やまねこ
本編とはパラレルな繋がりだと思って頂ければ。
それと、既に彼女の結末は決まっていますので、当然バッドエンドです。
不吉。
最初に彼を見た時の印象はただただそのひと言に尽きた。
何か思い入れでもあるのか、首から下げられた鍵束が奇妙に映る。
合うサイズの鎧が無かったのだろう。
どこかの戦場で拾ってきたかのような、半ば壊れかけた鎧を無理矢理に縛り付けて着ている。
目に付くのは錆びなのか、それとも元の持ち主の血なのか判然としない赤。
ぼろぼろのマントで体の線を隠そうとしていても、その体つきから、まだ少年と言って良い年齢なのが分かる。
それでもその顔に浮かんでいる表情は、とても子供が浮かべるそれではなかった。
何が気に入らないのか、眉間には力が込められ、周囲の大人を見る視線は常に険しい。
それが年齢相応の大人に対する背伸びや反抗心によるものとは、私にはどうしても思えなかった。
まるで骸骨のように、くぼんだ目と相まって、私にはまるで死神の落とし子か何かのようにしか見えない。
「お前が面倒を見ろ」
「私がですか?」
天幕の端に立たされたままの少年をちらりと見、精一杯の抵抗の意を居並ぶ男たちの中でただひとり座る男に示す。
野営する天幕の中ですら鎧を脱がずに座る男の姿は、硬い岩石を思わせる。
傭兵団の長である彼の言葉は絶対だ。
この傭兵団で、私のような女の身ではなおさら。
「手が足りないってぼやいていただろ。勝手な真似はさせるな。それで十分だ」
その言葉に隠されている意味が分かる程度には、この傭兵団に長く属している。
連れ歩ければそれで十分。
いざという時に囮として、あるいは損耗率の高い偵察として使えれば上等。
団長はそういう消耗品として使って良いと言っているのだ。
「分かりました。失礼します。ほら、おいで」
礼をし、天幕から少年と連れ立って外へと出た。
広がっているのはいくつもの天幕と揺れる炎。
その先に見えるのは瞬く星空と、今は暗闇に沈む平原。
街からは遠い。
次なる戦場を求めてこの平原を移動している最中に、この少年を誰かが発見し拾った。
ただのひとりで歩いていた少年は、誰何した傭兵に対し、ただひと言、雇ってくれとだけ言ったという。
行き場の無い子供というのは珍しくない。
それこそどこの街にだっている。
それが、街ではなく何故こんな街から離れた平原を歩いていたのか、何度問い掛けても少年は答えなかったという。
街から離れれば魔物が出る。
離れれば離れる程に、人の世界から魔物の世界へと近づく。
そんな場所をひとりで歩いていたのだから、戦う力はそこそこにあるのだろう。
そう思い、団員の誰かが彼を試した。
剣を抜いたにも関わらず、挑発するように腕を広げたまま掛かって来いといった舐めきった態度の誰かに、まるでゴブリンのような俊敏さで肉薄した彼はあっという間に手にした片手剣、そうは言っても彼の身長からすれば決して小さくないそれをその団員の鎧の隙間に向けて突き付けていたという。
「名前は?」
とりあえずは寝る場所を与えるべく、適当に余裕のある天幕を探して歩きながら尋ねた。
「ない」
「そう。私とおんなじね」
私の呟きに、一瞬だけ少年の眉間にこもっていた力が緩んだ気がした。
揺れる炎の明かりの加減でそう見えただけかもしれない。
横目で見ていたので、はっきりとは分からなかったそれを確かめようと首を向けた時には元の険しい表情が浮かんでいた。
気のせいか。
わずかに苦笑し、続けた。
「私も名前は無いの。気が付いたらこの傭兵団で下働きしてた」
特に返事を期待せずに歩く。
そして思い出していた。
私の過去を。
奴隷として売られたのか、それともどこかの戦場となった街で拾われたのか。
そういう子供は多かった。
属する子供たちの出自は様々という事を知ったのは、戦力としてやっとこの集団に慣れた頃。
私にとっては生きる事そのものが戦いだった。
飯炊きや洗濯の合間に体を動かし戦う術を覚える。
怪我や病気、思うように伸びない技量。
そうして脱落していく子供は少なくない。
そうなってしまえば、街の中だろうが外だろうが置いていかれるだけだ。
捨てられる恐怖。
ただそれだけから逃れるためだけに必死に鍛えた。
女であれば別の生き方もある。
この体を男たちに捧げれば良かった。
