番外1 双子が産まれたその日
カイを……いやイニスを乗せた馬車が村から遠ざかっていく。
大きく手を振って娘になった息子を見送る夫婦は複雑そうな顔をしていた。
「あなた……やっぱり出発の前の日にあの話をしなくても良かったんじゃないかしら」
「ああ、俺も今それを考えていたよ」
カイが生まれたあの日——あの日は今日のように少し湿ってはいたがそれでも遠慮がちに太陽が照っている、そんな日だった。
* * * * * *
ドンドンドン……と激しく扉が叩かれる。
その音は叩いている者に差し迫っているのであろう危機を知らせるのには十分だった。
午前の診察を終えた村で唯一人の医師であるマリーナはのんびりとお茶を飲みながら、しばしの午睡を微睡みながら楽しんでいた。
しかし突如激しく鳴りだした危機の音色を聞くと緩んでいた顔をキッと引き締め、すぐに医療道具の入ったカバンを手に取って入り口に向かう。
扉を開けるとそこにあったのは未だに幼さの残るケイネスという若者の顔だった。
ところどころに残る剃り残したヒゲはその者の置かれている状況を雄弁に語っていた。
「やっぱりケイネスか! イリアンの容態だろう!?」
「ああ、先生。イリアンが……イリアンが……」
「こら、旦那がそんなんじゃ奥さんも心配しちまうよ! ほらシャキッとしな。詳しい話は家へ行ってからだ!」
そういってケイネスはマリーナに尻を引っ叩かれながら家路を急ぐ。
ケイネスが息せき切りながら自宅の扉を荒々しく開け放つと、そこには足の間から血を流したイリアンが床に倒れこんでいるという衝撃の光景があった。
「お、おい。あれだけ寝ておけと言ったのにまた動いたのか……」
ケイネスは慌てて家へ飛び込むとイリアンの元へ駆け寄ってその背中を撫でる。
「だって……この子達が…………へ、行って、欲しいから……って空……に」
イリアンはあまりの痛みに錯乱しているのか、要領を得ない受け答えをする。
その声がひどく掠れていて聞き取りづらかったというのもあるが。
「ほら、あんたはどきな!」
尻を叩かれながら走ったケイネスはさらに尻を叩かれてその場をマリーナに譲った。
「ゆっくりだよ……ゆっくりと深呼吸をするんだ。いいね? 焦らなくていい」
マリーナはそういうとお湯と水、それにタオルをありったけ持ってきな、とケイネスに注文をする。
妻の容態が心配なのか呆けて動けないその尻はまたも叩かれる羽目になった。
結局家中のタオルを集めてもマリーナの要求する量にまだ足りず、ケイネスは村中の家々を駆け回って集める事になった。
そのため、イリアンの危篤は村中の者たちが知る所となったのだった。
ケイネスが家へ戻ると先程まで妻が倒れていた場所にその姿はなく、焦って家の中を探す。
するときちんと自分のベッドに横たわっているイリアンの姿がそこにはあった。
ケイネスはそれを見て多少は状況がよくなったのだろうと考え、ほぅと息を吐いた。
「良かったよイリアン……歩けるくらいにはなったのか。……イリアン? イリアーーーンッ!!」
「まったく、耳元でピーピーうるさい男だねぇ。イリアンは気を失ってしまったからアタシが運んだんだよ! 細腕のババアだからって舐めるんじゃないよ。それよりタオルは集めてきたんだろうね?」
「あ……はい。それより先生、イリアンはっ!?」
ケイネスは村中から集めてきたタオルをマリーナの側に置くと口から泡を飛ばしながらそう尋ねた。
「気を失ったと言っただろう。状況は悪くなっているさ。でも考え方次第では良くなったともいえるねぇ」
「……と、言いますと!?」
「今まで痛みでロクに睡眠も取れていなかったろうしね。今だけは痛みを手放せたってことさ」
マリーナのその言葉にケイネスはガツンと頭を殴られたような衝撃を感じた。
それは先程までに何度も何度も叩かれた尻の痛みよりもずっとずっと痛いものだった。
一度イリアンが痛みに倒れ、それでも我慢をしてお腹の中で育てると決めたイリアンの意思は尊重していたが、やはり心配は心配だった。
そのため、常日頃からその体調には気を使ったいた。
いや、気を使っていたつもりだった。
毎朝、いやちょっとしたタイミングでしょっちゅう体調を聞いてはいたのだが、「大丈夫よ、今日は調子がいいの」と繰り替えす妻に少しばかり気を抜いていた日もあった。
ケイネスはそんな妻の強がりを間に受けて、イリアンに家事を任せ時には村の連中と酒を呑んで帰る日もあったほどだ。
そんな呑気な自分の知らない所で妻は眠れない程の痛みにひたすら耐えていたというのか。
今更ながらそんな事に気づいたケイネスはぐっと唇を噛んだ。
ポタリと落ちる雫の音に気づいたマリーナははぁ、と溜め息を一つ吐いた。
「あんたがそうやって悔やむのもいいだろう。でもね、今はその時じゃないよ。イリアンがこの危機を無事に乗り切った時、その時にちゃんと労ってやりな。それが夫婦ってもんさ」
「はい……。イリアン、だめな夫ですまん」
その涙の混じった声は上手に声にならなかった。
「さぁ、ここからは下手な戦争よりも危険さね。あんたは部屋の外に出ておいき」
「……っ! 俺は妻の、イリアンの側にいてやれないのですかっ!?」
「ああ、ここからは”魔法”を使うからね。泣き虫が側に居たら集中できやしない」
マリーナはそういうと袖をめくりあげた。
二の腕、肘の近くには滴る水のような<刻印>がしっかりと刻まれていた。
ケイネスはそれを見て取ると邪魔をしてはならない、とばかりにそそくさと部屋を出た。
