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めしや・うのはな  作者: 蒼井ふうろ
1/3

1-1 とろろおにぎりとたまごやき


 こんなはずじゃあなかったんだよなあ。


 とぼとぼと歩くコンクリートの道に、僅かに染みが広がる。ずず、洟をすすって聖真は歩を進めた。夏も暮れだというのに夜間ですらまだ暑く、熱気による汗と体調不良の水っぱなが不快だ。皺の寄ったスーツも汗でぐしゃぐしゃになったシャツも喉を締め付けるようなネクタイも何もかもが不快である。



「……こんなはずじゃあなかったんだよなあ」



 もう一度、今度は小さくではあるが口に出した。誰もいない、街灯だけがぽつんぽつんと立っている夜道にその声は消えていく。


 本当に、こんなはずではなかったのだ。


 今年の四月に聖真は大学を卒業し、念願だった教員になった。地元の公立に勤務するには少々障りがあったので、生活費のこともあって県を二つほど超えたところにある私立の中高一貫校に就職を決めた。成績が最近上がってきており、高校の進学実績は県内で上位に食い込むほどだという。教え甲斐もあろうと在学中から何度か学校を訪問し、教科主任や学校長などとも綿密に四月からの働き方を確認した。先方は聖真が足繁く学校を訪ね、四月からの勤務に意欲的な態度を示すことを随分と喜んでいたのだ。聖真もせっかく県外に出て働くのだから自分が思い描いていたような「子供のために全力を尽くせる教師」になりたいと思っていたし、そのためには学校のことをよく知っておく方が良いと思っていた。


 そうしていざ四月から働き始めると、どうも様子がおかしい。あんなににこやかに対応してくれていたはずの教科主任や学校長は笑み一つ浮かべず淡々と仕事を与えてくる。最初は社会人になって学校の一員になったのだから、お客様扱いが終わったのだろうと思っていた。身内に気を遣い続けるのは並大抵の労力ではないだろうから、自分も気持ちを切り替えて頑張ろう、と。



「伊佐木先生、なんでこの案件終わってないんですか? 書類提出が今日までってことは知ってましたよね?」

「え、それは北岡先生のほうにご依頼が……」

「あのねえ、社会人は自分で仕事を探すのが当然なんですよ。僕から仕事とっていくくらいの気概じゃないと、困るんですよね。というかこのくらいの仕事、僕に声をかけられる前にやっておきましたって言わないとだめでしょ。いつまでもお客さん気分でいるのやめてくださいね」

「す……すみません」



 本格的におかしいと気づいたのは就職してから一ヶ月がゆうに過ぎた頃だった。公立に勤めた大学の同級生たちは土日が研修会で潰れるのだと文句を言っていたが、聖真の勤める学校には研修会など形しかない。授業の指導があるわけでもないし、校務分掌業務に至っては前年度の引き継ぎすら無い状態。何もかもが手探りの状態にも関わらず、先輩に聞けば忙しいからそれくらい自分で考えろと言われるし、聞かずにやればうちのやり方ではないと怒られる。


 幸いだったのは新卒一年目ということで担任業がなかったことだが、副担任でもやるべきことは山のようにある。中学一年生、入学してきた生徒たちは聖真の想像を斜め上に超えるほど“子供”だった。人の話が聞けない、じっとしていられない、奇声は上げる、気にくわなければ口よりも手が先に出る。そんな野生児のような子供がいるかと思えば、大人を値踏みしてどこまでなら怒られないかのラインを引き、そのラインの中で陰湿なやりとりをするような子供もいる。


 目が回るような忙しさの中で、まず聖真はそんな子供たちに“教師として認められる”必要があった。若い教員はそれだけでなめられるのに、聖真が他の教員から粗雑に扱われているのを知っているのだろう。授業中クラス全員を座ったまま保てるようになるまで二ヶ月かかった。


 担任の土手は今年勤続三年目の数学教師で、初めて担任を持ったと聞いていた。自分より二年も長く勤めているのだからきっと物事をよく知っているのだろうと思っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。初めての担任業で気が立っているのか元来の性格なのか、土手はよく聖真に当たった。クラスの雑用をする余裕はないらしく、施錠前の掃除や書類整理、機嫌の悪そうな保護者とのやりとりは全て聖真に振り、土手自身はクラス運営以外のことをしない。別に仕事だと割り切ればどうということもないし聖真自身がそれらの作業を嫌いではないのだが、いかんせん量が多かった。量が多くなればかかる時間も延びるし細々としたミスも増える。


