三
「お奈津さん、ここでお店をなさっているのですか」
昼間、暑くてダラけた格好で座って団扇でパタパタと仰いでいると、編笠をかぶった浪人風の男がやってきた。身長が高い男で、着流し姿に大小二つを腰に差している。
随分と迫力がある男だと思ったが、近くに来て、遠慮深げに編笠をクイッとあげると、そこから見えた顔は新之助さんだった。よく見たら、この着物は私のお父さんの着物だ。私がうっかりつまずいて、持っていた豆腐ハンバーグのタレを盛大にかけてしまったシミが薄らと残っているから間違いない。
「新之助さん、その格好どうしたんです?」
「かたき討ちの迎え撃ちをされてしまったような身ですから、お奈津さんたちに少しでも迷惑がかからないようにと思って」
浪人の格好は、どうやら変装のつもりだったらしい。普段のおっとりほやほやした姿とは大分イメージが違って見えるし、変装の意味はあるかもしれない。失礼、と言って座った新之助さんに、とりあえず水を出す。
新之助さんは、どこか暗い表情をしていた。怪我がやっと落ち着いた頃だというのに、どこかへ行ってきたのかもしれない。少し疲れの色も見える。
「本当は、早く長屋を出ないといけないのは分かっているのですけれど……。居心地が良くて、つい。私のいけないクセですね」
「新之助さん、まだ怪我が完全に治ってないじゃないですか。出るとか出ないとか考えるのは、治った後ですよ」
少しでも気が晴れるように、私ができるのは料理を出すことだけだ。豆腐ハンバーグばかりを出すのも芸がない。今回はこれにしようと、スパゲティを湯がき始める。同時に、作っておいたトマトソースを煮込む。
今日のメニューは豆腐ハンバーグとトマトスパゲティしかないが、これでも頑張っているほうだと褒めていただきたい。時折、日によってメニューは変更になるのだ。
江戸時代にトマトがあるのかというと、実はこの時代にはもう伝来していたのである。唐柿と呼ばれ、青臭い匂いと赤い毒のような色が敬遠され、観賞用として使われている。
貝原益軒という儒学者の書いた本『大和本草』にもトマトの記述はあるらしく、学者の間では、そこそこ有名な果実のようであった。その話を聞いた時、欲しい欲しいと騒いでいたら、知り合いが長崎土産にトマトの種を持って来てくれた。その種を育てて、育てて、増やして、今に至る。
「……お奈津さん、その赤い汁はなんですか」
新之助さんは、ドギマギした様子で鍋を覗き込んでいる。謎のドロドロとした赤い液体をかき混ぜる私は、魔女のようにでも見えるかもしれない。本来ならば、江戸時代に、トマトソースなんてものは伝わっていないのだ。
最初、このトマトスパゲティを出したとき、皆は恐れおののき、いつのまにか、これを度胸試しとして食べるのが流行ってしまった。度胸試しで食べた勇敢な侍たちから、美味しいと評判にはなったが、やはり今も勇敢な侍にしか食べてもらえない。
「唐柿蕎麦ですよ。勇敢なお侍さんたちが、度胸試しに食べて行かれます。新之助さん、今こそ度胸を試すときです」
「ええっ……」
皿にスパゲティとトマトソースを注ぎ、新之助さんの前に置く。同時に、ニヤリと笑ってみると、新之助さんは若干青ざめた。さらに、イーッヒッヒと笑ってみる。ちょっぴり後ろに引かれた。これはこれで、面白い。
江戸っ子たちは、喧嘩っ早い性格の人が多いので、ここまで素直な反応は中々してくれるものではない。今まで、このトマトスパゲティを食べた勇敢な侍たちは、ヤケとも言えるような勢いで戦いを挑んできた。我が友人である、おとよも、過去にトマトスパゲティを食べているが彼女は平然と、変わった色だねぇなどと言いながらペロリと平らげた。
しばらく新之助さんの反応を楽しんでいると、新之助さんは姿勢を正して、私の顔をしかと見つめた。
「わ、分かりました。私が、根性無しなのを見抜いて、お奈津さんは試して下さっているのですね。食べましょう」
そんな意図は全くなかったが、怪しげな笑いをしたせいで誤解されたらしい。新之助さんは、意を決したように箸でトマトスパゲティをすすった。スパゲティだったら、フォークとスプーンが欲しいところだが、そんなものを用意したら、ただでさえ奇人扱いなのが、次はどうなるか分からない。料理の名前も、日本に合わせて、唐柿蕎麦なんて名前にしているのだ。
難しい顔をしながら、新之助さんは無言でスパゲティに箸を進めていく。もう何口目になるか分からないころになっても、まったく喋らない。食べた事のない味に、恐怖を感じているのかもしれないが、着実に食べ進めている彼は勇敢なる侍の仲間入りである。
「……ごちそうさまでした。変わった味でした」
「お疲れ様でした、新之助さん。これで勇敢なお侍さんの仲間入りですね」
「少しは根性もついたでしょうか」
「多分。私はこれ、好物なんですけどね」
「お奈津さんは、強いなぁ……」
尊敬した眼差しを向けられた。トマトスパゲティは、よっぽど口に合わなかったらしい。本来、これは度胸試しに食べるような食べ物ではない。お子様だって大好きなオシャレ料理である。全て食べたことを誇らしげにされても、困ってしまうのだが、少しは明るい表情になってもらえたようだ。
私が度胸試しに食べさせたと完全に勘違いしている新之助さんは、正直ちょっと天然が入っているような気がするが、おっとりほやほや嬉しそうに笑っている姿は可愛かった。月代だけど。
「新之助さんの笑顔は、素敵ですね」
「えっ!?ど、どうしたんですか、突然」
ちゃきちゃきの江戸っ子と違って箱入り息子のような新之助さんは、褒め言葉には慣れていないらしい。顔をトマトのように赤くしてドギマギしている。できる事ならば、こんな人に、斬り合いの怪我なんてしてほしくないものだ。かたき討ちをしようとしている時点で、それは叶うはずもない願いだということは分かっているのだけれど。次は、怪我どころではなく、死が待っているかもしれない。
前世では、身近な人の死を味わった経験は、お婆ちゃんの老衰くらいだった。あれでも非常に悲しかったのだが、小学生のころの話だったから、いまいち死というものが分かっていなかった。
よくよく考えてみれば、前世の私は交通事故で死んで、周りの人たちには死の悲しみを味あわせているのだ。両親より先に死ぬだなんて、親不孝な娘だった。もう二度と、こんな親不孝なことはしたくない。
「……新之助さん。かたき討ちは仕方ないことですけれど、怪我したり死んだりしたら悲しむ人がいますからね」
「お奈津さん」
少し驚いたような顔をして、その後、いつものおっとりほやほやスマイルをした新之助さんは、素敵に見えたけれど、やっぱり月代だ。笠から覗いたツルツルの広いおでこに、一瞬トキメキかけたラブロマンスは消え去った。