い緑色をしている。
「とろろ昆布、お嫌いですか?」
視線に気がついたらしい女性がそう聞いてきた。聖真は首を横に振る。嫌い、というほど食べた覚えはない。父方の祖母が、盆や正月に帰省したときにうどんに入れてくれていたなあ、という程度である。とろとろとした食感以外の印象は薄い。味が合ったかどうかも定かではないが、うどん出汁に入れて味の印象がないならさして強い味のものでもなかろう。
女性はみるみるうちに四つある握り飯にとろろ昆布を巻き、白い平皿に載せた。その隣に切り分けた玉子焼きを三切れほど載せて、タッパーから大根おろしを掬うとその近くに盛った。
ことんことん、木材と陶器がぶつかる小気味よい音が耳に届く。
「とろろおにぎりとたまごやきの晩ご飯セットです。おなかがびっくりするかもしれませんから、味が濃くなくて消化しやすいものになっていますよぅ」
さあ、めしあがれ。
女性の声に促されるように目の前の皿へ視線が移る。手を伸ばそうとして、思いとどまり、胸の前で両手を合わせた。
「……いただきます」
手を合わせてそう呟いてから、自分が久方ぶりにその言葉を口にしたことに気づいた。食事をまともにとらなくなる前から、一人で食事をするようになってから、徐々にその言葉を忘れていたように感じる。
挨拶を終えて、改めて握り飯に手を伸ばす。もふっとした柔らかい感触が指先に伝わり、そのまま持ち上げればずっしりした重みが手に広がった。口を小さく開けて握り飯を口に含む。
「……うまい……」
口から思わず声が漏れた。だって、本当に旨かったのだ。ただの握り飯なのに。食べたことはないはずなのにどこか懐かしいような、泣きたくなるような旨さである。
とろろに味がないなどと言った馬鹿は誰だ。自分だ。撤回する、とろろには味がある。しかしそれは決して刺激の強い味ではなく、上品な旨みだけを凝縮した、海藻の美味しいところだけを総取りにしたような味だ。飲み込むと聖真の腹は「ぐう」と鳴いて次の一口をねだった。それを皮切りにして握り飯に食らいつく。
がぶり、大口を開けて食らいつくと不意に口内に強い刺激が走った。条件反射のように口がきゅっとすぼまる。
「あ、おにぎりは中身が梅干しですから……って、ごめんなさい、遅かったですねぇ」
おかわりです、と言いながら女性が湯飲みに茶を注いでくれる。それを口に含み、口の中に残ったままだった米と梅干しととろろを飲み下した。ふは、と息をつく。息を深く吸ってみれば握り飯の香りと玄米茶の香ばしさが鼻から抜けていった。
「あ……匂いが、うまい……」
「あら、匂い……ですか」
「いや、変な意味じゃなくて……なんだろ、米と米だから……?」
言語化して説明しようとして数回言葉を練ってみたが、うまくまとまらない。頭が回っていないからなのか語彙力が低下しているからなのか、それとも聖真の語彙ではピタリとくる表現がないだけなのか。女性は困ったように眉尻を下げて聖真を見つめている。
「……な、なんでもないです」
いたたまれなくなり、誤魔化すように玉子焼きを箸で切り、口に運ぶ。
こちらも旨い。仰々しい料理ではないし目玉が飛び出て頬が落ちるような味というわけではないのだが、如何せん旨い。聖真の実家の玉子焼きに比べてやや甘みが強いが、くどい甘さではないので梅干しの酸っぱさに驚いた口内には優しい味として届いた。時折醤油の僅かに焦げたような香りがしてそれがまた食欲をかき立てる。
一口、二口。咀嚼して嚥下して口に含んで、と同じ動きを延々と繰り返す。食事をとっているはずなのに聖真の腹はぐうぐうとよく鳴いた。
「ご……ごちそう様でした……」
「はい、お粗末様でしたぁ」
食べ終わり、長く長く息を吐く。多幸感で体が重い。食事をして体温が上がっているようだが、背後から穏やかに風を送る扇風機のおかげで良い具合に涼しい。あまりにも快適で、あまりにも幸福だ。もう一度長く息を吐き、目を閉じる。かちゃかちゃ、女性が食器を洗うときに起きる僅かな音と扇風機の音、自分の呼吸音だけが聞こえている。
「はい、食後のお茶ですよぅ……って、あら?」
返事のなくなった聖真を見て、女性は動揺した様子でキッチンから出てくる。
「お客さん? もしもぅし、お客さん?」
ゆさゆさと体を揺さぶると力が抜けていることが分かる。慌てた様子で顔に耳元を寄せれば「すぅすぅ」と規則正しい呼吸音が聞こえていた。
眠っているようだ。
「えぇ~……お客さん、うちは料理屋ですけど、宿屋じゃないですよぅ」
声をかけながら何度か揺さぶるが、よほど深く寝入っているのか目を覚ます様子はない。
誰にでも視認できるほど濃い隈、こけた頬と落ちくぼんだ目、荒れた肌に似合わない、かろうじて整えられたくたびれたスーツ。夜の十一時を回ってあんなにふらふらと歩いている人間なのだからよほど過酷な状態だったのだろうということは想像に難くない。食事もろくろくとれない状態だったのだろう。
仕方ないなあ、女性は呟いて聖真の後ろに回り込み、彼に肩を貸すような形で立ち上がる。苦労するかと思ったが、思っていた以上に体は軽く、少し力をこめれば軽々と運べそうだった。下半身に力をこめ、そのまま聖真の体を店の奥にある扉のほうへと運んでいく。
「やれやれ……まあ、これもご縁ですかねぇ」
女性はつぶやき、引き戸をカラカラと開けてその奥にある居住スペースへ進んでいく。畳敷きの部屋に聖真を寝かせるとその上に軽くタオルケットを掛けた。
「ようこそ、めしやうのはなへ。……おやすみなさい、“迷子さん”」