気分の悪い、とある一日
これは、高専という特殊な環境に、また文芸部という謂わばはぐれ者の集う場所に数年間属し、その中でも異彩を放とうと凡身に鞭打ち続けた私という人間が作り出した妄想の日の記録である。たとえこれを事実として私自身が体験したつもりであっても、それはあくまでつもりであって、真実であろう筈もないことを、自らを説き得る為にも記しておく。
二か月弱もの期間続く夏休みの、その内の一日である。私はとある縁方から、家に来てくれないかという誘いを受けた。家に遊びに来ないか、ではなく、来てくれないか、という誘いを、だ。誘ってくれた方は社会人であって、冷静に振り返ってみれば学生であり何一つ成し遂げていない、謂わば明らかな格下である私に対して、そのような言葉を選ぶことは、遜りの意図を混ぜたにしても過剰であり、他に何らかの理由があることを想定するのは易い筈であったが、家へ招かれたということに浮足立っていた当時の私はそれに気付くことができなかった。
兎に角、私を家に招いてくれた方(仮にS氏とする)と私は手っ取り早く予定を決めようと話し合った。互いの予定が合うのがほんの数日後であることにも直ぐ気付いた為に、具体的な内容のみですり合わせを進め、あっという間にスケジュールが完成した。いつか遊ぼう、などの抽象的な約束をあまり良しと思えない私にとって、段取り良く話を進めてくれるS氏は実に快い人物に見えた。思えばこれも、いずれ解る『何らかの理由』から、出来るだけ早く具体性を確保したかったから、ということなのだろうが。
そしてS氏との約束の日は瞬く間もなく訪れ、私は朝早くに置き意気揚々と準備をしていた。私よりもずっと長く、そして豊かな経験に溢れた人生を送られてきたS氏の話をゆっくりと聞けるであろうことに、私は正直言って初めてのデートを前にした乙女のように心舞わせていたし、その中には少しとも言えない緊張があった。一通りの準備を終えた段階では、特に緊張の色の方が濃かったくらいだ。
そんな緊張の中で、私は一度、なんとなく何らかの新規連絡が来てはいないかと携帯電話を弄った。その『なんとなく』の予感は的中していたようで、まさに数秒前にS氏からの連絡が来たばかりであった。私は、それが悪い内容でなければ良いが、という祈りを込めつつ、簡易メッセージ機能で送られてきたそれを開く。
『すまない。今日は私の家ではなくて、別の方の家になる。私の家は、またの機会に招待させて貰う。本当にすまない』
メッセージは、そういう内容だった。少し残念ではあったが、決して本来の目的、つまりS氏に会うことが達成できないという訳ではないので、私はそう落胆することもなく了承の意を伝え、待ち合わせ場所にへと繰り出した。
――そこから、時間は少し飛ぶ。
私とS氏は、S氏の知人であるというとある方の家の応接間に居た。その家は、所謂豪邸と呼ばれるような外見で、実際その家の主であるS氏の知人(仮にT氏とする)はその家に見合った風格と雰囲気を漂わせていて、その妻であるらしい女性もまた、育ちの良さそうな方で、二人が並んでこの家に居るとまるでドラマのように見える程であった。S氏曰く、中学生になる娘さんもいらっしゃるという話だが、今はその姿はない。父親の友人が訪ねてくる、というだけでは活動盛りの中学生にとっては家に居なくてはならない理由に成り得ないだろうし、部活なり遊びなりに出掛けている、ということだろうか。そんなことよりも、白髪(というよりもグレーやシルバーと表現すべき貫録がある)をたっぷりと蓄えたT氏の見た目年齢に対して、その娘が中学生でしかないことの方が、(随分失礼ではあるが)気になるくらいだった。
さて、何故そのような所に居るのか、そのような方達の元を伺うことになったかであるが、S氏曰く『T氏から、たっての依頼を受けて』とのことで、そしてその依頼というのが、S氏には達成不可能で、私にならできると、そういうバックグラウンドがあって、そして今に至る。
