五
昨晩はモヤモヤと考えにふけっていたが、いつの間にか寝ていたらしい。目が覚めると、部屋の中には朝日が差していた。
何かを振る音が聞こえる。ビュォン、ビュォンと激しく空気を切る音だ。話声は一つもしない。まだ、早起きの奥様方も寝ている時間らしい。
眠気のする頭をどうにか覚醒させ、モゾモゾと布団から這い出てみると、一つだけ布団がキチンと畳まれていた。新之助さんの布団である。
扉を開けてみると、外で新之助さんが上半身は着物を脱ぎ、木刀の素振りをしていた。身体に巻かれた包帯と、少しにじんだ血が痛々しい。
意外と筋肉でガッシリとしている。真剣な顔で木刀を振っており、私が起きてきたことには気づいていないようだ。
傷が開いてしまうから、止めるべきだろう。そう思って、声をかけようとしたが、昨晩のやり取りを思い出す。新之助さんは、かたき討ちをしなければならない身だ。しかも、相手がどこに居るかも分かっている。
素振りをするのを、私が気安く止めていいものではないだろう。とりあえず、コソコソと気配を消して顔を洗いに井戸へ向かうことにした。
「お奈津さん、起こしてしまいましたか」
バレた。コソコソしたのが、かえって怪しかったようだ。新之助さんは汗を手でぬぐい、おはようございますと笑顔を向けた。上半身裸で爽やかなイケメンの笑顔。朝から眩しい。朝日で後光が差しているような。余計に眩しい。
「新之助さん、怪我は大丈夫なんですか?」
「はは……。ゆっくり休んでいるわけにも、いきませんから。朝山が、またいつどこで奇襲をかけてくるかも分かりませぬゆえ」
新之助さんが大怪我で運ばれてきたときのことを思い出して、思わずゾッとする。もうあんなことは起こって欲しくない。不安げな私の視線に気づいたのだろう。新之助さんは苦笑いして木刀を眺めた。
「お奈津さんもお気づきでしょうが、私はそこまで剣の筋が良いわけではありません。この間の奇襲で、朝山もそれに気づいたでしょう。次はきっと、私は殺される」
「いやです、そんなこと言わないでください」
「……お奈津さんは、会ったばかりの私にお優しいですね」
優しげな笑みを向けられて、思わず言葉に詰まる。本当は、私にこんなことを言う資格なんてないのだ。現代人の感覚を未だに引きずって、江戸時代の人たちが剣に賭ける覚悟も分からない。
命の重さが、この時代と現代では違う。武士道なんてものも、分からない。そんな理想よりも、もっと自分を大事にしたら良いのにと思ってしまう。
「私の実家は、後継者あらそいでも揉めていまして、父が朝山に殺されたのを幸いにと、私はかたき討ちの旅と称して追い出されたのです」
「そんな……」
「帰る場所もない私です。死んでも構わないと、思っていました。……いえ、今も思っています」
あまりに重い新之助さんの言葉に、私はギュッと拳を握りしめる。どうしてそんなに、優しげな笑みで、悲しい事を言えるんだろう。心の行き所が無くて、言葉が出てこなくて、ただ、新之助さんを見つめた。
そして、勢いよく、新之助さんの顔を殴りつけた。パチン、と間抜けな音が鳴る。
「えっ!? お、お奈津さん!?」
あまりの突然の出来事に、驚いて口をパクパクさせる新之助さんに、私も驚いてオロオロした。身体が勝手に動いた。あんまりにもメソメソとした新之助さん、略してメソスケさんに悔しくなって、思わず殴ってしまった。
おかしい、こんなつもりではなかった。それでも、まだ、私の身体も気持ちも収まらないらしい。口が勝手に動き始めた。
「新之助さん! 新之助さんが死んでしまったら、貴方を助けた私たち一家の気持ちはどうなるんですか! 踏みにじるんです!? せめて、恩返しの一つや二つしてから死んでください! もう一度殴りますよ!?」
「そ、それは困りますね。殴らないでください」
つめよって怒りだした私を宥めるように、両手を軽く上げて、クスクスと笑った新之助さんに、思わず拍子抜けする。困った顔をしながらも、なにが面白いんだか、笑いはどんどん激しくなっていく。かなりの大爆笑だ。ひどい。
一世一代の私の怒りに、この反応。ムカついて、ほっぺたをグニグニと引っ張ってやったら、さらにお腹をかかえて笑い始めた。
笑い続ける新之助さんの頬っぺたを引っ張ったままでいると、我が家の扉が開く音がする。家のほうを振り返ると、呆れた顔のお母さんがいた。
「アンタ達、朝早くから、なにやってんだい。近所迷惑だよ!」
「ご、ごめんなさい」
「申し訳ありません」
そういえば、まだ、顔すら洗っていなかった。キッと新之助さんを睨みながら、手を離すと、次は私の頬っぺたがグニッとやられた。普段のおっとりほやほやの笑みとは違って、いたずらっ子のような笑顔の新之助さんが私の耳元に顔を近づける。
「お奈津さんの言葉、覚えておきます。恩返し、しないといけませんからね」
それだけ言うと、薪割りに行ってきますと、おっとりほやほや微笑んでから歩いて行った。もしかして、今のはアレだろうか。テメェよくも殴りやがったな、今度倍返しにするから覚えておけよ、ってヤツだろうか。宣戦布告してくるだなんて、新之助さん、意外と食えない男である。
「……それでもまぁ、少しでも生きる気持ちになってくれるなら、いいよね」
「ちょっと、寝太郎。いつまでも寝ぼけた顔してないで、さっさと朝ごはんを作る支度手伝っておくれよ」
お母さん。今、いいところなんだから、そういう野暮なツッコミはやめてもらえるかな!?
長屋には、薪割りの音が響き始めた。新之助さんは、死んでも構わないと言った。私は人生の生きる楽しみは美味しい食べ物だと思う。美味しい朝ごはんを、作ろう。毎日毎日、美味しいご飯をたくさん食べさせてやろう。そして、生きるのって嬉しいなぁと思わせてやるのだ!