第9話 あまりに危険な女子寮②
もしかしてあなたって——。
そんなリオナ先輩の言葉。
その先を僕は聞きたくなかった。
「もしかして男なんじゃないの?」
きっとこう言われてしまうと半ば確信していたから。
僕とブロスさんの魔女っ娘大作戦は入学した初日に終わってしまうのか。
そう思っていた僕の耳に予想もしていなかった単語が滑り込み、思わず聞き返してしまった。
「……え、なんですか?」
「聞こえていなかったの? あなたは百合なんでしょ?って聞いているの」
百合——ゆりってなんだろう?植物の……じゃないよねぇ。
「えっと、その。意味がよく分から……」
「ゆ、百合を知らないのね? つまり……は、はじめてっ!?」
僕は震えてしまいそうな声帯をきゅっと締め付ける事でどうにか声を出す。
が、先輩はそんなことはどうでもいいとばかりに、かなり食い気味で被せてくる。
「ここの寮に入った時、好きな女の子の匂いを胸いっぱい吸い込んで——その結果くしゃみをしてしまったのよね?」
……え?
「それからランドリールームでは女子生徒が脱いだ下着を見て興奮していたわっ!」
しまった。そこまで見られていたとは思わなかった。
どんなに備えていてもあんな不意打ちがあるとどうしても顔に出てしまうみたいだ。
でも興奮しているのは先輩の方じゃないか。
クール且つおしとやかな態度もどこかにいってしまっているし……さすがに口には出せないけど。
「更に極めつけはマリーさんの裸ね。あんなに顔を真っ赤にしちゃって——ああ、カワイイわ」
先輩はどこか恍惚とした表情で自分の頬に手を当てている。
「い、いえ。そういった気は……ないのですが」
「いいのよ? その気はなかったのにどうしてこんな事に……というシチュエーションは往々にしてあるものだもの。それに私、そういうのが大好物なの」
先輩は語尾にハートのマークをつけたような甘く、とろける口調でそんな事を言ってのけた。
まずい、まずい、まずいぞ。
この先輩はちょっと違った意味で危なすぎる。
この難局をどうやって乗り切ればいいのだろうか?
僕の額からは汗が流れ出した。
「もう分かっているでしょう? 私、最初に会った時からあなたの事が……」
そういいながらリオナ先輩は僕の方へとにじり寄ってくる。
僕はそんな状況に一歩、そしてまた一歩、と後ずさりする事しか出来ない。
「う、うわっ!」
後ろを見て居なかった僕は部屋の中に散らかるものに気付かず、バランスを崩してしまった。
リオナ先輩はそんな僕を見てチャンスと思ったのか、思い切り押し倒してきた。
「……えいっ!」
危ないっ!とは思った時は既に遅く、僕は受け身も取れないままに後ろへと倒れ込む。
そしてすぐに訪れるであろう体への衝撃を、僕は覚悟と共に受け入れた。
ポフッ——。
そんな僕の覚悟は柔らかな感触に包まれた。
そうか、僕の後ろにはベッドがあったのか……ってこの状況は余計まずいよ!
「あらぁ、そんなに体を硬くしないで? せっかくの美貌が台無しよ?」
先輩は僕の体をまたいで馬乗りのような体勢になりつつそんな事を言ってくる。
僕を上から覗き込んでいる先輩の髪が僕の顔にかかって甘い香りを感じた。
あ、いい匂いだな……どんな石鹸を使っているんだろう?ってそんな事、今はどうでもいいよ!
なんとか先輩の下から抜け出そうと動く僕に合わせて先輩が動くと長く黒いその髪が僕の首筋をくすぐった。
「ひゃっ!」
僕のそんな声を聞いた先輩は愉悦で歪みかけた顔をさらに上気させる。
「ああ、あなたはそこがいいのね?」
何がいいのかは全く分からないけれどそんな事を悠長に尋ねていられる状況でもない。
どうにかならないかともがいていると、僕の指先が先輩のメガネを引っ掛けて遠くへ飛ばした。
クールで少し地味めかと思っていた先輩は、メガネを取ると……とんでもない美人だった。
いや、だから何だ!?美人だからってこんなのは違うよっ!
