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操重王ドジャイデン  作者: 長野 郁
1/7

正しい青春

 ガラガラと音を立てて扉が開き、今日も担任の小淵沢先生が入ってきた、そう思いました。そうです、ホームルームの時間です。何の変哲もない一日がまた始まる。ドアの音を聞いた時には、僕は、そう信じていました。


 ゴールデンウィークも終わり、中学も最終学年の三年に進級したという、ようやくそんな実感も出てきた、ある、よく晴れた初夏の日のことです。今、僕にとっては、ある意味、勝負の時が近付いてきたといってよいのだと思います。そう、いよいよ今年は高校受験です。

 僕の名は、清水澄也。練馬区立朝風中学三年生の僕は、都立高二十三区内西部地域では上位校である、隼高校を志望しています。自慢ではありませんが、僕はクラスでも勉強の成績は上位、先日の進路相談の三者面談でも、この成績ならかなりの確率で合格できるだろうと、小淵沢先生からも、母親に太鼓判を押されました。しかし、だからと言って油断して良いものでもなく、抜かりなく、家でも、毎日、勉強漬けの日々を過ごしているのです。


 ともかく、さてと。


 何の変哲もない一日がまた始まる。そう思って顔を上げ教壇を見ました。


 しかし。


 見ると、教壇には小淵沢先生の姿はありませんでした。代わりに、見知らぬ若い男の人。先生? 先生なのでしょうか? 歳はおそらく二十代後半から三十前後、細面で、頬のこけた輪郭の顔立ち。髪を七三に分けて、今の流行とは縁遠い、大きめのレンズの眼鏡をかけています。しかし、レンズはそれほど厚いわけではないので、糸のように細い下がり目とその中の小さな瞳がよく見えました。身には白衣を纏っています。


 そして、その男の人は言いました。


「私は、禅昌寺ぜんしょうじ放介。今日から、私がこのクラスの担任だ。私はこれから二週間かけて、このクラスを見極め、このクラスの中から一人だけを選び出す。」


 当惑が、さざ波のように教室に広がってゆきました。


 選ぶ?


 何を?


 二週間?


 誰を?


 その様子を眺めて、その禅昌寺とかいう新しい先生は、さも満足そうに、ニンマリと満面の笑みをたたえました。そして、続けて言いました。


「諸君が気にしていることが何なのかは分かるぞ。一体、何を選ぶのか、どんな基準で選ぶのか、それが皆目見当がつかないのだろう? 分かる、分かるぞ。ぬふふふふ。一体何を選ぶのか、それは、七日目に諸君に知らせよう。そして、その三日後、つまり、ウィークデーは週五日だから、丁度、二週間後の金曜日になる訳だが、その時に実際に誰を選ぶのかを諸君に教えよう。なに、二週間もあれば、大方なんでも大体のことは見当がつくというものだ。分かるかぁ、分からないかぁ、分かるかぁ、ぬふふぅ。」


 先生はそこまで言うと、一旦言葉を切りました。そして、一呼吸おいてから、更に続けて言いました。

「先生の担当教科は理科だ。今日から理科担当の塩尻先生に替って、理科の授業も担当する。まぁ、何はともあれよろしく頼むぞ。今朝はこのこと以外には別に連絡しておくべき事柄もない。だから、ホームルームは終わりにするぞ。では、今日も張り切って一日過ごしたまえ。それではな。」


 それだけ言うと、入ってきたときと同じようにガラガラと扉の音を立てて、先生は教室から出てゆきました。


「ねぇ、澄也くん。」


 左隣の席に座っている女生徒が僕に声をかけました。クラスの座席配置というものは、担任の方針によって色々と異なるものです。男女をペアにして二人づつ並べたり、市松模様に配したりといったものがその代表的な配列だと思うのですが、僕の今の三年C組の座席配置は、市松模様の方でした。だから、左隣りに座っているのは必然的に女子。僕は、それなりに顔立ちは整っているものの、たれ目気味なこともあり、顔つきがちょっと天然入ってると言われてしまっていたのですが、その子は僕とは違って、少し吊り目の、凛とした印象を与える整った顔立をした子です。その黒髪は、長いストレートヘアにしていました。僕はその子に答えました。

「函南さん。」


 彼女の名は函南かんなみゆり。


 小学校の学区が違い、隣の小学校だったので、初めて会ったのは中学入学の時。その時にクラスメイトになり、二年生で、一旦、別のクラスになったのですが、三年に進級した時、また、同じクラスになったのです。

 しかし、彼女との縁はそれだけではありません。一年の途中から一日おきに通い出した近所の進学塾でも、彼女は僕の同級生です。この塾は個人経営の小さな教室ですが、その実力は中々のもので、中学入学以来、僕が上位の成績を維持してこられたのも、この塾の先生達の力は無視できないのです。当然、彼女もこの塾に通っている以上、勉強の成績は優秀で、その点では僕の良いライバルでもあります。