しかし、それは一時しのぎにしかならない事は子供の頃から知っていた。
戦場から戦場へと流れていく傭兵団にとって、身重の女なんて邪魔でしかない。
私はそうなりたくは無かった。
絶対に。
「本当の名前は知らないけれど、今はみんなからリンクス(やまねこ)って呼ばれているの」
幸いな事に、私には弓の才能があったらしい。
それに木登りの才能も。
どんな木でも、それこそ壁でも登るのが特技だった。
そうやって自分には価値があると示し、今では少ないながらも部下を束ねられる立場になった。
圧倒的に男の多いこの傭兵団では決して大きな発言権は無い。
それでも、自らの力を頼みに生きられる事、それが私の誇りだ。
「呼び名がないのは不便だから、君にも何か考えないとね」
不吉、そう呼ぶのが何よりも相応しかったのだけれども、それは彼に失礼だろう。
少年は何が不満なのか、ふんと軽く鼻を鳴らしただけだった。
◇
少年は驚く程に使えた。
私が束ねる隊の主な任務は斥候だ。
特に偵察を主としている。
敵に接近しなければならない性質上、不意に、そして不用意に敵とぶつかってしまう事もある。
そんな時でも少年は冷静に動き、そして遠慮躊躇なく敵を殺した。
子供なのにあまりにも人を殺しなれている。
戦いに熱くならず、逃げるべき時にあっさりと身を引く。
どういう生き方をすれば、子供のうちからこんな風に戦えるのか。
私はそれを不気味に思い、そんな私以上に他の部下がそんな彼を嫌った。
そう、他にも不気味な事が彼といると起こるのだ。
例えば進む先にゴブリンの死体の山があったり、例えば明らかな血の跡と散らばった荷物が落ちていてそれでいて人影も死体もない不可思議な状況に出くわしたり。
それは一度や二度ではない。
一緒に居たはずが、いつの間にか姿が消えていて、戻ってくると鎧に真新しい赤が着いていたりすることもあった。
そして彼は多くを語らない。
ただじっと厳しい目で周りの大人たちを見つめていた。
いつも。
いつでも。
「またひとり?」
設営の合間、少年の姿が見当たらずに探すと、彼は設営をさぼって木の影でぼんやりと遠くを見ていた。
次なる戦場を求めて傭兵団は移動を繰り返す。
今や世界中のすべてが戦争をしていた。
そこに人がいれば争っている。
そんな世界で、傭兵稼業は引く手数多だ。
ひとつの勝敗が決まれば、また次へ。
次に行く間に、争わなくてはならないのは人同士だけではない。
移動が長距離になれば、魔物の世界に近づくこともある。
極力、魔物との遭遇を避けて進もうと思えば、自然、見晴らしの良い地形を選んで野営しなければならない。
今日の野営地はまばらに木の生える丘の上。
少年が座っている位置からは、丘の下に見渡す限りの自然が広がっていた。
遠くには鬱蒼とした森があり、その先には頂に雪を残した険しい山。
森から離れた平原には鹿だろうか、何やら群れで移動する動物の姿も見えた。
そんな景色を眺めて気が緩んだのか、少年にはいつもの不機嫌さが幾分かは和らいでいる気がする。
孤立しがちな彼を気にかけるようになり、そうしている内に多少は表情の変化と、本当に微妙な機嫌の差が分かるようになった。
……ような気がしているだけかもしれないけれど。
それは本当に微妙で、自分自身にそのはずだと言い聞かせなければ分からないような些細な変化だ。
今日はどうやら機嫌は悪くはないらしい。
声をかけた私に興味無さげに目を向け、そのまま遠くへと戻した。
彼の手には鍵束。
それを手慰みに弄んでいた。
「さぼるな。と言いたいところだけど、まあ君ひとりじゃ出来る事なんてたかがしれてるしね」
孤立しがちな彼ひとりを無理矢理に集団に馴染ませようとしても、余計に反発を招くだけだ。
団長も彼の事はそれなりに気に入っているようで、現状のまま上手く使えとだけ言われている。
「それじゃあちょっと狩りにでも出ようか」
無視されるかも。
ちらりとそう思ったものの、上官である私の命令に、少年はいかにも面倒くさそうに腰を上げ、おしりを叩いて立ち上がった。
声はなかった。
それでも確かにその時、しょうがないなぁ、という彼の心の声が聞こえた気がした。
いつもは不気味な彼が、その時だけは年齢相応な子供のように見えておかしくなる。
私にもしも弟がいたらこんな感じだったのかもしれない。
そんな埒もない想像に笑ってしまう。
