二
「寝太郎、ついに色気に目覚めたって?」
「何を寝ぼけたことを言ってるの? アンタが寝太郎なんじゃない?」
早朝、魚売りのお兄さんやおじさん達が威勢の良い声をあげて走り出して行くのが見える。大川の河川敷に出した一軒の屋台。ここが私の店だ。
仕込みを行う私の前で、冷やかしに座っている島田髷の若い女がいる。私の友人の、おとよ。にやけ面が朝から私をイラつかせてくる。
「新之助さんだっけ? 一つ屋根の下! 色男と同居! やーだー、ハレンチぃ」
「アンタの頭がハレンチだっての」
新之助さんと同居するようになって一週間は経つ。いつの間に噂が広まったのやら、会う人会う人、からかってくるのが最近の日常であった。実際のところ、何があるわけでもなく、新之助さんは私のことを変な女だと見ているだろうし、私は私で、新之助さんは恋愛対象外である。
あのツルッツルの月代頭が許せない。現代人の感覚が未だに抜けない私は、どちらかというと長めの髪の男性のほうが好みであった。つまり、江戸でいうと、浪人や医者のほうが好みのタイプである。あの人たちは、ツルッツルにはしていないからだ。月代なんて、コントにしか思えない。月代萌えの人はごめんなさい。
「まぁ、冗談はともかくとして。大丈夫なの?」
どう考えても冗談とは思えないにやけ面だったような気がするが、一転して真剣な顔でおとよが見つめてくる。何を心配されているのか、心当たりはある。私の貞操である。嘘だ。正しくは、かたき討ちに巻き込まれることである。
新之助さんの相手は、先手必勝とばかりに多勢で無勢に襲ってきたような相手だ。新之助さんが生きていることが分かったら、私たちの長屋にまで襲い込んでくる可能性は否めない。
「正直言って、怖いけどね。お母さんが連れ込んでしまったし、仕方ないよ。腹くくるしかない」
「お母さんが男を連れ込んだって言うと、なんか浮気みたいだね」
新之助さんに対するお母さんのテンションの上りっぷりを思い出して、ため息を吐く。イケメンの顔は現代も江戸も大して違わないようで、現代でいうところのイケメン俳優みたいな顔の新之助さんに、お母さんはアイドルの追っかけみたいになっている。いや、お母さんだけではない。長屋の奥様方はキャーキャーと黄色い悲鳴をあげている。
しかしヤツは月代だ。剃りあげたツルツル頭に、ちょこんと乗った結い上げた髪の毛。あの髪の毛が解けたら、落ち武者の完成である。そんな頭に私は黄色い悲鳴を上げる気にはなれない。
「まあ、いざとなったら、お奈津のおとっつあんは強そうだからね。新之助さんも、戦えないわけではないだろうし……。戦えるよね?」
「さぁ……。新之助さん、ヒョロヒョロおっとりしてて、弱そうだけど」
「あちゃー。お奈津、本当に腹くくっといたほうが良いかもしれないねぇ」
「死んだら、おとよの枕元にでも祟りに出てあげるよ」
「ひぃ! 幽霊は苦手なんだから、やめて!」
友人が死んでも会いに来てやろうとしているのに薄情なヤツだ。
私は仕込みの豆腐ハンバーグを丸め終わり、酢醤油のタレをグツグツと煮込み始める。良い香りだ。豆腐ハンバーグの隣には、スパゲティとトマトソースも準備している。今日の献立は、この二種類だ。トマトスパゲティは夏限定である。
朝ごはんは、ここで食べるつもりで来たのだろう。腹を空かせているらしい、おとよが鼻の穴をクンクンと間抜けに広げて、私の手元を覗き込む。匂いにつられて、乞食のおじさんも寄ってきた。
「よぉ、お奈津ちゃん。店はもう開いてるのかい?」
乞食じゃなかった。異常なまでに汚らしい格好をしているし、異臭もするが、御用聞きの旦那さんだ。御用聞きとは同心と呼ばれる警察の人が、私的に雇った民間人のことだ。同心の探索や捕物を手伝うのが仕事で、お給料は安くて、御用聞きの人は他にも副業をしていることが普通らしい。
「栄さん、今日も汚いねぇ。営業妨害になるから、せめて湯汲みでもしてから来てほしいなぁ」
「あっはっは、すまねぇなぁ。それでも飯を食わせてくれるのがお奈津ちゃんだって分かってるぜ」
「うっわ、その信頼、嬉しくない」
まだ早朝だというのに、本日何度目になるか分からない溜息を吐いて、豆腐ハンバーグを焼きはじめる。栄吉さん……、通称、栄さんに水を出してやると、すごい勢いで一気飲みをした。おとよはジリジリと座る距離を離している。臭いし汚いからね、分かる分かる。
栄さんは、私のお父さんの知り合いで、尚且つ私の店の常連さんだ。ちゃんとお金は払ってくれるし、全くの銭無しというわけではないのだろうが、汚らしい格好をしているところしか見た事が無い。
副業に関しては何をしているかも知らないし、もしかしたら、御用聞きの仕事一筋なのかもしれない。そうだとしたら、このボロボロの格好も納得である。これで仕事が勤まるのかどうか謎なところだが。まだ若いし、身なりをちゃんとしたら、そこそこ見れるようになるのではないのだろうかと思うので勿体ない。
「お奈津ちゃんも知っているかもしれねぇが、最近、辻斬りが起こってなぁ。調査に忙しくってよぉ、湯汲みなんて暇、ありゃしねえ」
「辻斬り? おとよ、知ってた?」
「いんや、知らないねぇ。怖い話だね、犯人の目星はついてるのかい?」
「ああ、目星は付いている。ただ、尻尾をつかませてくれなくってよ」
豆腐ハンバーグが焼きあがった。特製のタレをかけて、白いご飯と一緒に栄さんの前に置く。犬のような勢いでがっついて食べ出した。本当に忙しかったようだ。ご飯もロクに食べていないらしい。
距離を置いていたおとよも可哀想に思えたのか、そっと水のおかわりを汲んでやっていた。しょっちゅう私の店に訪れるおとよと栄さんは顔なじみである。
「怖がらせるような話をするが、お奈津ちゃんの長屋の近くで、その辻斬りをやった疑惑のかかってる男がうろついてる」
「えっ……!?」
「一人で夜に出歩くようなことは、絶対にするなよ」
私は激しく頷いた。なんと物騒な話だろう。さっさと捕まえてほしいものだ。
それにしても、新之助さんは、かたき討ちの迎え撃ちで大けが。栄さんは辻斬りの調査。ここ立て続けに物騒な事件二つが身近に起こるだなんて、なにか不吉なことの前触れだろうか。
「お奈津ちゃん、妙な男と関わり合いになっているらしいと聞いたけれど、そっちも気を付けるんだぜ。いざとなったら、オヤジさんに頼れば、なんとかなるからな。あの人は、俺が尊敬するお人だ」
「……うん、分かった。栄さんも気を付けてね。もちろん、おとよもだよ」
私はいつも通り、料理を作るだけだ。なんせ、転生などという稀有な体験をしておきながら、何一つ事件に巻き込まれることもなく平穏にここまで過ごしてきた私である。どうやら、物語の主人公のような不幸体質や巻き込まれ属性はないらしい。きっと、今回の事件も、知らないうちに解決しているに違いないのだ。