第50話 濡れた顔
炎を抜けて、現れた光景に僕は一瞬声を失ってしまった。
森の中に堂々と鎮座する巨大な蜘蛛に、自分の遠近感がおかしくなったような錯覚を覚える。
もちろんそれだけじゃない。
あの時に感じた「こいつには勝てない」という絶対的な恐怖も同時に覚えていた。
なぜあいつがここに!?いや、今はそんな場合じゃない。
「リッカ!」
僕が短く呼ぶと、リッカは驚いたように目を見開いた。
顔を若干こちらに向けたけど、視線はアルケニーから外さない。
それだけ警戒しているのだろうという事が感じられた。
「大丈夫? 助けにきたよ!」
「ダメッ! 逃げてッ!」
安心させるようにそう声をかけた僕にリッカは鋭い声で叫んだ。
「逃げて……そして先生を……先生を連れてきてっ!」
リッカはそういうと慌てたように後ろへ飛び退いた。
その瞬間、リッカがいた場所にアルケニーの鋭い爪が突き刺さる。
なんとか回避は出来たようだったけど、正直ギリギリ……だね。
「くっそぉ……バーニングピラーッッ!!」
リッカのやや後ろに立っていたメリンダがそう叫ぶと、一瞬遅れて刻印が光り、アルケニーが火柱に包まれた。
おおっ、やったのか!?と、思った僕が馬鹿だった。
アルケニーはまるで何の痛痒も感じていないかのようだ。
どうやら全くのノーダメージ……だね。
「……なんっだぁこいつぁ……!」
メリンダはそう呟くと僕の方をチラリと見た。
そしてリッカの後ろに近づき、その背中をアルケニーに向けて強く押した。
あの時の僕と同じ状況が目の前で再現されていく。
「えっ……!?」
リッカは何が起こっているのか理解出来ないような顔でアルケニーに向けて倒れていく。
そしてその向かう先はアルケニーの口元……その鎌だった。
「うわああぁぁぁぁ!!」
僕は一瞬の間に何をすべきかを考えた。
考えて、そしてアルケニーとリッカの間に全速力で滑り込んだ。
……蜘蛛の鎌は僕の魔力の鎧に弾かれてギャリギャリという甲高い音を立てている。
そしてリッカは——僕の胸の中にいた。
アイギスは自分が敵だと認識している場合にのみ攻撃性を持つらしいから、こうやって柔らかいリッカを受け止める事もできるんだよね。
「ふう……よかった」
僕はホッと息をついた。
その間にも僕のアイギスとアルケニーの鎌は我慢比べを続けている。
まあ今までにこの鎧を突破された事はないからね。
だから問題はないはず——だった。
ギャリギャリという音はそのうち悲鳴のような音に変わっていった。
それは断末魔だったか、突如パリンという何かが割れるような音が響き……僕の鎧は割れた。
「えっ!?」
そう思った時にはもう遅かった。
アルケニーの鎌は僕の肩を深く突き刺さった。
「ぐ、ああっ……」
僕はアルケニーの口元を足で蹴ることで肩から鎌を引き抜くと、慌ててアルケニーから距離を取った。
どうやら手は動く。だけどとにかく痛い、というか熱い。
それよりあいつはどこだっ!?
そう思って周囲を見回すと、メリンダは炎の薄いところを通って一人逃げようとしていた。
「くそっ、待てッ!!」
「はっはァー誰が待つかっての! お前ら雑魚でも盾くらいにゃなんだろ? せいぜいあたしが逃げる時間を稼……げ……?」
「!?」
僕らをあざ笑いながら駆けていたメリンダの体が不自然にピタリと止まった。
どうやら木の間に張られていた蜘蛛の巣に絡め取られたようだった。
そして次の瞬間、アルケニーが糸をメリンダへ伸ばした。
その糸に巻かれたメリンダは、足から引きずられるようにしてアルケニーへと向かっていく。
「だぁあぁぁぁあ!?」
物凄いスピードで僕らの横を通りていくメリンダは必死な形相で土をひっかき、抗っていた。
しかしその抵抗も虚しく、メリンダは結局アルケニーの眼前まで引き寄せられた。
「匕、ヒィッ……」
間近でみたアルケニーの顔が余程怖かったか、メリンダは悲鳴をあげた。
そして足首に巻かれたその糸が上へと引かれ、アルケニーの顔の前まで持ち上げられた。
逆さまになったメリンダの腹の前でアルケニーが嘲笑うかのように、口元の鎌をカシャンと鳴らした。
「ああああぁぁぁぁぁぁッ」
メリンダは半狂乱になって暴れながら叫んだと思えば急にピタリと大人しくなった。
一瞬の静寂の中にぽたり、ぽたりという音が響く。
それはメリンダの股から体を伝っていき、最終的に頭髪から地面へと流れ落ちた。
「た、助けて……」
聞いたことのないような、か細いメリンダの声に、胸の中のリッカが小さく僕を呼んだ。
「イニス……」
その声には震えだけじゃなく、助けてあげてという響きが含まれていた。
メリンダとの勝負は続いている。
それなら助けない方がいいだろう。
そうすれば数秒後には腸が地面にぶち撒けられて——それで勝負は決着だ。
でも僕は……動いた。
体が自然と動いてしまった。
持っていた槍に魔力を纏わせるとメリンダを縛っていた糸を切り裂いた。
ドサっという音と共に地面へと帰還したメリンダはそのまま這うようにして僕の後ろへと隠れた。
小さな声で「ごめんなさい、ありがとう、ごめんなさい、ありがとう」と繰り返しているところをみると、まぁ助けて良かった……かな?
「リッカ、みんなのところへ」
僕はそういって、涙と失禁で顔を濡らしているメリンダとリッカを遠ざけた。
それから魔力をしっかり練り直して、全力でアイギスを纏う。
どうやらアルケニーはここから逃してくれる気はなさそうだ。
だったら、僕がお前を倒してやるッ!




