11(後編)
左手に握り締めていたミリアの紫珠が、震えた。
眠りが浅くなり、うとうとしはじめていたミリアは紫珠の呼びかけに応えようとしたが、体に力が入らなかった。
昨日、寝てないものね……ミリアは、納得した。
「まだ寝ているのか」
ブラインドの下がったままの薄暗い部屋に、カクレイの声が響いた。
しまった。
紫珠が鳴るということは、カクレイが来る合図だということだった。自分で渡しておいて、忘れてしまうとは。カクレイはカウンセリングルームのスペアキーを持っている。こんなだらしない姿を見せてしまったなんて、またしても失態。乱れていたスカートの裾を、急いで引っ張り下げた。
「す、スミマセン。起きます。あの、こんな格好で」
「いい。お茶、淹れるから。昼、まだだろ。買ってきた」
カクレイは細かいことまでよく気がつく。ミリアは寝起きのぼさぼさ頭を下げた。
「……リョウランも、昼を食べに出かけたぜ」
「そうですか。って、ええ? 出かけた? だいじょうぶなのかな」
「ロアンが一緒だし、心配ないだろ。あいつの看病、ありがとな」
淹れたてのお茶を、カクレイはミリアの前に置いた。ふわふわゆらゆら、部屋の中に湯気が遊んでいるように広がった。向かい側のソファが空いているにもかかわらず、カクレイはミリアの隣に座った。
「たいしたことはしていません。それに、カクレイのこと、放って帰っちゃったし。いろいろ謝らなくちゃいけないのは、私のほうです」
「お互いさまだ。俺はリョウランにミリアを渡したくないがために、汚ねえ手を使ったんだ。あの夜、リョウランはお前になにもしちゃいないと、断言した。ロアンも聞いた。俺には嘘をつくかもしれねえが、リョウランのやつ、ロアンには弱いからな」
「そ、そうですか」
ミリアは全身全霊で安堵した。よかった。ようやくお茶に手を伸ばす。
「……お前に、カウンセリングして欲しいやつがいるんだが、いいか?」
「は、はい。どなたですか」
「俺だ」
カクレイは、紫珠をミリアの手のひらにそっと乗せて返した。ミリアは腕を引いたが、繋がった手は、離れない。
「大勢の部下のひとりなのに、冷静に見られないやつがいる。そいつは男の中でただひとり、がんばっている健気な女なんだ。もっとやさしくしたいのに、突き放してしまう。そいつを狙っている男がわんさかといるのに、告白もできない。こんなこと、考えている暇はないのに。乱れた王軍を早く立て直すべきときなのに」
自分のことを正直に話してくれている。カクレイは、ミリアに気持ちをぶつけていた。
「リョウランはこれからも、ミリアに求婚し続けるつもりらしいぜ。どうするんだ」
「どうするって。どうしようもありません。断ります」
「あいつのことだ、断れないような状況に追い込んでくるかもしれないぞ」
「それでも、結婚できないものはできません。断り続けます。どうしようもなくなったら、カクレイが助けてください」
「わかった。今は……ごちゃごちゃした時代だから、副隊長の俺が、しかも隊長よりも先に身を固めたりできる場合じゃねえが、しばらく落ち着くまで、少し……隊に手を貸して、待っていてくれるか。危険な仕事だから、いつどうなるか分からないが、ついてきてくれるか」
カクレイのせいいっぱいの告白。ミリアはカクレイの胸の中に飛び込んだ。
「私、がんばります。副隊長のお力になれるよう、努力します」
「そのときが来るまで、基本的には上司と部下。休暇を一緒にしたり、互いの部屋に遊びに行くのも禁止にしよう。秘密の仲に俺は耐えるが、ミリアは」
「我慢します。できます。でも、たまには外でデートしてくださいね」
「ああ。隊務に余裕があるときなら」
「あのレストラン、また行きたいです。お食事おいしかったし、でもデザートは食べ損ねたので悔いが残っています」
「分かった。また今度な」
ふたりの唇が惹かれ合っている。だんだん距離がつまってきた、そのとき。あとほんの少しで触れそうになったそのとき。ミリアは突然思い出した。
「ちょっと待った! マリヤってなんですか。マリヤさんっていったい誰のことですか」
「……まだそれをこの状況下で聞くのか、潔癖症め」
「だって気になります。潔癖って、カクレイ。人のこと、言えますか」
「男にはいろいろあんだよ。ロアンにも、いろいろあるぜ」
「ロアンはロアンです。今はカクレイのお話を聞いています」
「……俺の、マリヤっていうのは、だな」
ぐるるる~。
場違いなミリアのおなかが鳴った。
「えっ、やだ、私ったら」
こんなかんじんなときに、雰囲気ぶち壊しなおなかの音よ。
「朝、食べてねえのか」
「はあ、お菓子はちょっとつまみましたけど、食事は昨晩のごちそうが最後で。スミマセン」
カクレイは弁当の蓋を開けた。ミリアの答えも待たずに、食べはじめる。
「また菓子か。きちんと食べないと、動けないぜ。甘いものは、食後のデザートにしよう。そろそろ残りの休憩時間も短くなってきた。俺、午後は外出なんだ。さっさと食うぜ」
「は、はい」
はぐらかされているような気もしないではないが、おなかが空いてしまったからミリアも食べる。
甘いものって、なんだろう。
カクレイがくれる甘いものに期待しながら、ミリアは食事を進めた。
……やっぱり、キスしてくれるのかなぁ。カクレイの、きちんと潤っている唇ばかり、目で追ってしまう。でもカクレイ、けじめにうるさいから、屯営ではみだりにしなさそう。さっきの甘い雰囲気が、例外だったのかも。私、めったにないチャンスを自分で潰したんだ。ミリアはがっくり落ち込んだ。
「どうした?」
とっくに食べ終えて、お茶を飲んでいるカクレイは今にも部屋を出て行きそうな気配だった。
「そろそろ行くぜ」
「えっ」
立ち上がったカクレイに、ミリアもつられた。
「どうした」
「あ……甘い、ものは」
「ああ。これ、さっきオルフェにもらったんだ、ほら」
カクレイは隊服の外ポケットから、板チョコレートを二枚、ミリアに差し出した。
「ほどほどにな。食べ過ぎると太るから。じゃあな、俺がいなくても、午後がんばれよ」
「はいっ」
うまくはぐらかされた、ような気がしたが、ミリアは嬉しかった。チョコレートを握り締める。
「おっと、溶けちゃう溶けちゃう」
カウンセリングルームを出たカクレイは、深くため息をついた。どっと疲れている。仕事場で、部下にキスしそうになったなんて、誰にも知られてはならない。せめて、屯営の私室で。いやいや、王の政権が安定するまで、ミリアに溺れてはだめだと理解している。調査や策略上での関係ならば割り切れるが、もう止められない。本気だ。全部が欲しくなる。
カクレイは自分の頬を二度、びしびし叩いていつもの冷静な副隊長の顔を作り、外出の荷物をまとめるため、机に戻った。




