その日からチアキ様の周りから糸と針は消えました
「っていうかどいつもこいつも何で勝手にファーストネーム呼びしてるワケ?」
「知らないです」
「っていうかアンタはいつまでラストネームのままなワケ?」
「寧ろこれから先、ファーストネームで呼ぶ予定もないのですが」
「は?」
「え?」
何でレジェクト様の眉間に皺が寄っているのでしょうか。私ごとき侍女が他国の客人をファーストネームで呼ぶなんてありえないでしょう。時々レジェクト様の常識が分からなくなります。
「アンタさ。いつか自分もレジェクトの名になった時困るでしょ」
「私はこれから先、レジェクトを名乗る気はないので困ることはないですねぇ」
リタは死んだ両親がつけてくれた大切な名前だ。それを何でレジェクト様と同じ名前に改名しなくちゃいけないんでしょう。新たなレジェクト様の意地悪でしょうか。
そう返せばケーキ用のフォークがザクッとテーブルに突き刺さりました。……え?突き刺さった?突き刺さる?え?このテ-ブルは磁器で出来ているはずなのですが。え?こんなに綺麗に刺さるってどういうことでしょう?
レジェクト様の方を見れば眉間の皺が更に酷くなっています。ええええ、何か気に障るようなことを言いましたっけ?ごく当たり前のことを言ったつもりなんですが……
「…………は?何?もしかして男がいるワケ?」
「何でそうなるんですか!?私は平民なのでレジェクトをラストネームとして使うことはできないですし、名前をレジェクトにするのもできないです」
「ああ、そういうことね」
勝手に納得したのかレジェクト様の眉間の皺が少し緩くなりました。でもテーブルに突き刺さったフォークはそのままです。……あれを片付けるのも私の仕事ですよね?あそこまで綺麗に突き刺さったフォークを私は抜けるんでしょうか?最悪、レジェクト様に抜いてもらうしかないですよね。
「……ら、問題ないってことだね」
「……へ?は、はい!!」
何かレジェクト様が話していたようですがフォークに夢中で聞いてなかったです。
「……今、俺の話を聞いてなかったんじゃない?」
「ええ、いや、はい……そうです。すみません」
そう返せば機嫌よかったレジェクト様の機嫌がまた急降下してしまいました。
「俺が話してるってのに考え事するなんていい度胸じゃないか」
「ひえっ!!そんな度胸これっぽっちもないです!!」
「ど、どうしたら……許してくれますか……?」
もし恐ろしい要求を突きつけられたらどうしましょう。私のような一侍女に出来ることなんてたかが知れています。あああ!!どうか無理難題言ってきませんように!!
「じゃあ俺のことを名前で呼んでくれたら許してあげる」
「な、名前ですか……?」
そ、それだけでいいんですかね……?でも気が変わって大変な要求をされては私が死んでしまいます。私は意を決して口を開きました。
「チ、チアキ様……?」
すると彼は少し目を見開いた後、急に黙り込んでしまいました。え?え?逆麟に触れてしまいました!?私、間違えてないですよね名前!?
「あ、あの……これでいいんでしょうか?」
「ああ、うん。ちょっと黙ってて。うん」
いつもの余裕に満ちた彼から想像できないようなしどろもどろさに首を傾げるしかありませんでした。何でしょう?自分から名前を呼べと言ったはずなんですが。……ん?あれ?何だか……
「……あの、顔が少し赤いですよ?お部屋暑かったですか?」
「もう本当に黙ってて」
にゅっと手が伸びてくると彼の手が私の顔を鷲掴みにしました。え、何だか力が入ってきているような……
「いたたたた、あの!!痛い痛い!!顔が割れてしまいますううううう!!!!顔が大変なことになってしまいますううううう!!!!」
「大丈夫大丈夫。それ以上変な顔になることはないから」
「それただの悪口ですうううう!!!!」
バタバタとしているとようやく恐ろしい手から解放されました。まだ顔がジンジンと痛みます。涙目で彼の方を見ればいつものように余裕のあるお顔で赤みがかっていた頬も平常に戻っていました。……さっきのは気のせいだったんですかね?
「まぁ、俺の話を無視してたことは許してあげるよ。……そのお陰で言質がとれたし」
「…………待ってください。一体、私は何に対して返事したんですか?」
「さぁ?人の話を聞かないアンタが悪いんだから」
「正論ですけど!!せめてもう1度お願いします!!恐ろしくて夜も眠れないです」
「ははは」
「初めて聞いたレジェクト様の笑い声が全然笑えないです!!」
私がそう返せば、レジェクト様はまた眉をひそめてギロッと私を睨んできました。あれ~~、私、また何かやっちゃいましたかね??
「……俺のことは名前で呼んでって言ったよね?」
「え?さっき呼んだじゃないですか?」
「は?たった1回呼んだだけで許されると思ってるワケ?」
どうやらレジェクト様呼びが気に入らないようです。……といってもそんな簡単にファーストネームを呼べません。私はただの侍女なんですから親しい間柄の様に名前を呼ぶことはまず許されることじゃないです。そう言おうとしましたが、その前にレジェクト様が口を開きました。
「他の女が俺のことを勝手に名前で呼んでるのにリタが呼ばないなんて変だろう?」
何気なくそう言ったレジェクト様。だけどその言葉はギュッと私の胸を掴んでしまうほどの衝撃でした。
(……レジェクト様って私の名前を知ってたんですね!!)
最初に名乗ってから言う機会も呼ばれる機会もなかったからてっきり知らないだろうと思ってたのですが。紅茶を飲んだ時と同じようにじんわりと胸が熱くなっていきました。
「……せめて2人きりの時だけにしてください。クビになってしまいますので」
「まぁいいよ。忘れてなければ」
「いや本当に死活問題なのでよろしくお願いします」
クビになったら俺が責任持ってお世話してあげるよ、と真っ黒い笑みを浮かべながらそう言ったチアキ様に何としてでもこの仕事を死守しなきゃと心に決めました。
「ところで糸と針ってある?」
「はぁ……、持ち歩いている簡易なソーイングセットならありますが……。チアキ様が針仕事を?」
「いや俺の許可なく名前で呼ぶ糞女の口を縫い付けておこうかと思って」
「本当にそれだけはやめてください」