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前編

 


 海に大きく突き出した崖のその先に、魔女の家がありました。

 煙突からはいつも緑や青の煙が立ち上り、耳を澄ませば今日もしわがれた老婆の笑い声が聞こえてきます。



 *****



「聞こえるわけ、ないじゃない」


 声が離れた場所にいる人間に聞こえる程家の壁は薄くはない。そもそも笑い声など上げる事がないのだから、耳を澄ましたところで聞こえるはずもない。

 この話で正しいのは家の場所と煙の色とそして――しわがれた声の部分だ。


 紫の毒々しい色彩を放つ液体を鍋から掬った。コップにそそぎ、飲める程に冷ましてから一気に飲み干す。

 舌が爛れかねない辛さに顔が歪んだ。用意していた水一杯では足らず、何杯も注いでは飲み干すを繰り返す。最後に果実水を呷ってようやく息をついた。

 喉を撫でた。息を吸う。

 大丈夫、大丈夫。

 効用に基づいて加えた材料を思い浮かべて自分に言い聞かせ、口を開いた。

 しかし己の名前を声に乗せても、結局は失望で終わる。


 またダメだった。


 私の口から出てきたのは、醜くしわがれた、老婆の声だったのだ。



 *****



 私の声は幼い頃からしわがれていた。

 扉の向こうから返事をすれば、一緒に暮らしていた大祖母と間違えられる事も珍しい話ではなかった。

 だから自分の声が嫌いだった。

 魔女であった大祖母にいくら治す薬をせがんでも、自分で作ってみろと笑うばかり。

 私は薬を完成させるよりも早く、声の指摘やからかいを受け流す方に慣れてしまい、薬を作る意欲も薄れてしまった。

 今では隠居した大祖母の店を継ぎ、のんびりと薬を売っている。

 町から少々離れてはいるものの、薬を仕入れにくる商人も訪れるし、少しでも安く薬を手に入れようと訪れる人間もいる。加えて時折森や海の客だって訪れる。

 そっくりそのまま大祖母時代の客も引き継いでいたので、それなりに繁盛していた。


 扉に取り付けたベルに呼び出されるまで、新薬の研究に没頭する。

 時折集中力が過ぎて聞こえない事はあるものの、客も分かっていて大声で私を呼ぶ。

 ただし大抵は「魔女さん」で、名前を呼ぶ人間はたった一人だけだった。

「クリスー」

 どんなに集中していようと、その陽気な声だけは意識にするりと入り込んでくる。

 作業台から離れてドアノブに手をかけようとして、慌てて鏡で己の姿を確認した。服についた薬草のくずをはたき落として後ろ部分も見る。

 そう時間は経っていないはずだが、待ちくたびれ様子で作業場に繋がる扉が開いた。


「クリスー。果実酒、届けに来たぞ」

「許可なく入って来るんじゃないよ」

 顰めっ面を作ってみせても、彼は「だってお前、薬作りしている時は客の声なんて耳に入らないだろ」と笑って反省する様子もない。

 彼は酒屋の息子だ。酒がなくなる頃合いを見て、こうして届けに来てくれる。

 ハンスは運び入れた木箱を壁際に置いた。空の木箱を取り上げて此方に体の向きを変えた彼に、ぶすくれながら反論する。

「聞こえているさ」

 ハンスの声だけは。

 心の中で付け足した言葉を、彼に聞かせる気はさらさらない。

 私の本心など知る由もないハンスは、からりと笑って「うそつけ」と言った。


 笑顔を向けられる事ににむず痒さを覚えたのはいつからだろうか。

 思わず目を逸らしてしまうようになったのはいつからだろうか。

 ただの客と売り手の関係にもどかしさを抱き始めたのは、いつからだろうか。


 初対面の印象なんていいものじゃなかった。

「風邪か?ひでぇ声してるぞ」

 薬作りをさせてもらえない程に幼い頃。

 店番をする私が声を指摘されるのは、何ら珍しい事ではない。加えて相手も同じくらい子供だ。遠慮はなかった。

 私は聞き飽きた台詞にうんざりしながらも、その時は流したのだ。


 会う回数が増えるに従い、私の声についてハンスは当たり前のものとして慣れていった。

 私にとって珍しい事だった。

