アリとセミ
イソップ寓話で有名な【アリとキリギリス】の物語。
ヨーロッパの地中海地域を起源とし、元々は【アリとセミ】だったことをご存知だろうか。
【セミ】は、ヨーロッパのアルプス以北には生息していなかった。
そこで、伝播先の人々に馴染みのある【キリギリス】に替えられた、と言われている。
日本には、この北部バージョンが伝わったそうである――。
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暑い夏の間、アリたちは食べ物をせっせと探し集め、忙しなく巣穴に運び入れています。
彼らは、穀物や木の実、来るべき冬をしのぐためのあらゆる"食料"を貪欲にため込むのでした。
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「おーい、ベータチームは、今日から【東の森】担当だぞー」
リーダー格の大きなアリが、巣穴から出ようとした20匹ほどの群れに声をかけます。
【ベータチーム】と呼ばれた一群は、戸惑いながら、東に向かいました。
「まだ木の実の時期じゃないのに、食料なんかあるのかな?」
ベータチームのアリ4号が、前を歩く小柄なアリ7号に話かけました。
「……知らないよ。僕らは女王様の指示に従うだけだ」
ぞんざいな返事に、4号はちょっと悲しくなりましたが、すぐにそれもそうだと思い直して、足並みを揃えました。
アリたちは、綺麗な行列を乱さずに、一歩また一歩と進みます。
原っぱを30分も歩くと、足元が暗くなってきました。
見上げると、お日様の光が大きな枝葉に遮られています。
【東の森】の入口に着いたのです。
「……おおーい、こっち、こっちだー」
先に到着していたアルファチームの声が聞こえてきました。
ベータチームが声の元に行くと、仲間たちは大きくツヤツヤとした琥珀色の玉のような塊を抱えてきました。
「さぁ、これを運ぶんだ!」
アルファチームのリーダーが出した指示に、みんな迷わず従います。
アリ4号も、渡されたツヤやかな玉を、よいしょ、と担ぎました。
背中から、あまやかで、深い森の匂いがしました。
森の出口の大木の下をくぐり、来た道をゆっくりたどります。
来る時に仲間たちが残した秘密の足跡が、家路を正確に指していました。
しばらく原っぱを進むうちに、アリ4号は、土の上にユラユラ煙のような薄茶色の影が動いていることに気がつきました。
……きれいだな。
ちょっと歩みを止めると、茶色の煙もピタリ、止まります。
それは、自分の背負った琥珀色の玉が、お日様の光を緩やかに透して、地面に落とした影でした。
この"食料"は、一体何だろう?
こんなに素敵な森の匂いがするのだから、きっと美味しい食べ物なんだろうな。
4号はうっとりしましたが、次の瞬間、こんなに素敵な食べ物は、多分女王様とその跡取りの子どもたちの特別な食べ物に違いない、と思いついてがっかりしました。
そうこうするうちに、見慣れた巣穴が見えてきました。
巣穴の前では、デルタチームのアリたちが、琥珀色の玉を受け取って、穴の中に次々に消えていきます。
4号が近づくと、誰かがヒョイと背中の宝物を取り上げ、機械的に暗闇の通路を降りていきました。
少しだけ残念に思ったものの、4号はすぐに【東の森】へと踵を返しました。
森へ戻れば、また素敵な宝物を受け取れます。
4号の足取りは軽くなりました。
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それから毎日、4号たちは暗くなるまで琥珀色の玉を運びました。
ある日、【東の森】の奥から、陽気な歌声の大合唱が聞こえてきました。
「……あれは、誰が歌っているの?」
今春生まれたばかりのアリ109号が、びっくりした瞳で、大木の向こうの暗がりを見つめています。
「おや坊主、初めて聞いたのかい?」
4号が答えるより早く、そばにいた6号が快活に笑いました。
「うん、誰なの?」
「あれはセミどもさ」
「セミ?」
「この森の奥で生まれて、ああして夏の間中、歌い続けるのさ」
「歌うだけ? 働かないの?」
「歌って、パートナーを探して、子孫を残す。あいつらには、あれで大切な役割があるんだよ」
背後からアルファチームのサブリーダーが、冷静に教えてくれました。
……役割って、なんだろう?
「さぁさ、油を売ってないで、食料を運んでくれよ!」
4号は疑問に思いましたが、サブリーダーに促され、いつものように琥珀色の玉を担ぎ上げました。
素敵な匂いは、相変わらず4号を幸せな気持ちにさせてくれます。
一瞬浮かんだ疑問は、すぐにどこかに消えてしまいました。
はつらつとしたセミたちの歌声を背に、アリたちは代わり映えのないルーティンに戻るのでした。
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やがて秋が来て、【東の森】は落ち葉でいっぱいになりました。
琥珀色の玉は、少し小さくなりましたが、まだまだ尽きることはありません。
パラパラ降り注ぐ落ち葉を避けながら、来る日も来る日も、朝から晩まで、何も疑わずに運び続けました。
何十回……巣穴と森の往復は、もしかしたら何百回に及んだかもしれません。
程なく、アリたちの巣穴に、白くて冷たい欠片が舞い落ちてきました。
各チームのリーダーアリが、仲間たちに『忍耐の季節』が訪れたことを告げ、巣穴を枯れ葉で分厚く塞ぎました。
アリたちの仕事は、地上から地下に変わりましたが、仕事がなくなることはありませんでした。
巣穴を広げたり、幼い子どもたちの世話をしたり、掃除をしたり……しなければならない仕事は山ほどあるのです。
4号は、陽気な6号と一緒に、琥珀色の食料の管理係に配属されました。
貯蔵庫に案内されると、もう扉の前まで、あの素敵な匂いが漂っています。
「これは、とても貴重な"食料"だから、くれぐれも気をつけて取り扱うように」
アルファチームのリーダーが直々に命令をくだします。
二人は緊張して、畏まりました。
「そのうち、担当者が食料を受け取りに来るようになる。そうしたら、必ず1つだけ渡すように」
「わかりました」
4号と6号は、声を揃えて頷きました。
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半月も経ったころ、ようやく"担当者"がやって来ました。
「"食料"をもらいに来た」
「はい、ただいま」
6号が倉庫を開け、4号が玉を1つ、"担当者"のアリに渡します。
運んだ頃より幾分濃い色に変わった"食料"は、更に深みを増して、とろけるような匂いを放っています。
"担当者"の後ろ姿を見送りながら、
「一欠片でもいいから、食べてみたいものだねぇ……」
思わず4号は呟きました。
「食べたい、だって!?」
耳にした6号が、素頓狂な声を上げます。
「……え……、だって素敵な匂いがするじゃないか」
4号は、ちょっとムッとして答えました。
「これは、女王様の食べ物じゃないのかい?」
「……は、はは……はっ……!!」
6号は、驚きと嘲笑の入り交じった表情で腹を抱えます。
「なんだよ、何が可笑しいんだ!?」
キッと睨んで問い詰めてみるものの、6号の笑いは止まりません。
「……ははははは……! そうか……君は、君は、本当に、知らないんだな……?」
4号は、だんだん不安になってきました。
みんなが知っていて、自分だけが知らない秘密があるのでしょうか?