少年は、笑う私を見て、眉間の皺を深くして睨んだ後、また仕方無いとでも言うように、長く息を吐いた。
そんな彼の姿を見て、私はなんだか嬉しくなった。
◇
そつなくなんでもこなすようなイメージのある彼だったけれども、馬に乗ることは苦手なようだ。
それに弓もあまり扱ったことがないらしい。
今までにも暇を見ては教えるようにしていたけれども、やはり彼の馬の技術は上達していない。
と言うよりも、彼を乗せると馬が怯えるのだ。
どんなに訓練された馬でも、どんなに戦場を駆け抜けた歴戦の馬でも。
今も彼を載せた馬は、時折、足を止め、そして背中に乗る彼をなんとか振り落とそうと試みる。
狩りに誘ったのは良いものの、獲物に辿り着くまでに日が暮れてしまいそうだ。
「仕方ないか。ちょっと、私ひとりで先に行くから、着いてこれそうなら着いてきて。無理なら戻ってて構わないから」
言い残して、馬を走らせる。
ちらりと振り返ると、彼を乗せた馬がいななき、後ろ足で立ち上がるところだった。
それでも、落馬せずにしがみついているあたりが彼らしく、無茶苦茶だ。
走る。
先ほど見かけた鹿に追いつければ良いのだが。
そう思って走らせた馬の先には一向に鹿の姿は現れなかった。
代わりにはるか遠くに思えた森が近づいてくる。
鬱蒼とした森は、日が傾き、さらなる闇を抱えはじめていた。
見ただけで分かる。
あの森は人を拒んでいる。
あそこは魔物の世界だ。
入ればなにかしらの魔物に襲われかねない。
ましてや今は私ひとりだ。
不用意に近づくべきではない。
そう思った先に、3頭の鹿の姿が見えた。
馬を止めるか、進めるか迷う。
鹿もこちらに気づいたようだ。
向こうが風下だったのか。
それとも馬の走る振動が伝わったのか。
こちらが気づいたのとほぼ同時に、3頭がすべてこちらに頭を向けていた。
そして、走りだす。
森の中へと。
「ちっ」
確かに平原で馬と追いかけっこするよりは、森の中に逃げ込んだ方が逃げやすいだろう。
たとえ、森の中に何かがいたとしても、とりあえずの危機からは逃げられる。
追うか、引くか。
速度を緩めるタイミングを逸したまま馬は鹿を追って走る。
走りながらまだ迷っていた。
まばらな木が重なり合う。
影はやがて闇になる。
鹿との距離は思うようには縮まっていない。
それは矢を射るには遠い距離。
「限界か」
完全に森の中へと入ってしまう前に、私は馬の足を止めた。
鹿はそのまま森の中へとどんどん進んでいった。
そして闇へと消えていく。
立ち止まり、周囲を見渡した。
鹿の姿はもうない。
そして他の生物の姿もない。
周囲に私と馬の他に、生物の気配は感じられなかった。
それが魔物の気配として私には感じられた。
「帰ろう」
まだ日暮れには時間がある。
それでも、この雰囲気は良くなかった。
元来た方へと戻ろうと、馬の首を回す途中で、何か異様なモノを見た気がした。
最初は視線を素通りさせた。
そういうモノもあるだろう。
そう思うくらいには、これまでにも何度か見たことのあるモノだった。
死体。
もっと端的に言ってしまえば骸骨だ。
街を離れれば、移動中にそれを見ることは決して少なくない。
魔物に襲われ、そして捨て置かれればやがてはそうなる。
それが自然の摂理だ。
そう、そんな骸骨が確かに視線の中にあった。
気にする必要はない。
そう思って素通りさせた。
そして、その視線を私はすぐに戻した。
その異様さ故に。
骸骨になってしまえば、それは地に落ちる。
それこそ槍か何かで木に縫いとめられでもしない限り。
骸骨には何もささっていなかった。
なのに、その頭の位置が高かった。
馬に乗る私の目から見ても、異様な高さだ。
なにしろそれは立っているとしか思えない高さにあったからだ。
骸骨が立っていた。
鎧に身を包み、髑髏を晒して、木に寄りかかるでもなく、木に吊るされるでもなく。
走り去った鹿を見ていたのか、その髑髏は向こうを見ていた。
思わず振り返った私の視線に気がついたのか、髑髏は振り返る。
まるでそうするのが当然のような自然な振る舞いで。
血も、肉もない体で骸骨は振り返り、そして私を見た。
眼球の無い、その眼窩で。
その眼窩は真っ黒な闇で染まっていた。
◇
すぐに馬を走らせる。
知れず、ごくりと喉が鳴る。
なんなのだ?あれは?