 年の近い男の子は大抵私の声や古臭い話し方をずっとからかってくる。女の子は同情しながらも優越感に滲んだ笑みを見せる。

 からかうでもなくごく自然体の笑顔で私と接してくれたのは、ハンスくらいだったのだ。

 年の近い子供でさえ嫌いだった私も、ハンスだけは別だった。

 彼は町に入りたがらない私に、町で起こったちょっとした騒動や笑い話を面白おかしく語ってみせる。簡単に笑いを引き出されるのは少し癪だ。

 みんなが私を『魔女さん』と呼ぶ中、たった一人だけに口にされる己の名前に、いつからか心地良さを感じるまでになっていた。



 *****



「ほら。この前頼まれていたやつ」

 酒を届けに来てから数日と経たぬ間にハンスはこの店を訪れた。

 今度は町に降りない私に食料品や日用雑貨を届けるためだ。

 元々は前店主だった大祖母が頼んだお使いだった。ハンスも小遣い稼ぎに引き受けていたものが、大祖母が引退してからも続いている。

 ただし配達料は昔と違っていた。


 私は袋の中身を確認して、食料や日用雑貨のお代を渡した。

「スープがあるけど食べてくかい?」

「おっ。食べる食べる」

 ハンスは待ってましたと表情を明るくして、我が物顔で店の奥へ入っていく。

 器によそるのは、別になんて事ない普通のスープだ。まあそれなりに味に自信はある。パンとチーズも添えてテーブルに並べると、ハンスは早速手を伸ばした。

 大祖母が引退して直接私が配達を依頼するようになって間もなく、ハンスは配達料を受け取らなくなった。金はいらないから何か食べ物がほしいと言うのだ。商品の薬をお駄賃代わりにするのも嫌がった。食べ物がいいらしい。

 以来ずっと食べ物である。

 ハンスも昼時を選んで来るため、昼食代を浮かそうという魂胆なのかもしれない。


 美味しそうに食べているのを気分良く眺めていたら、ハンスがふと食べる手を止めた。

 何か考える仕草を見せる。

「クリス、町に行くの嫌いだよな」

「え?ああ」

「だよなぁ。やっぱり断っとくよ」

「何の話だい?」

 突拍子もなく話題とも言えない問いを投げて一人納得するのはやめてほしい。

 ハンスは口を尖らせた。

「クリスを飯に誘えってうるせー奴がいるんだよ」

 それは私を飯に誘うのは嫌だという事か。

 だとしたら随分と癪である。

 少なからずささくれ立つ思いになりながら、不満を声に滲ませる。

「……行く」

 ハンスは目を丸くした。次いで浮かべたのは、何とも微妙な表情だった。



 *****



 昼間に町に入るのは何ヶ月振りだろうか。

 静かな場所を好む私にとって、この町はあまりにも騒々しく、人が多い。

 魔女が降りてくるのが珍しいのだろう。不躾に向けられる視線を、黒いフードを目深に被って遮った。

 町に降りても用を終わらせてすぐ帰っていたため、食堂へ行くのもこれが初めてだ。

 ハンスとは町の入口で待ち合わせをして、今は私の少し前を歩いている。

 早足なのは、私と並んで歩きたくないという表れなのだろうか。

 不満に思うくせに、一歩の距離を縮める事は難しかった。


 憂鬱な気分で訪れた食堂は、煩わしい程に人で溢れかえっていた。昼時なのだから当然だ。

 そこに魔女が入ったら、一瞬だけ店内のざわつきが種類を変えた。

 疲れた。もう帰りたい。

 後悔なんて、家を出る前からしている。


 店の中にそれ以上進めない私を、明るい、鈴が鳴るような声が引っ張り込む。

「魔女さんいらっしゃい!ハンス、あんたようやく連れてきてくれたのね」

 同い年程の娘が朗らかに笑った。

 彼女の事は知っている。たまに雑貨を買いに来る、アンという娘だ。昔は親と共に来ていたのを覚えている。

 好奇心と少しばかりの畏怖を抱いて店を見回していた娘だったが、大きくなるとぱったり顔を見せなくなった。

 しかしつい最近になって一人でやってくるようになったのだ。世間話を少しだけした後に、花の匂い袋や枯れない花の飾りを買っていく。どれも趣味で作ったそれを、彼女は友達にあげるのだと言ってひとつだけ買って帰る。評判は良いとは言うが、私にまでその声は届かない。