 土手は聖真のそういったミスに気がつくと、必ず「あれだけ時間かけておいてなんでこんなミスが出るんだよ」といらだちを隠さずに言った。その言葉を言われるたびに聖真は「じゃあ自分でやれよ」と思ったが、社会人になって一年どころか半年も経っていない自分がそんなことを言おうものなら大問題になることは火を見るより明らかである。


 そもそも二ヶ月経った頃にはそんな怒りは湧かなくなり、五ヶ月経った今では何を言われても何も感じなくなったが。



「俺、なにしてんだろ……」



 ふらふら、ふらり。徐々に足取りは覚束なくなっていく。視界が一瞬真っ白になり、そのあと真っ暗になり、瞬きの後にぼやけた風景を写しだした。


 貧血かなあ。


 靄がかかったような頭で考えられたのはそこまでだった。がくりと足の力が抜け、膝が折れ曲がる。だくだくと流れていた汗が目や口に入るのがわかったが、拭おうという気にもなれない。気持ちの悪いもやもやとした何かが喉の奥につっかえている。ぐるぐる、視界が回って、そして。



「あのぅ……?」



 女性の声が聖真の鼓膜を揺らす。気力を振り絞って声の方向に頭を上げれば、こちらを心配そうにのぞき込む蜂蜜色の瞳と目が合った。黒髪を緩やかに束ねた妙齢の女性である。両手に大きなビニール袋を持っているので買い物帰りだろうか。



「もしもぉし、大丈夫です?」



 こくりと頷く。ぐわんぐわんと揺れる視界が煩わしくて、頭を下げた状態から頭が上げられない。そんな状況は大丈夫か否かで言えば大丈夫ではないのだが、見知らぬ他人に迷惑をかけるわけにもいかなかった。ましてや大荷物を抱えた女性である。早く帰って荷を下ろしたいにきまっている。



「大丈夫、なんで……はい……」



 そう答えれば女性は「そうですか」と小さな声で答える。それからカサコソと袋が擦れる音が鳴る。



「大丈夫な人はそんな死にそうな声を出さないと思うので、お節介を焼かれてくださいねぇ」



 ひや、と額に冷たいものが触れる。人の手だと認識するより早く息が漏れた。ほてった体に涼やかな温度が心地よい。



「熱はないですが、わたしの手とほとんど温度が変わらないってことは随分と体温が下がっていますねぇ……。牛乳、ゼラチン、卵にアレルギーはありませんか?」

「……ない、です……」

「それはよいことです。じゃあ、少し失礼しますよぅ」



 ひやりとした指先が聖真の顎に触れる。そのままゆっくりと視界が回転しないくらいの速度で顔を上げられた。真剣そのものと言った目でこちらを見つめる女性が指先に何かをつまんでいるのが見える。さあ口を開けて。言われるがままにわずかに口を開ければ、女性がつまんでいたものが口内に入ってきた。


 甘い。



「ラムネですよぅ。素人判断で申し訳ないですけど、お兄さんかなりの低血糖に見えたので、とりあえず糖分注入です」



 懐かしい甘さがじわじわと口の中に広がっていく。久しぶりに感じた甘みに思わずうっとりとしたため息が漏れた。それを聞いたらしい女性が満足げに頷く。もう一つ食べられますか?と聞かれて素直に頷けば、先ほどと同様に女性がラムネを食べさせてくれる。客観的に見れば成人男性が成人女性にラムネを食べさせてもらっている構図など異常事態以外の何物でも無いのだが、あいにく今野聖真にはその異常性を理解するだけの理性が残っていなかった。ただ甘く柔らかい味を感じることに体中が集中している。



「思考力の低下、視界も悪そうですねぇ……お兄さんはお仕事帰りですか?随分遅いですけど」



 こくり。ラムネを口に含みながら頷く。



「失礼ですけど、お食事は?」



 首を振る。今日は朝エネルギー飲料を飲んだきり、水しか口にしていなかった。食べる時間が無かったこともあるが、単純に空腹を感じなかったのだ。食事の時間があるなら目の前の仕事を一つこなした方が早く帰れそうだ、という打算もあった。空腹でないなら食べる必要はないだろう。さほど気にすることでもない。


 ところが聖真の思考に反して目の前の女性の顔が一瞬険しくなる。不安に駆られてそちらをじっと見れば、女性は長く長くため息をついた。



「犬や猫を拾うのとは訳が違うって、また怒られそうですねぇ……」

「え……?」



 聞き返した聖真に女性は「いいえ」と小さくかぶりを振ってから微笑んだ。




「ごはん、食べていきませんか? おなかが満たされると元気になりますよぅ」




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