依頼の具体的な内容についてはT氏から直に説明があるとのことで、今はその説明を待っているという状況なのだが、T氏は紅茶の湯気が消える程の時間が経っても話し始めなかった。それを責める気は毛頭なく、寧ろそれ程言い辛いことならば、私に達成することなど出来るのだろうかという心配の方が大きかった。その心配からか、異様に乾いてしまった喉を癒すために、私は決して火傷することなどなさそうな温度になった紅茶を、貧相な感性ながら精一杯上品に見えるように啜った。すると、それを契機にしたのだろうか。T氏が「私の」と、重い口を開いた。
「私の娘と、話をしてやってくれませんか」
――――――
その部屋に対する私の第一印象は、正直に言って『不気味』の一言に尽きた。
薄暗く冷たい色の照明に照らされた部屋には凡そ個人的使用としては考えられない量のスチールラックが並べられ、そしてそこには所狭しとぬいぐるみや人形、或いは置物のようなものが『詰め込まれて』いた。その量は、言葉を選ばずに言えば悍ましいと表現することが相応しい程で、それらの一つ一つが持つ雰囲気もまた、この部屋の異常性を演出するのに一役買っていた。
例えば血らしき液体(照明のせいで色がわからない)を全身に浴びた人型の兎、異様に口が開いた西洋の子供をデフォルメした手作り風の人形、笑い転げる兎に噛み付く月、下半身が鱗になっていく様を絶望に満ちた瞳で見つめる兎、宝石を模したビーズがそこかしこに埋め込まれた、バウムテストならばレッドサインが示されるであろう形の樹のフィギュア(だと思っていたが、本来はアクセサリーを掛けておくためのものらしい)、腹部だけが膨らんだ兎と、その隣には同じく膨らんでいた筈の腹部が切り裂かれ、臓物らしきものを見せつけている兎。
そういうものが、台風や地震、津波でもあったかのように『詰め込まれて』いるのだ。それは数え切れない程のインテリア、という領域を超えて立体的な壁紙とすら言える量だった。やけに兎が多いなぁ、という牧歌的な印象など、秒も数えずに消えていった。
八秒程経った頃だろうか、未だ呆気に取られ足りない私の後ろで、T氏が咳払いをした。娘の部屋を覗いておいて棒立ちをする無礼な私を窘めるため、というよりも、どうせ呆気に取られているだろうから一度意識を戻してやろう、というような、台本通りの咳払いであった。
「入ります。必ず、私の後ろに続いてください。他の所に足を踏み入れたり、或いは触れたりということは……」
「えぇ、精々転ばないように気を付けます」
私の強がり以外何も含まない言葉に、T氏は安心したように頷いた。はっきり言って私は、S氏に会う直前よりも緊張していた。当然だ。S氏は常識的な大人であって、緊張する理由と言えば精々私自身が失礼な振る舞いをしてしまわないだろうか、ということくらいであったが、今から対峙するらしい相手は、何といっても『この部屋』の持ち主なのだから。(まさか、こんな部屋が誰か別の人間の手によってデザイン・構成されて、そして持ち主がそれを甘んじて受け入れ、黙って暮らしているとは思えない。いや、もしそうだとしたら、或いはそちらの方が恐怖すべき可能性なのかもしれない。)たとえ私がどんなに常識的な振る舞いをしようと、向こうがそれを良しとする可能性は極めて低い。寧ろ常識的になろうとすればする程、理不尽を味わわせられるかもしれないくらいだ。例えば、「お前の靴下が紫じゃないから気に食わない」と言われ打擲されるとか、向こうが作った独自の言語のみを用いてコミュニケーションを取らなくてはならないとか、そういうことが全くないとは言い切れない。そういうことに対する恐怖が緊張の原因であったし、その恐怖は当然ストレートに恐怖そのものとしても私の心を波立たせていた。
「それでは、どうぞ」