「お悪戯をするこの手はこうしちゃいましょうね?」
先輩が舌をぺろりと出すと、そこには水滴のような痣があって——。
それが光った、と思ったときには僕の両腕を水のような物が縛り上げていた。
「ブルーリージェイル——。うふふ、珍しいでしょう? 私は舌なの。もう……諦めて?」
先輩はそういうと出したままだった舌で自分の唇をぺろり、妖艶に舐めた。
「それじゃ……いただきます」
「ちょ、ちょっと、ま、待って下さいっ! ぼ、僕、本当はおと……」
本当は男なんだ、そう打ち明けてこの状況を脱しようとした僕。
そんな僕の耳はこの部屋の入り口から聞こえる音を確かに捉えた。
カチャン。
さっき先輩が誰も入れないように、とかけた鍵はその侵入者を一切阻まなかった。
なぜなら——。
「あー、誰かいるの? もしかして相部屋の子かなぁ?」
入り口の方からそんな声が聞こえてくる。
僕の上に乗っていた先輩は苦々しい顔をしながら、僕の腕の拘束を解いた。
そして名残惜しそうに僕の顔をそっと一撫するとまたがっていた僕の上から降りた。
ちょうどその時、この部屋のもう一人の主が入ってきた。
「あれーリオナ先輩だったんですね。あれ、ベッドで何してるんですかぁ? あ、そこにいるのはもしかして私の同居人!?」
「あら、ごめんなさいコレットさん。ちょうど新入生——イニスさんを案内していたのだけれどメガネを落としてしまって探していたの」
そういってリオナ先輩はスッと自然な動作でベッドから降りてメガネを拾った。
ああ、やっぱりメガネをかけると少し地味めな女の子に見えるな。
僕はその見た目の変化よりも、性格の変わりように驚いてしまって声を出すことが出来なかった。
「あ、そうそう。この部屋にいたのはイニスさんが大浴場で少し調子が悪くなったので連れてきたの。そうよね?」
先輩は僕に視線を送りながら、コレットさんと呼ばれた同室の子に見えないように舌をぺろりと出した。
そうやって<魔女の刻印>を僕に見せつけている姿からは「言ったらダメよ」という無言の圧力を感じた。
「そ……そうなんです」
と、僕は言ったけどこれだけじゃやられっぱなしだから一言付け加える。
「先輩、部屋まで送ってくれてありがとうございました。もう僕は大丈夫なのでもう戻って大丈夫ですよ」
僕だって言いたくても言えない色々な事情があるんだ。
だから平気。
何も言わないよ、先輩……僕は言外にそう示した。
先輩は体よく追い払われたと気付いたか、口角を上げながら僕に近づいてきた。
「そう、大丈夫なら良かったわ。それじゃあ今度またつづきをしましょうね。まだ案内し足りないもの」
先輩はつづきというところに意味深なアクセントを付け、ようやく体を起こした僕の手に鍵を握らせる。
「それがこの部屋の鍵よ。この寮は基本的に相部屋になっているからお互いに戸締まりはちゃんとしてね? まぁ泥棒みたいな事をする人はここの寮にいないけれど、ね」
ひょっとしたら泥棒よりも怖い人ならいるんじゃ?僕はそう言いそうになったけどなんとか飲み込んだ。
そして戸締まりだけは絶対に忘れないようにしよう、と心に決めたのだった。
「あ、そういえば先輩」
言うべきことをいって部屋を出ようとしたリオナ先輩を同室のコレットさんが呼び止める。
「あら、なあに?」
「昨日の件、考えて貰えました?」
「そうね……うん、良いわよ。あなたの好きにさせてあげるわ。上手にシてね?」
ありがとうございますっ!とご機嫌になったコレットさんは先輩をドアまで送りに行った。
今のやりとりはどういう意味だったんだろう……。
え、まさかコレットさんもなの!?
そもそも寮と聞いていたから部屋では素を出せるだろうと思っていたのにまさか相部屋だったとは。
着替えるだけでも大変そうだし、それに洗濯、大浴場……はぁ。
僕は大変なところに飛び込んでしまったと今更ながらに痛感していた。
そして僕はこれから三年間続くであろう寮での生活に、一抹どころじゃない不安を覚えたのだった。