十
結局、昨日はお爺さんを家まで送り届けた。ここまでで良い、ここまでで良い、そう説き伏せるお爺さんを無視して、辿り着いた家は閑静な住宅街にポツリと建っている小さな古びた家だった。
「昨日のお爺さん、一人身だったようですけれど、大丈夫でしょうか」
「近所の方とも、あまり交流がないようでしたし、心配ですね」
今日も相変わらず屋台についてきた新之助さんに話題を振ると、神妙な顔で同意した。ちょっと関わり合いになっただけのお爺さんを、そこまで気にする必要もないのだろうが、長屋のお節介おばちゃんパワーでも身についてきているのかもしれない。頭にふと、老人の孤独死という言葉がよぎった。まるで現代のような問題だ。
目の前を行き交う船に、老人が乗っていた。今、考えていたことがお爺さんのことだっただけに、なんとなく気になって、ぼうっと眺める。すると、老人がこちらを向いたあと、船頭に何か言ったと思ったら、船が川岸に着いた。船から降りて、老人がシャンと背筋を伸ばして歩いて来る。
「まさか、今日も会うとは思わなんだ」
「昨日のお爺さん! 大丈夫でしたか?」
私たちに気づいて降りてきてくれたのだろう。ポニーテールの女と、ひょろりと身長の高いお侍さんの組み合わせだ。目立つのかもしれない。
お爺さんは椅子に座ると、少し目を細めて私たちを見た後、私の手元を覗き込む。赤いトマトソースを見て、少しギョッとした顔をした。いつも通り、魔女のごとくイーッヒッヒと笑ってみようかと思ったが、新之助さんにそっと止められた。トマトソースで怖がらせるのは、若い人相手のほうが面白い。私も素直に頷いて、ひとまず水を出した。
「唐柿のタレですよ。気になりますか?」
「そんな珍妙な食べ物は、初めて見た。うまいのかえ?」
私の味覚と江戸人の味覚は少し違うようなので、新之助さんの顔を見上げて、視線で問いかけた。新之助さんは、しばし難しい顔で考え込む。トマトスパゲティは、そんなに悩まなければいけないような食べ物だろうか。あくまで、現代では、ポピュラーな人気料理である。
「慣れてきたら、悪くはないです」
「できれば、そこは、美味しいって言っていただきたかったです」
それでも、悪くはないという答えが貰えただけでも良いほうだろうか。新之助さんにとって、トマトスパゲティは度胸試しの食べ物なのだ。かたき討ちの覚悟を決めるために、トマトスパゲティを食べに来たほどだ。
お爺さんは相変わらず興味深そうにトマトソースを覗き込んでいるので、これを出してあげよう。私は麺を湯がき、トマトソースを熱した。辺りに、良い香りが広がる。新之助さんの顔は険しくなる。
湯がき終った麺にトマトソースをかけて、お爺さんの前に出した。お爺さんの顔も険しくなる。
「勇敢なるお侍さん達が、度胸試しに食べていかれます」
「ワシは、そんな度胸試しをしたいわけじゃあないんだが……」
少し麺と見つめ合ったあと、お爺さんは意を決したように、箸でズルズルと麺をすする。私よりも新之助さんのほうが、お爺さんの反応が気になるようで、ドギマギした様子でお爺さんを見ている。
意外と悪くなかったようで、お爺さんは、ふむ、と言って、さらに麺をすすった。
「変わった味だ。この歳になって、こんな珍妙なものを食べるとは思わなんだ。長生きするものだなぁ」
「良かったですね、お奈津さん!」
新之助さんは、ほっとした表情だ。よっぽどトマトスパゲティが不安だったらしい。もしも、新之助さんが私のように、現代に転生したとしたら、中々適応出来なくて苦労しそうだ。
食は人生の楽しみだ。口に合わない料理ばかりを食べていたら、それだけでストレスで頭が月代のようにハゲてしまいそうだ。私はその点、食が美味しい江戸時代に転生して良かったと思っている。欲を言えば、たまには現代料理も食べたかったので、作ってしまったのだ。
その時、鼻に異臭が漂ってくる。店へ向かって歩いて来る男がいた。背が低めの、髷が横にズレていて、着物は尻端折りをしている。とても小汚い。異臭と小汚さで一発で分かる。御用聞きの栄さんだ。
「おや、珍しい。唐柿蕎麦を食ってるお客さんがいらぁ」
「それじゃあ、客が他に来たようだし、ワシはここで失礼するよ」
栄さんと入れ替わりに、お爺さんは代金を置いて、さっさと店を立ち去って行った。栄さんは椅子にさっさと座り、物珍しそうに、遠く小さくなっていくお爺さんを見つめている。
「栄さんが臭すぎるから、お客さんが、逃げて行っちゃったじゃないの」
「俺のせいにするんじゃねぇやい」
どう考えても、栄さんから逃げたのだと思う。グーッと聞こえてきた腹の音に、苦笑いしてから、ぶっかけそうめんを出してやる。ついでに、大盛りのご飯も出してあげた。絶対そうめんだけじゃあ足りないだろう。
考えは当たっていたようで、ガツガツとすごい勢いで食べ始めた。今日も忙しくて、ご飯も食べていなかったのだろう。仕事熱心なのは良いことだが、お風呂にくらい入ってほしいものだ。
あっという間に料理が消え去っていって、満足げに水を飲んだあと、栄さんは首をかしげた。
「さっきの爺さん、どっかで見た事あるんだよなぁ」
「そうなの? まさか、栄さんの仕事がらみ?」
「うーん、どうだったかなぁ……」
栄さんは、しきりに首をかしげていたが、ついに答えは出てこなかったらしく、仕事へ向かって行った。