 しかも、どちらかというとスポーツの苦手な僕と違い、彼は運動神経もそれなりに良く、体育で2ばかり取っていた僕と違って、体育でも、いつも4や5でした。



                   ◇◇◇◇◇



 しかし、特に彼女と親しくなったのは、それだけが理由というわけではありません。あるきっかけがあったのです。


 そのきっかけとは、忘れもしない二年前、中学に入ったばかりの春、四月二十一日のことなのです。僕は近所の本屋へ行ったのです。中学生になって、小遣いの金額を上げて貰った僕は、これまで高根の花だった「あれ」を、遂に買えるようになったのです。


「あれ」とは。


 そう、それまで立ち読みするだけだった月刊誌「TRAIN MAGAZINE」! 毎号千二百円もするそれは、とても小学生の小遣いでは買えない代物でした。しかし、今、ずっと憧れていたそれを、遂に毎月買うことができる! 発売日である二十一日、僕は、はやる気持ちを押さえて、書店の鉄道雑誌のコーナーに向かったのです。


 ところが、そこには意外な先客が居ました。食い入るように「鉄道ピクチャーズ」に没入している立ち読み中の少女が一人いたのです。しかも、手には既に白いビニール袋を一つぶら下げています。その袋の大きさは、少女が没入中の「鉄道ピクチャーズ」よりも一回りサイズが大きい。そして、袋を透けて中の雑誌の表紙がぼんやりと見えます。その写真は明らかに鉄道車両。そんな大きな版形の鉄道雑誌は一つしかありません。その袋の中身は、間違いなく「TRAIN MAGAZINE」!


 そして、その少女には見覚えがありました。同級生として二週間前に出逢ったばかりの函南ゆりさん、その人でした。僕はおずおずと声をかけました。

「か、か、函南さん?」


 函南さんは、まるでばね仕掛けのビックリ箱みたいにびくっと震えて、読んでいた「鉄道ピクチャーズ」を取り落としました。

「し、し、清水くん!!??」

 はっきり分かるほど、みるみる彼女の顔から血の気が失せてゆきます。

 それを見て、僕は確信しました。そこで、意を決して訊いてみることにしたのです。

「せ、せ、西武線の101系263F ・4連が何でオールMなのか知ってる?」

 すると、またもやはっきり分かるほど、突然、彼女の顔がぱっと明るくなりました。

「あ、あ、あれでしょっ!!?? 機関車代用を兼ねて回送の牽引に使うからでしょ!!??」

「そう!」

「E31の後釜!!」

「あはははははははは」

「ははははははははは」

 僕達は笑い転げました。僕は言いました。

「今日から僕達、友達だよっ!」

函南さんが答えました。

「うんっ!」

 そして、次の水曜日の午後の課外活動の時間、僕は、顧問の先生に申し出て、仮入部していた化学部を辞めました。函南さんも、軟式テニス部への仮入部を取り消しました。そして、二人で鉄道研究会の部室へと向かったのです。



                   ◇◇◇◇◇



 さて、昔の話はさておき。函南さんは言ったのです。

「澄也くん、あの新しい先生の『選ぶ』って、一体何の事なの? 全然見当がつかないわ?」

「僕にも全く分からないよ。うーん、でも何だろうね、例えば、クラスで一番成績のいい生徒を選んで表彰してくれるとか?」

「それだったら、私で決まりね。あなた、いつも九十八点とか九十九点とかばっかりだけど、私は大体いつも、百点だもん。」

「あはは。まぁ、確かに函南さんは大したもんだよね。結局、僕、一度もトップとれなかったもんねぇ。」

 他愛もない会話でした。自分でもよくわからないのですが、僕は、そんな彼女が、ひょっとしたら、好きだったのかもしれません。



                   ◇◇◇◇◇



 翌日、朝。ホームルームの時間がやってきました。昨日、宣告された通りで、入ってきたのは、本来の担任、小淵沢先生ではなく、禅昌寺先生でした。禅昌寺先生は、出席もとらずに、教室を一瞥、睥睨して、ぶっきらぼうに言いました。

「どうやら全員揃っているようだな。」


 この時、僕は気がつきました。そう言えば、禅昌寺先生は、昨日も出席を取っていません。一瞥しただけで空席が無いことが分かったから、それで充分、ということなのでしょうか?