一度私の前に立って、私を促してからT氏は歩み始めた。先程は壁際の異常さに圧倒され描写していなかったが、床に関しては『汚い』としか言いようのない状態であった。壁際について騒然としていると敢えて表現し直すとすれば、床の惨状については雑然としていると言い換えるべきであろう。私自身、エントロピーがどうとか人間と自然とのあるべき姿がどうとか言って部屋の片づけを疎かにする方であるが、この部屋の床と比して言えば綺麗と言えるくらいだ。――しばしば散らかった部屋の床を以て『足の踏み場がない』と表現される。かく言う私の部屋も、人を招く度にそう言われる。しかし、この部屋のそれは、足の踏み場云々と言うよりも、最早床がないのである。床が見えない、のではない。床ではないと言った方が、実情に近いのである。それがどういう意味かと当然不思議に思うことであろうが、私自身そう表現する外ないからそう表現した、と言わざるを得ない。敢えて説明するとすれば、一般的な床が平面或いはそれに類した状態であるのに対し、この部屋のそれは、立体的なのである。いや、私の表現の乏しさが露見することを恐れずに言ったとして、『台風や地震、津波の後』、それも木製住宅が並んでいた場所の地面に近い状態、とでも表現すれば多少は思惑が伝わるであろうか。
本来ならば壁に飾られるべきであろう様々なものや、或いはその様々なもの、そして壁に飾られているものを包装していたと思しき装飾紙や化粧箱を主として、独創的な絵が描かれているくしゃくしゃの紙、用途の解らない液体が中途半端に入った瓶やボトル。それらが非規則的な凹凸を部屋の下部に形成していた。
部屋の中心部には、この部屋の持ち主のものであろうベッドが、そこだけ整然と秩序を持って置かれていて、どうやらそこに向かって進むらしい。T氏は、とても踏むところがなさそうに見える凹凸を慣れた足取りで進んでいく。先程の口ぶりと合わせて考えると、この無秩序な自由にも踏み込んでよい領域とそれを許可されない領域があるということらしい。いや、或いはスリッパで踏んでも安全な領域と、踏むと危険を及ぼしかねない物が散らばっている領域がある、ということなのかもしれないが。その前者の領域を選んで進んでいるらしいT氏の後ろを、私は覚束ない足取りで進んでいった。いくら一般よりも広めとはいえ、一部屋分の面積しかない筈のこの部屋は、入口から目的地でありベッドの置かれている中心部に進むまでに凡そ二十歩程度は掛かった。
「サキ、お客さんだ。十九歳の男性で、学生さんらしい」(注:サキは仮名)
ベッドに掛けられた布団はゆるやかな膨らみを持っていて、この部屋の持ち主がその中に居るらしいことを静かに示していた。その膨らみは、自らの父親の声掛けにも応じず、不動のままだった。
「私がこの部屋から出て行けば、起きてくる筈です。――お恥ずかしい話、嫌われていましてね」
思春期の娘に嫌われる父親、なんて何処の家庭にもありそうな話だけれど、ことこの家庭についてはそのような一般論とはかけ離れた状態があるのだろう。その口ぶりからは、単なる愚痴ではなさそうな諦めや切実さを感じた。私は、そういうものなのか、くらいの感想しか持てないままに、T氏の溜息混じりの声を聞き流す。T氏は、私を避けて迂回するルート(当然、先程進んできた道とは別である)を寂しい背中で歩いていって、やがて扉の前に辿り着いた。どうやらルートは唯一という訳ではなかったらしいが、全く興味はなかった。精々、帰るときにどちらか選べるな、ということくらいにしか、私には関係のないことなのだから。
「お客さんに失礼のないようにするんだぞ、サキ。……それでは、サキのことをよろしくお願いします」
不安定な足場であろうにも関わらず、T氏は深々と私に向かって礼をした。私もその礼に応えようとしたが、転んでしまいそうだったので会釈程度の礼のみを返す。その後もう一度ドアの方を向いて部屋の外に行ってしまったT氏は、溜息をしたように見えた。ドアの閉まる音が聞こえてから五秒程、私は身動き一つできそうにない気まずい時間を過ごす。
「……一人? パパ、居ない?」
