十三
「お父さん、狐隠れの彦蔵って人、知ってる?」
「何でぃ。随分と懐かしい名前が出てきやがるな」
お父さんは、フゥーッとキセルの煙を吐いた。煙は月の浮かぶ空へと消えていく。障子の戸を開けて、月を見ながらキセルを吸うのがお父さんの日課だった。何を考えているのか、遠くを見つめるような眼差しで、空を見上げる。
どうしてもお爺さんとお父さんの関係が気になってしまって、おもわず聞いたのだが、よろしくなかっただろうか。お父さんはしばらく黙りこむ。新之助さんは、それを聞いちゃうんですか!? というような顔をして、私とお父さんをオロオロと見ている。
さらに、そんな新之助さんを、お母さんは可愛いものを見るかのようにジットリと見つめていた。完全にアイドルのおっかけである。
「彦蔵の名前をどこで知った?」
「栄さんに聞いたよ」
「そうかえ。また盗みを始めたのかねぇ。足を洗ったと思っていたが」
お父さんは、また黙りこくって、キセルの葉を追加し始めた。話の続きを促そうと、お父さんをジッと見つめる。私の真剣な顔に心を動かされるものがあったのか、お父さんも私の顔を見つめてきた。
しばらく時間が過ぎる。いつまで経っても、口を開こうとしない。くやしくなって、ちょっと変顔をしてやったら、お父さんはプッと笑って、視線を外した。勝った。
「アイツぁ、昔ながらの盗人だったよ。もう随分、姿を見ていないがねぇ。最近の盗み働きが、アイツの仕業とは思えねぇが……」
「あ、違う違う。私の店に来てたお爺さんが、その彦蔵さんのようだって栄さんに聞いたの。盗みとか、そういう話じゃないよ」
私の言葉に、お父さんが珍しく目を丸くして、パチクリした。いつもクールなお父さんが、こうして表情を露わにすることは珍しい。栄さんから聞いたと言ったから、仕事関係で栄さんが彦蔵さんを調査していると思っていたのだろう。
「へぇ、アイツがお前の店に? そりゃあ面白ぇや。俺の娘の店だって気づいているのかねぇ」
「とても優しいお爺さんでした。本当に、あの方が盗人なのか、信じられないくらいです」
新之助さんも、おずおずと私たちの会話に入ってきた。お爺さんが離別した息子について大切そうに話していたことを思い出す。あの頑固なお爺さんが、とても優しいかどうかは、ちょっと疑問に思うところはあるが、両親と離別した新之助さんにとって、お爺さんと通じ合うものがあったのだろう。
お父さんは少し首をかしげたあと、月へ視線を向けた。キセルを吸って、煙を吐く。私は月に上って消えてゆく煙を追って、空を見上げた。江戸の夜空は綺麗だ。現代の空と違って、たくさんの星たちの光が瞬いている。
「アイツの事ぁ、知っているようで、知らねぇな。直接話したことが、あるわけじゃねぇ。なんたって、狐隠れの彦蔵だ。顔を見る前にドロンよ」
「そうですか……。それでは、私は、私の知っているお爺さんを信じてみようと思います」
これ以上聞くつもりもない様子の新之助さんに、同意を求めるように微笑まれて、私は頷く。結局、お爺さんのことが分かったようで、余計に分からなくなったような気もするが、それでも良い。
もとから、お父さんがハッキリ答えてくれると思って聞いたわけでもないのだ。お父さんは、裏の仕事を私には話したがらない。お母さんは、知っているようだけれど。今回の話だけでも、今までからしたら、たくさん話してくれたほうだ。
お父さんは立ち上がり、私の頭をクシャリと撫ぜると、油皿の火をフッと消した。もう寝ろという合図だ。素直に寝床に入るが、月明かりが眩しいくらいあった。床下でガタリと音がした気がする。ネズミだろうか。クツクツとお父さんは笑って、小さな声で呟く。
「今日は、誰かに後をつけられた気配があった。……出てくるのは、ネズミかねぇ。それとも、キツネかねぇ」
あんまりにも衝撃的な独り言に息をのむ。今の話の流れからすると、キツネというのは狐隠れの彦蔵のお爺さんのこととしか思えない。後をつけられたということは、お爺さんはお父さんのことに気づいているのだ。一体、何をする気なのだろう。
血を見るような展開にだけは、なってほしくない。不安に思う気持ちを押し殺すように、ぎゅっと目を瞑った。我が家には、お父さんも、新之助さんも居るから大丈夫。むしろ、お爺さんのほうが危ないくらいだ。心の臓を患っているのだと言っていたのに、早まった真似だけはしないで欲しい。
そのうち、お母さんのイビキが聞こえてきた。なかなか、眠れない。最近は、心配事が多くて困ったものだ。それでも、お母さんのイビキの音とセミの音のうるさいデュエットソングを聞いているうちに、少しずつ心が落ち着いてくる。
ウトウトとしてきたころ、何かが開くような小さな物音がした気がした。しばらくして、誰かが激しく起き上がる音がする。
「曲者!」
「うわあああああ!」
新之助さんと、誰かの叫び声。二人が取っ組み合いをするような気配。驚いて起き上がって見てみると、新之助さんが誰かを床へと押さえつけていた。押さえつけられている人は、苦しげに声を漏らす。
さすがのお母さんも驚いて起きたようで、あらまぁと呟いた。最後に、ゆっくりと起き上がったのは、お父さん。大きな欠伸をして、笑った。
「来たか、狐。俺じゃなくて、若造に見つかって、悔しいかい? 随分と腕が落ちたようだねぇ」
「ははは……。最後に、ダンナの鼻を明かしてやろうと思ったんだがねぇ。やっぱり、ダメだったようだ」
お父さんが、油皿に火を付ける。するとそこに浮かび上がってきた顔は、見知った顔だった。新之助さんは、驚いたように小さな声をあげたが、それでも押さえつける手は緩めなかったようで、逃げられることはなかった。
「お爺さん……。本当に、盗賊の狐隠れの彦蔵さんだったんですね」
私がそう言うと、新之助さんに押さえつけられているお爺さんは、諦めたように笑った。