「ここの店の娘だ。こいつの事知ってるか?」

 ハンスの問いに頷くと、娘は朗らかに笑う。

「来てくれてありがとう。気に入ってもらえるよう、腕によりをかけて作るから、期待してて」

「作るのはお前じゃないだろ」

「あたしが作るのもお父さんが作るのも同じよ」

「お前なんかオヤジさんの足元にも及ばねぇだろ」

「半人前のあんたに言われる程じゃないわ」


 そのやりとりは少なからず私に衝撃をもたらした。

 ハンスが誰かと親しく話す姿を見る機会はそう多くはない。

 私は町まで行く事はほとんどないために、見かけるのは大抵が私の店での他の客とのやりとりだった。

 そんな少ない機会の中に、ハンスが若い娘と話す場面はこれまで一度もなかった。

 私は私のごく限られた世界の中で、彼の交友関係を理解した気になっていたのだ。


「あいつの腕は信用出来ないけど、オヤジさんの飯はうまいぜ」

 娘が去った後、私の存在を思い出したかのようにハンスは声をかけてくる。

 料理が運ばれるとがっついて食事を始めた。

 とても美味しそうに食べるハンスの向かいで、私は食欲も気力も急降下していた。

 皿の半分は詰め込んだものの、それ以上は進まない。

 ハンスは口を閉ざしてしまった私を心配する。私は心配ないと首の動きだけで答えて、声を使わなかった。


 定食屋の娘の声が可愛かった。

 それだけだ。

 たったそれだけで私は、声を出すのが嫌になってしまったのだ。







 鍋がぐつぐつ煮えたぎる。

 ごぽごぽと音を立てるのは、普通の人間ならば眉を顰める材料の数々から作られた、血のように赤い液体だ。

 コップに注ぎ水につけて冷やしてから、一気に呷った。気持ち悪い程の甘さに、喉を素直には滑ってはいかない粘り気。

 水でようやく流し込んだ。

 喉を撫で、言葉にもならない声を発する。

 しかし耳を震わすのは変わらぬしわがれ声。

 失敗だ。

 窓を開ける気力もない。むせかえる程の匂いは、煙突の逃げ場だけでは足りずに部屋に充満している。


「魔女さーん。いるかーい?」

 からんからんとベルが鳴り、店の方から声を掛けられた。億劫さに無視を決め込もうかとよぎったものの、重たい腰を上げ、竈の火を消して店の方に向かう。

 客は眉を顰めていた。

「酷いにおいだねぇ。一体今度はどんな薬を作っているんだい」

 ふくよかな女に告げられた薬を用意する。そして会話もなく見送った。

 客とは声のやりとりをしていない。私は目で注文を促し、客の要望に応えるのだ。

 文字でも書いて意思表示をしたいのだが、生憎町の人間の大半は数字程度の文字しか読めない。文章となるとお手上げだ。


 口を閉ざした事に町の人間も始めは戸惑っていた。しかしすぐに順応していった。元々口下手で最低限の会話しかしてこなかったのだ。私が喋らなくなったところでどうでもいいのだろう。

 ハンスはみんなが気にしていると言った。どうせ彼お得意の誇張表現だろう。

 私は愛想がないし声もこう。定食屋の娘とは正反対の女だ。

 心配だってどうせ口先だけだ。

 捻くれた思考は人に会うのも嫌にさせた。

 店を開けていたのは偏に、ハンスがやって来るからに他ならない。そうでなければ、客の対応をしている時間全てを薬作りに費やしている。

 店の奥に行こうとした私を、ベルの音が引き止めた。

 次の客を見るなり自分の顔が強張ったのが嫌でも分かった。相手も同様に緊張を走らせているのだから居た堪まれない。

 入店をした彼は木箱を持っている。こちらを窺いながら何か言いたげに間を置いてから、にっと笑った。


「ほら。注文の。……奥に運ぶな」

 私は無言のまま頷いた。

 背中を見送り、以前よりも暗くなったように感じる店内を見渡す。

 生けていた花が枯れていた。水も上げていないのだから当然だ。

 昔、森で花を摘んでいたら、町の少女達にクスクスと笑われた事を思い出す。「似合わない」と囁き合った彼女達の声は耳には届かなかったが、態度と口元を見れば容易に推測されるものだ。

「クリス」

 ハンスは奥の戸口の前に戻ってきていた。

 店に入ってきた時の無理やりな笑顔も消えている。

 元々気は長くない彼は、焦れた様子で、半ば責めるように言い放った。

「なあ。いい加減喋ってくれよ。どうして喋らないんだよ」

 目を逸らして無言を貫く。

「まさか病気か?」

 視界の端で手が不用意に伸びてきたために、思わず後ずさった。そのあからさまな態度に彼ははっきりとキズついた事を表情に示した。

 罪悪感から再び目を逸らす。

 ここで何か一言言ってやれば良かったのだろう。

 だけどやっぱり私は、喋る気にはなれなかった。




 日に日に気分が落ちていく。鬱々とした感情は、少しずつ黒い染みを広げるように気持ちを蝕んでいく。

 薬は成功しない。手掛かりさえも掴めない。

 店を開ける時間が次第に短くなる程に追い詰められていた私にとって、突然訪れたその客は幸運そのものだった。


「私を人間にしてください」


 懇願する濡れた双眸。

 人に恋した人魚姫。

 美しい容姿と美しい声があれば、どんな男も落とせるだろう。

 だけどどれかひとつ欠けたところで、彼女の魅力が損なうとも思えない。

 私は口角を上げる。

 そしてしわがれた老婆の、浅ましい声で告げた。


「それならお代は、あんたの声にするとしようか」


 

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