「え? あ、あぁ、居な……居ませんよ」
一瞬、私はその声を聞き逃しかけた。布団の中からでくぐもっていることに加え、非常にか細く、そして甘く高いその声は、何かの間違いではないかと一瞬思ってしまう程であったのだ。その為言葉を理解するのに一瞬間が空いてしまい、ペースを崩した私は、年下であるらしいその声に対して敬語で答えてしまう。
年上である私が、戸惑いながら敬語で答えたことが面白かったのだろうか。布団の中から、今度は控えめな笑い声が聞こえてきた。
「くすくす……普通に話してもいいよ? ねぇ、名前は?」
「名前? 私は……いや俺は、シキ」
「シキさんね。私の名前と似てるね。私ね、サキっていうの。よろしく」
俺が名乗った後、布団がもごもごと動いて少女、サキが姿を現した。肩の上辺りで切り揃えられた癖のない黒髪と、日に当たらないためか白粉を塗ったかのような肌からは、この部屋に飾られているもの達とは真逆の印象を受けた。この部屋にタイトルを付けるとしたらマッド・アリスだとかそういう西洋風なものであるが、対して部屋の持ち主であるサキは日本人形、或いは現代に合わせて姿を変えた座敷童のような、そういう和風なイメージを持ち合わせていた。垂れ目気味で黒目がちな瞳は、ずっと見つめていれば隠すべき何かを心の奥深くから見抜かれて掬い上げられてしまいそうで、しかし(言い方は悪いが)潰れたように低い鼻や、小さな口からはやはり日本人形に似た印象を受ける。そして衣服はというと今度は本人のイメージよりも部屋のイメージに近い水色のネグリジェだった。本人とネグリジェはミスマッチと言えなくはなかったが、しかし本人と部屋は全く逆の印象であるのにミスマッチと思えなくて、それが未だに私自身不思議に思っていることである。
「あっ、ねぇねぇ! お兄さんはこのお部屋の中でどれが一番可愛いと思う?」
「……人参を貪る血まみれの兎、かな」私は、棚の一番上に飾られたぬいぐるみを指した。
「えー、お兄さん、センスないの?」
興醒め、と言いたげな表情を浮かべるサキ。私にセンスがないことは自他ともに認める事実であるからその懐疑自体は甘んじて受けるが、この部屋にあるものなのだからサキ自身が気に入ったものなのであって、つまりどれを選んだとしてもそう差支えはないだろうという私の安易な考えが間違っていたことに対しては、若干納得できない部分もなくはない。
「あの子も昔はもうちょっと可愛かったけどー、でもやっぱり今はこの子達とかー」
サキは、自分のベッドの周りに散らばった雑貨の中から、頭の両端部の輪郭を共有した八羽の兎が輪状に繋がっている、という意匠のぬいぐるみ(?)や、目が大きく全身が真っ白で口が糸で乱雑に結われている、十字架に磔にされた兎を背景にしたキャンドルスタンドなどを私に見せてきた。そのときのサキの笑顔は、公園や道端で拾った得体の知れないものを宝物と称し集めることが趣味の幼子のようであった。
「この子がねー、マイルド・チャイルドっていうブランドの新商品でね、ここのタグのロゴが今までとは変わっててー――――本当は同じ製品なんだけど工場のストライキで――でもブランドの壁を越えた子っていうのも――私が本当にどうしても欲しくなっちゃって――」
ひたすら、只管、サキは自分の持つぬいぐるみや置物や雑貨類について語り続けた。どうでもいい、と言ってしまえばそれまでだが、T氏からの依頼というのは「娘と話をしてやってくれ」というものであって、それを反故にしてまで聞き逃す程つまらない訳ではない程度に興味の向く話だった。どちらかと言えば、その興味というのは話の内容にではなく、話している人間、サキの事であったり、その話し方であったりに向けられるものであるのだが。
「それでね、テーレアリックスっていうシリーズがあってー……ねぇ、聞いてる?」
「え? あ、あぁうん、一応聞いてたつもりだけど」
「ふーん……じゃあ、クイズね。私が一番最初に買ったお友達の名前はなんでしょーか?