動く死体?
それとも私が知らないだけで、ああいう魔物がいるのだろうか?
馬を走らせ、全力で逃げる私を骸骨は追ってはこなかった。
いくら魔物でも、4本足で駆ける馬に追いつけるのは同じ4本足の魔物だけだろう。
ちらりと振り返った先に見えたのは、闇に溶けるように、ただじっと立ち尽くす骸骨の姿だった。
そう時を置かずに森を出る。
するとそこに少年がいた。
相変わらず、進んでは止まりを繰り返している。
やがて私の姿を認めて、完全に止まった。
「追ってきてたのね。でも、すぐに戻るわよ。あの森は危ない」
見つけたのはただの1体。
しかし、闇の中にどれほどの骸骨が佇んでいるのか。
それを想像して、震えが起こった。
夜になれば、あの森から這い出してくるのではないか?
普通の魔物であれば、血を流せば力は弱まる。
肉を斬られれば動きは鈍る。
あれには肉が無い。
血も無い。
そんな相手が大挙して押し寄せる。
それはどれほどの消耗戦になるのだろうか?
少年を促し、野営地へと急ぐ。
分かっているのか、いないのか。
少年の進みは相変わらずで、時折止まりながらも何とか日が暮れる前に戻る事ができた。
すぐに団長に伝えるべく、訪れた天幕で私は大笑いの渦に包まれる。
「はっはっは!動く骸骨を見た?お前、前の戦場で頭でも打たれたんじゃないのか?」
「死体が動く訳ないじゃねぇか!」
「俺は今まで数えきれないほど殺してきたが、殺した相手が動き出したことなんてなかったぜ!」
妄想。
見間違い。
ただの幻想。
誰ひとりとして、まともには取り合わない。
これだから女っていうのは。
そういう言葉が聞こえた気がしたのは、私の思い過ごしだと思いたかった。
そんな中で、ただひとり団長だけが口の端、目の端にすら笑いを浮かべずに私を見ていた。
やがて団長が手を挙げると、笑いは収まる。
「スケルトンという魔物がいる。魔法によってのみ生まれる魔物だ。死体を元に、魔力によって動く。確かにそういう魔物はいるらしい」
団長の言葉に周囲の男たちが顔を見合わせた。
誰ひとりとしてそんな魔物は見た事がなかった。
当然、私も。
聞いた事すら無い。
幾人かの男が、普段は決して向ける事のない疑わしげな視線を団長へと向ける。
団長はその視線を咎めなかった。
「ふん。俺も昔話ていどに聞いただけだけどな。お前の見間違えだろう。だが、俺は薮をつつくつもりはない。油断する気もな。今夜は見張りを増やせ。特に森の方には気を配れ。だが、森には決して誰も近づかせるな。良いな」
団長のその言葉に、何人かが私をちらりと睨むように見た。
余計な仕事を増やしやがって。
そんなところだろう。
不服なのはこちらだって同じだ。
私の目は決して悪くない。
むしろ、この集団の中ではトップクラスのはずだ。
その私が見間違えるはずがない。
断じて妄想などでもない。
それなのに、その程度の対応とは。
私の言を笑い飛ばさなかったとはいえ、団長にはもう少し、信頼されていると思っていた。
にわかに湧いた怒りに、退出の言葉すら言わず、ただ頭を下げただけで天幕から出る。
そこには私のことを待っていたのか、少年が入り口に立っていた見張り達を睨みつけるようにしてそこにいた。
「別に待っていなくても良かったのに。ほら、行くよ」
天幕の間を歩くと、いつもは決して自分からは話し出さない少年がぽつりと前を向いたまま言葉を漏らした。
「骸骨」
「ぇ?……あぁ、そうね。確かにいたわ。私の見間違えなんかじゃない」
一瞬、少年も私を疑っているのかと思い、その表情を見る。
そこにあるのはいつもどおりの子供には似合わない、まるで世の中の苦悩すべてを知っているかのような険しい目だ。
私の言葉を聞いているのか、いないのか。
何か言いたい事がある訳ではなかったらしい。
ぽつりとこぼした骸骨という言葉を最後に、特に何も言いはしなかった。
ただ、険しい目で彼方の闇を見据えていた。
その夜は、いつもよりも一段引き上げられた警戒態勢になった。
いつもなら一度で済む夜の監視、それに私自身も3度当たった。
あの森にはかつて人であり、そして既に人ならざる者がいる。
そう思えば寝てなどいられなかった。
一度見張り、二度見張り、そして三度見張る頃には夜が明ける。
結局、何も起こらないままだった。
三度目の見張りを終えても休む気になれず、即席の見張り場を見て回る。
そうして回った先に、たったひとりの見張りがいた。
通常は最低でもふたりで行わなければならないそれをたったひとりで行っていたのは、彼だった。
「もうひとりは?」
私の言葉に少年は、声を出さずに首を振って答える。
その意味はいない、という事だろう。
知った事か、と言っているようにも思えた。
私自身も全く休めず、疲れ果てていたのでそれを咎める気にもなれなかった。
「そう。結局はなにも無かったわね」
既に空はしらみ始めている。
間もなく日が昇るだろう。
ただじっと、その様を眺める。
少年も何も言わずにじっと見ていた。
笑わない少年。
相変わらず、くぼんだままの目は険しい。
十分に食べ、そして今日はともかく、ある程度眠りも確保されているはずなのに、彼の姿は出会った時のままだ。
何も変わらない。
それは私もだろうか?