イリアンをよろしくお願いします、という言葉とその思いをマリーナの背中に託しながら。
「さぁて、久しぶりの魔法だよ。これは賭けになるかもしれないねぇ。アタシにとっても……イリアン、あんたにとってもね」
ケイネスにとって、それは地獄のような時間だった。
自分は妻に何もしてやれず、こうして死の淵を彷徨っている。
こんな時になって「ああしてやればよかった」、「こうしてやればよかった」と詮のない考えばかりが浮かんでは消えていく。
それはまるで死んでいった者に抱く後悔のようでもあった。
それに気付いたケイネスは頭を振り、自分の頬をひとつ張った。
「俺が弱気になってどうするんだ。イリアンは今も戦っているんだぞ!」
元気にイリアンが帰ってきたら……そうしたらたくさん褒めよう、たくさん謝ろう、そしてたくさん愛そう。
「だから神様……頼む……」
イリアンの状況を知らされた村人たちも祈る。
この村には宗教という概念はない。
それでもこの時ばかりは皆で祈った。
祈る神が何者であるかなど知らない村人達だったが、それでもひたすらイリアンの無事を祈り続けたのだった。
ケイネスはあまりの長時間に及ぶ施術に不安を募らせ、何度も食事を運び、そして何度も断られた。
自身もその間、飲まず食わずでただその時を待っていた。
いつの間にか降り出した激しい雨が窓を叩き、空の上では雷がゴロゴロと鳴っている。
そして部屋が締め切られてから長い長い時が過ぎ——その時は不意に訪れた。
ガッシャーンゴゴゴ……という雷が木に落ちた音がしたと思ったそのすぐあとに、オギャーという赤子特有の泣き声が聞こえてくる。
それを耳にしたケイネスは居ても立っても居られず、呼ばれる前に扉を開け放ち部屋に飛び込んだ。
「おや……今……呼ぼうと、思ったんだけど……ねぇ」
マリーナは施術をする前に見た姿とは全く違う、変わり果てた姿になっていた。
肌はカサカサでシワシワ。目を開けているのも辛そうだ。
その姿はまるで話に聞いた精気を吸い取るというモンスターに精気、いや命を丸ごと吸い取られたようだった。
あまりの壮絶な姿を見ていられずにふと視線をマリーナから外してベッドを見る。
すると敷いたタオルの上には二人の赤子が並べられていた。
「すまない、ねぇ……。片割れはお腹の中で……尽きてしまって、いたようだよ。でもね……」
そんなマリーナの視線を追うとそこには幼く小さな手でしっかりと手を繋いだ双子がそこにいた。
遠く離れていく妹の魂を引き寄せるためかしっかりと手を繋いで離さない、のちにカイネウスと名付けられる赤子の姿がそこにはあった。
カイネウスは生まれながらにして妹を守ろうとする——まさに騎士であったのだ。
それを目にしたケイネスは泣いた。
「それじゃあアタシは帰るよ、眠くて仕方がない」
そんなマリーナの声が聞こえていたか、なんとか命を無事に繋いだイリアンの寝顔を見ながらただひらすらにケイネスは泣き続けた。
産まれてすぐにカイネウス、カイニスと名付けられた双子はようやく目を覚ました母であるイリアンの抱擁を受け、安心したのか息子はようやく妹のその手を放した。
「よくやった、カイネウス。お前は立派な騎士だったよ」
ケイネスはすーすーと寝息をたてる我が子カイネウスにそう声をかけて、一度も息をする事なく逝ってしまったカイニスを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。
それからいつも家族として一緒にいて、みんなの声が聞こえるようにと家のすぐ近くに穴を掘り、その体を横たわらせた。
それから名残惜しそうに、愛おしそうに顔を、頭を撫でてからゆっくりと土をかけた。
出産のあとマリーナはなんとか家には辿りつけたが、イリアンの出産に力を使い果たしたかカイネウスが産まれてからわずか8日後に黄泉路へと旅立った。
「なに、これは天寿さ。それになんとしてもこの子を生かせって声が聞こえた気がしてね。それを果たせたんだからアタシゃ満足だよ」
なんともマリーナらしい言葉を遺して、満足そうに旅立っていったのだった。
* * * * * *
「そういえばイリアン、家で倒れていたあの時の事だけど」
「ええ、何かしら?」
「お腹の子供達が何かを言っていた、と言っていただろう? あれはなんて言っていたんだ? 慌てていたのもあって聞き取れなかったんだ」
「あら、そんな事言ったかしら?」
イリアンは何の事だか分からない、といったような顔で首を傾げる。
「ああ、もしかしたら俺の勘違いだったかもしれないな。それじゃあカイの……カイネウスの旅立ちをカイニスに報告へ行こうじゃないか」
そういって歩きだそうとしたケイネスの腕をイリアンはそっと掴む。
「あの子は……カイニスはもうあそこにはいませんよ」
「……っ!? イリアン……お前なんてこと……」
ケイネスのその言葉はイリアンの指が唇に触れた事で遮られた。
「だって……だってあの子はカイネウスと一緒に今日、旅立っていったじゃない」
その言葉にケイネスは息子の腕の刻印を思い出した。
そして満足そうに微笑んで頷いた。
「それじゃあ……帰ろうか。一度に二人がいなくなってしまって少し寂しいけれど、な」
「あら、私じゃ足りないかしら? そういえばあの日、これからはお前の為に何でもするって言ってたわよね? それじゃ家に帰ったらお皿を洗ってもらおうかしら」
こうして夫婦は最愛の息子、それと娘を送り出して家路につく。
願わくばカイニスの刻印がカイネウスを守ってくれますように、とそっと心で祈りながら。