「お友達って……ん、そうか、なるほど。えっと…………いや、ごめん、正直聞けてなかったかもしれない」
買ったお友達、という言葉に一瞬違和感を抱いたが、恐らくその言葉が指すのは、この部屋にあるぬいぐるみとかそういう物のことなのだろう。ぬいぐるみや人形、或いはドールと呼ばれる類のものをそのものの名称で呼ばず、友達や家族と称すること自体は珍しいことではないので、理解してしまえば驚く程のこともなかった。
しかし質問の内容について言えば、気まずいことに全く心当たりがなかった。聞いてたつもり、という言葉に嘘はないが、それは「聞いてた」の部分だけでなく「つもり」の部分にもかかっていたらしい。もしもこれでサキが機嫌を損ねたらどうしようか、というところまで考えて、サキはくすくすと笑った。
「解らなくて当然だよ。まだ教えてないもん」
「そういうのは、少しズルいな」
イコールで悪に繋がる訳ではないが。私は内心で自嘲気味に呟いた。
「ごめんね、意地悪しちゃって」
「構わないよ。意地悪をしたかったと君が言うなら」
「えへへ、うん、したくなったの」
内緒で行った善意を褒められたときのようにはにかむサキは、ぎゅう、と音を立てて、ベッドの下の方から拾い上げたばかりの(比較的まともなデザインの)兎のぬいぐるみを抱き締める。
「ならいいんだ。で、その友達の名前は? どんな子なんだろう」
「ちゃんと聞いてくれるんだ、優しいね。――名前はねサツキって言うの。とっても元気の良い子でね、よく一緒に遊んであげたの」
サキの瞳は、何処か遠い所を見つめていた。或いはそれは、『うっとりとした』と表現するに相応しいようにも見える。そんなサキの言葉には違和感らしきものが見え隠れしなくもなかったが、しかし発言主のことを考えれば、その違和感は寧ろ自然であるような気もして、複雑なことを考えるのに向かない私の頭は混乱し始めた。
それからサキは、サツキに関する様々なことを語り始めた。サツキの出自から、サキとの思い出や、サツキの性格――それはまさに、サツキという存在についての人生記、一つの物語のようでさえあった。
サキがひたすら話し続ける、という意味では先程と同じであったが、しかしその様子は少し違っていて、例えば先程のサキが自ら用意した、自分のための台本を朗々と読み上げるラジオパーソナリティのようであったとすれば、今のサキは、刑事ドラマで崖っぷちに追い込まれた犯人が後悔と韜晦を述べる様に似ていた。自分の好きなぬいぐるみやブランドについて話すことと、自分の『初めての友達』について話すことが、形而上でも形而下でも全く同じである訳がないことくらいは解っていたが。
「ね、凄くいい子でしょ。お兄さんにも会ってみて欲しかったなぁ。三人で遊べたら、きっと楽しかったのに」
「欲しかった、って……サツキちゃんは、今ここには居ないんだ?」
――私は、この軽率な質問を後悔することになる。
『友達』という言葉が、この部屋にある様々なもののことを指すと勝手に思っていたがために、まるで既に離れ離れになってしまったかのようなサキの物言いが何となく気になり浮かんだその質問は、サキの表情をがらりと変化させるものだった。
「居ないよ、もう」
それまで、サキの顔立ちは、中学生という年齢に丁度良い、或いは少し幼いくらいの印象であった。しかし、サツキの不在を冷たく告げるサキは、果たして自らの正体を告げる雪女のようであった。そして言外に、サキは『これ以上訊くな』と言っているような気がした。表情や言葉から、というよりも、サキの放つ威圧感そのものが、そう言っていると思わせるのだろう。
「そ、そうか」
「うん、残念」