「何のことなんだ? この"食料"って、一体…」
「まぁまぁ、お楽しみは、そう遠からずやってくるよ」
6号はそれきり、扉の向こうの"食料"のことは話してくれませんでした。
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それから、ひと月も経ったでしょうか。
あんなに大量に詰め込まれた"食料"は底を尽き、4号と6号は、二つ目の倉庫に案内されました。
その倉庫も、半月程で空っぽになりました。
更に、三つ目の倉庫に移って半月後。
「"食料"をもらいに来た」
「はい、ただいま」
いつものように4号が担当者に手渡すと、彼は6号をチラリと見ました。
「……最後の1つです」
「……うむ、ご苦労だった」
担当者は頷いて、しかし淡々と去っていきました。
「……じゃ、俺たちも行こうか」
4号の肩をポン、と叩いて、6号はスタスタと倉庫を後にします。
呆気にとられた4号は、少し遅れて、6号の背中を追いかけました。
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6号が向かった先は、4号の知らない通路でした。
……随分、深くまできたな。
通路の湿り気で、巣穴の最下層に近づいている気配を感じます。
「……入ります」
6号が、ついと隠し部屋のようなくぼみに消えました。
慌てて、4号も続きます。
「二人とも、よく来た。ご苦労だった」
アルファチームのリーダーが、2匹を出迎えてくれました。
「……大儀であった」
その奥から、よく通る女性の声がしました。
慈悲深い、温もりのある響きです。
「勿体のうございます」
6号が恭しく頭を垂れます。
リーダーの後ろから、一際大きくふくよかなアリ――女王様が現れました。
4号はびっくりして、あたふたと頭を下げました。
「よい。楽にしなさい」
女王様が、優しく告げます。
二人は顔をあげました。
こんなに近くで女王様を拝見するのは、全く初めてのことでした。
女王様は、身体の艶が良く、手足がしなやかに長く、触角がピンと張り、何よりも黒い瞳に吸い込まれるような気高さがありました。
「……失礼だぞ」
魂を奪われたように女王様を見つめる4号の様子に、6号がボソッとたしなめました。
「よい」
顔を真っ赤にした4号を優しく気遣い、女王様は目を細めます。
「皆の働きで、今年はいつになく大量の森の恵みを得た。すでに、春を迎えるのに十分な"食料"も訪れている」
「……御意」
アルファチームのリーダーが、ニイと口元を歪めました。
「宴の準備は整っております」
「……大儀。いざ参らん」
リーダーが一礼して女王様の脇を抜け、重々しい扉をゆっくりと開きました。
その途端、ブブブ……というざわめきと熱気、そして甘く熟れた媚薬のような匂いが流れ込んできました。
女王様に続いて、リーダー、6号が扉の向こうへ消えます。
4号は甘い匂いにむせながら、フラフラと隣の部屋に入りました。
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そこは、部屋の奥が見通せないくらいに、広い空間でした。
そして床一面に、おびただしい数のセミどもが、コロコロに太った腹をさらけ出して、仰向けに横たわっています。
ブブブ……というのは、酔ったセミどもの間抜けな羽音でした。
セミどもの傍らには、琥珀色の"食料"の欠片が、だらしなく散らばっています。
良くみると、どのセミの細長い口元にも、溶けて飴のように流れた"食料"が、べったりとこびりついていました。
「……時は来た! 一年の働きを労おうぞ!」
ワアアァッ……と歓声が反響します。
気がつくと、広間のあちこちに、仲間のアリたちの姿がありました。
ベータチームの仲間……7号や、若い109号の姿も見えました。
「さぁ、我が子どもたちよ! 無礼講である! 思うまま、飢えを満たすが良い!!」
女王様の号令を合図に、アリたちは満腹で動くことのできないセミどもに、一斉に群がりました。
琥珀色の"食料"の匂いに、すっかり酔っ払ってしまった4号もまた、うまそうに膨らんだセミの腹にかじりつきました。
セミの羽音が、虚しく断末魔の叫びをあげます。
しびれるように甘い汁が口中を満たし、冬の間続いていた空腹に染み渡ります。
4号たちは、心行くまで琥珀色の"食料"を味わうことができたのでした。
【めでたしめでたし】