 禅昌寺先生は再び口を開きました。

「分かっていると思うが、今日の一時間目は理科だ。私の最初の授業になる。心して授業を受けろよ。ぬふふふふ。」


 そして、その授業は始まりました。

「そうだな、まず始めに、おまえたちがどの程度のことを既に習っているのか知っておこうか。無論、前の担当の塩尻先生から引き継ぎは受けているが、実際に訊いて、理解度を確認しておきたい。そうだな、おい、清水。おまえは、結構、優秀な生徒だと聞いている。試しに、植物の細胞に在って動物の細胞にない三つの器官を挙げてみろ。」

 突然指名されて僕は少し慌てたのですが、一呼吸して、気持ちを落ち着けて、先生の質問に答えました。

「はい、葉緑体、液胞、細胞壁の三つです。」

 先生は、満足そうに、にやりと笑いました。

「よしよし、なかなかよく勉強しているようだな。」


 その答えに少し安心した僕は、つい調子に乗って余計な事を口走ってしまいました。

「ちなみに、逆に動物の細胞に在って植物の細胞にない物としては、細胞分裂の際に現れる中心体が挙げられます!」


 すると先生は、目を眇めてじろりと僕を睨みました。

「おい、清水。それは中学生が知っているべき知識の範囲を逸脱しているぞ。」

 そこで、僕はついむっとしてしまい、言い返してしまったのです。

「でも先生、知らなくていいことでも、知っていれば、いつか何かの役に立つかもしれないじゃないですか?」


 すると先生は、意外にも、僅かに嘲るようでいて同時に憐れむような表情をして言いました。

「おい、清水。知らなくていいことを知っているというのは、必ずしも良いことばかりがあるとは限らないものなんだぞ。分かるかぁ、分からないかぁ、分かるかぁ、ぬふふぅ。」

 それだけ言うと、先生は少し黙ってしまいました。そのとき、僕には、それがどういう意味なのか、およその見当は付きました。しかし、ここで口論したところで、何にもなりはしません。だから、僕は、黙って席に着きました。


 すると先生は、一呼吸おいてから、再び口を開きました。

「まぁいい。しょせん、いつかは知らなくてはならないことなのかもしれん。ともかく、上の方のレベルは分かった。今度は下だ。」


「おい、くそぶた!」

 僕は少し驚きました。

 先生、あなたも彼をその名で呼ぶのですか!!??


 彼の本当の名は袋井ふくろい呑蔵。まぁ、この名前はこの名前で、何と言いますか、響きが今一つというか、いかにも鈍重そうな人物をイメージさせるという意味で、御世辞にも冴えた名前とは思えないのですが、この場合は、名は体を表すというか何というか、そんな結果になっていたのです。

 ぶくぶくと太った彼には、何の取り柄もありませんでした。勉強の成績はほぼオール1、運動神経はスポーツを苦手としている僕をも下回り、かといってスタミナがあるわけでもなく、毎年開かれる校内マラソン大会では、三年間、三回とも、毎回ぶっちぎりの最下位でした。僕も、運動の中でも、特に持久力の要求されるマラソンは苦手中の苦手なのですが、彼の存在のおかげで、最下位にだけはならないと安心していたのも事実です。

 そんな彼を、いつしか皆はくそぶたと呼ぶようになりました。誰にでもわけ隔てなく接することをモットーとしている寛大なこの僕でさえ、彼のことは、くそぶたくんと呼んでいたのです。


 先生は訊きました。

「くそぶたよ、細胞分裂の際に核が解体していくつも現れ、それが新しい細胞の両極に移動して再び凝集することで新たな核となる、長細いものの名を言ってみろ。」


 それは染色体です。


 しかし、くそぶたくんは、当然ながらこの質問に答えらえず、押し黙ったまま、はぁはぁと荒い息をしました。冬なのに、なぜか顔に汗をかいています。内心、焦っているのかも知れません。しかし、その表情は放心したように憮然としたままで、内心何を思っているのかは推し量ることが出来ませんでした。


 禅昌寺先生は言いました。

「塩尻先生から聞いていた通りだな。まぁいい、これで大体のことは分かった。よくあるようにレベルはてんでんばらばらだ。所詮、一人一人をきめ細かくサポートするような授業など出来はしない。どこにでもあるような、普通のやり方でやらせてもらうぞ。」


 そう言うと先生は、板書を始めました。

「生物の体と細胞」

「細胞の中には、普通一個の核がある」

「核のまわりを細胞質が満たし、その外側は細胞膜でおおわれている」

「細胞の大きさは、普通、直径0.01ミリから0.1ミリくらい」

 授業は淡々と進み始めました。何の変哲もありません。


 もちろん、僕は、気掛かりではありました。

「見極めて、選ぶ。何のことだろうな?」


 そして、その時僕は、虫の知らせのような、妙な胸騒ぎを覚えました。何だろう? あれ? この先生、どこかで見たことがあるような…。


 そう、この時はまだ、僕達は、これから降り懸かろうとしている災厄という名の運命を、知る由もありませんでした。

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