言葉通り残念そうに言うとき、サキはまた、中学生らしい子供っぽい仕草で肩を落とした。まるで、今の私からの質問なんて最初からなかったとでも言うようだ。なかったことにしてくれるならば、会話を元通りにリセットすることもできるだろうが、恥ずかしい話先程のサキの雰囲気に気圧されて私の心臓は未だに音を立てて脈打っていて、とてもこちらから何か話を切り出すようなことは到底出来そうになかった。かと言って、サキから口を開くこともなく、サキはぬいぐるみなどを抱くなどすることもなく、掛布団の上に女の子座りでにこにこと笑っていた。私が口を閉ざしていることも、沈黙が流れていることも、まるで気にしていないようだった。
故に、だからこそ私は、この時間がたまらなく苦痛だった。今の私は、蛇に睨まれた蛙だった。その蛇が本当に自分を飲み込むつもりなのか解らない、という点が、その不気味な恐怖を増幅させていた。
じりじりと気力が上限の枠ごと削れていくような時間は、極めてゆっくりと過ぎて行く。冷や汗の一つでも落ちそうになった頃、待ちわびた、或いは恐れていた『変化』が起きた。
「お兄さんは、私の友達?」
意外な言葉だった。そもそも予想していなかった、予想できなかった、というだけのことではあるのだけれど、兎に角私は、サキの問いかけに対して若干面食らってしまった。
「サキちゃんがそう言ってくれるなら、そうかな」
当たり障りのない回答ができた自信が、私にはあった。ベストではないにしろ、この追い詰められきったこの状況ではベターな方だったと思う。私は、答え合わせをするように、サキの反応を待った。
「お兄さん、はじめて名前呼んでくれた」
「そう、だったっけ」
「うん。これで本当にお友達だね。嬉しい」
確かに、一対一で話しているせいか、私はサキに対して『サキ』とわざわざ呼ぶようなことはしていなかったかもしれない。折角教えて貰った名前を呼ばずに済ますなんて、失礼だったかもしれないなと自省する。
いやしかし、考えてみればサキも私の事を『お兄さん』と呼ぶだけでシキとは呼んでいない。反省する程のことでもなかったな、とどうでもいいことを思った。
「新しいお友達、久しぶり。よろしくね、シキさん」
「あ、あぁ。こちらこそよろしく、サキちゃん」
よろしく、とは言うものの、今日以降この家に来る機会は、正直言ってほぼないのではないだろうか。それを解っているのに、こんなその場凌ぎな言葉を放ってしまってよかったのだろうか、と私の心臓がちくりと痛んだ。
所詮社交辞令、と切り捨てても良かったのだけれど、こと相手がサキとなると、どうしてもその言い訳は言い訳以上に成り得ないような、そんな気がするのだ。
「お友達なんだから、何処か遠い所に行っちゃったり、しないでね」
「――勿論」
今度の言葉は、その場凌ぎではなかった。
遠い所、というのはきっと『この部屋の外』という意味では流石にないだろう。ならば何処のことなのか、と訊かれれば姑息的に答えることさえ出来ないが、しかしぼんやりとイメージはできる。少なくとも、『サツキのいるようなところ』に行くことは許されないと、それくらいには。そんなところには、絶対行ってたまるかと。ガラにもないが、私はそんなことを考えていた。
「よかった」
サキの微笑みが、たまらなく優しかった。
私はなんてつまらない緊張をしていたんだろうと、そんな風に胸を撫で下ろした後、床に散らばった様々なものの向こうにある扉から、ノックの音が聞こえてきた。隔絶された、私とサキだけの空間に、ほんの一時間程度ぶりに外界の要素が侵入して、その瞬間、私とサキの間にあった、見えない程細く弱く、しかし微かに煌く糸がぷつりと切れてしまったようだった。
「サキ、そろそろシキさんが帰らなくてはいけない時間だから、話はその辺で切り上げてくれ」
T氏の声だ。ドアを一枚挟んだ向こう側からのそれは、あと少し小さければこの部屋に溢れる様々なものによって吸収されきってしまいそうな程頼りなく、しかし何故かしっかりと聞き取れた。
奇妙で独特で、何処か離れがたい時間の終わりを告げる、その言葉。サキの顔を伺うと、つまらなそうな表情を浮かべていた。残念に思ってくれているだろうか、と一瞬思った自分が、少し恥ずかしかった。
「お兄さん、行っちゃう?」
「……残念だけど」
実際のところ、『帰らなくてはいけない時間』なんて特に私にはないのだけれど、T氏が言ったことをまるっきり否定するのも角が立つし、何より別の意図があるかもしれないので、私は取り敢えずT氏の言ったことに合わせておく。或いは、私が帰らなくてはいけない時間というよりも、S氏が帰らなくてはいけない時間なのかもしれない。私はS氏に車で送ってきてもらっている身だから、S氏が帰るとなれば連鎖的に私にも帰る必要が生まれるわけだ。
何にせよ、私が帰ることを拒むという選択肢は有り得ず、心底残念そうな表情声色を心がけつつ、肩を竦めるのみである。
「そっか。次会えるの、いつになるか解らないけど、でも――年――月――日よりは早く会いに来てね」
解ったよ、と了承の意図を伝えつつ、サキの口にしたやけに具体的な日付の理由を尋ねようとすると、サキは続きを言った。
「その日に、お兄さん死んじゃうから。それより前ね」
「成る程」
それ以外、言うべきことはない。
サキが嘘を言っているようには、全く見えなかった。しかし、信じるとか信じないとか、そういう次元ではないような気もして、ただ何気ないアドバイスのように聞こえた。
私は、若干では足りない名残惜しさを残しつつ立ち上がり、サキに手を振ってから背中を向けた。うろ覚えな帰路を確認しつつ振り返ると、サキは手を振り返してくれていた。しかしその瞳は、決して私に向けられてはおらず、私の後ろに佇む『仲間』を見つめるような、そういう視線だった。ゆっくりとした手の動きも含めて、なんだか三途の川の向こう側に居る人のようだ、と私は感想を抱いた。
案外早くに辿り着いた扉の前。最後の最後にもう一度、と私は振り返る。サキはもう、その姿を布団の中に隠したようで、何処にも見えなかった。
残念、と口に出して呟いて、扉を開いた。外の世界の人工的な光が、私のひと夏の思い出のクライマックスの終了を演出していた。
――――――
「不躾な質問ですが、サキは、いつ頃あなたが死んでしまうと言っていましたでしょうか」
応接間に戻ってからのT氏の一言目は、それだった。T氏は『娘と話をして欲しい』と切り出したときくらい重苦い表情であったけれど、私には当時のような緊張はない。
「あれは、他にも言っているものだったんですか」
T氏は、申し訳なさそうに頷く。奇妙な一言の割に、随分と用意の良い言い方だったなとは思っていたが、T氏の一言で合点がいった。
「――年――月――日、ですよ」
それは、十数年程度先の、とあるぞろ目の日付。
「……本当に、――年と言っていましたか」
「えぇ。案外近いですね」
私が肯定すると、T氏が今度は深い溜息を吐く。余りにもT氏の態度が意味深長なので、とうとう私はそれを訊くことにした。
「いえ、正直私にも意味は解らないのですが……実はシキさんの他にも、今までサキと話していただいた方が沢山いらっしゃって、その方たちにもサキは同じように、何年の何月何日に死ぬ、というようなことを最後に伝えていたらしいんです」
今まで何度か、私と同じような立場だった人間に説明をしてきたからなのだろうか、若干食傷気味な様子でT氏が続けた話は、概要こそ掴めるものの雨の日のリアガラスのように曖昧だった。
曰く、ずっと以前は何人かが続けて同じ日を告げられていたが、今年に入ってからはその日付が段々と早いものになっていて、私に告げられた日付に至っては一挙に三年以上も早まっていた。故に、『もうどうしようもないところまで来たか』と思って、故に客前であるにも関わらずつい溜息を吐いてしまった、本当に申し訳ない、と。最後にはT氏の謝罪で締められた話であった。聞きたいことを聞ききれた気がしないままに全く必要としていない謝罪で終えられてしまったので、大人げないながらも若干不満が溜まったという事実を否むことはできない。
しかしそんなことを伝えたところで何の意味もない。実際、私が知りたいことを、T氏でさえも知らないのだろうから。突っ込みどころはいくらでも残っているが、しかし心に潜ませるべきものであろうことくらいは解る。――いや、違う。不満とか、突っ込みどころだとかは客観的な生産物ではないだろう。私の、出処のわからない苛立ちが作り出した、幻想だ。
その後T氏の家を不完全燃焼のままに去った私とS氏は、『今日の礼をさせてくれ』と言うS氏の奢りで中華料理を食べに行った。T氏の家でのこと、サキのことなどが時折脳裏に浮かびつつ、S氏が一切それを話題に挙げずにいてくれたことで、『出処のわからない苛立ち』まで思い出すこともなく、実に楽しく過ごすことができた。
更にその食事を終え、S氏に送って貰って、とある駅で別れるとき、S氏は何も書かれていない、薄い白封筒を私に差し出した。
「今日のお礼、ということで受け取って欲しい」
「そのようなことはなりません。お礼をされるようなことなど、していません」
「T氏からのお礼でもあるんだ。気分が悪いかもしれないが、是非とも」
S氏の態度は、頑なだった。きっと、封筒の中身は金銭だ。だからこそ私にとっては簡単に受け取ることはできないもので、しかしだからこそS氏や或いはT氏にとっては渡しやすいものだったのだろう。
「解りました。切なる事情のようですし」
「有難い。今日のことも含めて、本当に。――薄々勘付いてるかもしれないが、君には内緒にしていることが余りにも多すぎる。T氏のことであるとか、その娘さんのこととか、それから私の本当に考えていることだってそうだ。後々機会があれば説明できるかもしれないが、今は何も話すことができない。申し訳ない」
「いえ、他ならぬS氏の頼みですから。何ということもありません。寧ろ、女性と話す機会を与えていただいて、私が感謝すべきです」
「はは、君は本当に面白い。じゃあ、今日はこれで失礼するよ。今度こそは二人で落ち着いた所に行こう」
「楽しみにしています」
私は、受け取った封筒を鞄に入れて、S氏に一礼した。S氏はハードボイルド映画の主演男優のように手を挙げて返礼する。
帰宅後、私はS氏から受け取った封筒を開封しようと思ったが、何故かそれをすることができなかった。封筒を見つめていると、なんだかサキの欠片がそこに乗っかっているような気がして、開けてしまうと全て台無しになるような、そんな気がしたのだ。
素直に開封を諦めて、散らかった勉強机の上に封筒を置いて、私はベッドに寝転んだ。スマートフォンを弄ったり、本棚にある本を取り出して捲ったりしていると、やがてT氏と話していたときのようなもやもやした気分が戻って来た。或いは、戻って来たのではなく、それ以外の気分で隠していたのに誤魔化せなくなった、と言えるかもしれない。そのもやもや、引いては不満感は、凡そサキに関しての要素が殆どを構成しているのだろう。
また、今までの長くはないし豊かではない人生の経験の中から、そういった気分が時間経過以外で立ち去っていくことはないと知っていた。だから特別に何をする訳でもなく、せめて気が紛れるようにと自分に対して忙しいフリをすることに終始することにした。
――結局、一週間程度、私はそのもやもやした気分を抱えたまま、夏休みの日々を送ることになった。何をしても、本当に楽しいと思えたことは、その間一度として無かった。そして、S氏から渡された封筒は、未だに私の部屋の勉強机の上に置きっ放しにされている。
サキのことを思い出す度、私は小さな溜息を吐く。
何とも気分の悪い、途中で醒めてしまった悪夢のような、夏休みのある一日のことを、私は忘れることができないままである。