視線を彼方から、立ち並ぶ天幕の方へと向けて話しかける。
「私は変われるのかな?」
少年は彼方を見たままだ。
気にせず続ける。
ひとりごとを言うように。
「たまに想像するんだ。この集団を抜けて、普通の暮らしをする事を。朝起きて、パンを焼いて、畑に手を入れ、たまに鹿や鳥を狩りに行く。誰も殺さないし、誰にも殺されない。そんな暮らしがあるんじゃないかって」
手の平を見た。
そこにあるのはごつごつとした手だ。
土埃に汚れてはいるものの、赤く染まっていたりはしない。
血に濡れてなんてない。
両手で顔をぬぐう。
目をつぶった。
べったりと手に、顔に血がへばりついている気がした。
目をつぶれば、いつもそんな気がして目を開く。
「……げ出したい」
決して、口にしてはいけない言葉を言ってしまった気がした。
こぼれた言葉を自分の耳で聞いて、目が覚めた。
疲れていたのだろう。
それでも、絶対に言ってはいけない言葉だ。
絶対に聞かれてはいけない言葉だ。
思わず走らせた視線に、少年の顔が飛び込んでくる。
いつの間にか少年は彼方ではなく、私を見ていた。
その目はいつものように険しいそれではなく、何かをあわれむような、ひどく悲しい目をしていた。
「お願い。今の言葉は聞かなかった事にして」
それは許されない言葉だ。
周囲には幸いな事に、少年以外は誰もいない。
いつもは最低限の言葉すら口にしない少年が口を開いた。
「分かった。何も聞かなかった」
そう言うと、彼はまた彼方へと視線を戻す。
その先では、茜色の日が顔を出していた。
◇
いくつかの街を経由して、私たちはひとつの砦に辿り着いた。
堅固な守りで有名な砦だった。
今まで、何度となく戦いの場になりながらも、未だ落ちた事の無い純潔の砦。
その砦に攻め入るためではない。
ただの傭兵団のひとつで落とせるような簡単な砦ではないのだ。
砦を要するその国は、近頃連戦が続き、兵力が大幅に減っているという。
その減った兵力を補うために、私たちは雇われたのだ。
傭兵団の中には、金次第で簡単に裏切る者たちもいる。
そんな中で、私たちは絶対に裏切らない傭兵団として高い評価を得ていた。
そんな私たちだからこそ、雇われたのだろう。
傭兵団というのは基本的には鼻つまみ者だ。
自分たちで何とか出来るのなら、余所者なんて入れたくない。
特にいつ裏切るのか分からない、金で雇われる者たちなんて。
そうはいっても、これだけそこかしこで戦争をしていれば、兵力は足りなくなる。
足りなくなれば補わなくてはならない。
結局は持ちつ持たれつ、その原則で成り立っている関係でしかない。
そう思っていたからこそ、砦に入った時に受けた歓待は驚きでしかなかった。
豪勢に食事と酒が振る舞われた。
砦の将官たちと、こちらの主要な隊を束ねる者たちとが談笑している。
まるでどこかの国の客将であるかのような扱いに、誰もが最初はとまどったが、誰もがそれをすぐに受け入れた。
血で血を洗う戦場で信義を守る、まるで昔話の騎士団だ。
鍛え上げられた兵たちは皆、精兵。
絶望的な状況でも逃げ出さない勇猛なる戦士たち。
そう褒めそやされては悪い気などしない。
皆が浮かれ、そして私も浮かれていた。
そう、今までに無い歓待に、その扱いに、私たちは浮かれていたのだ。
「遊撃、ですか?」
隣国の進軍。
砦でその報を受け、私は参加する事はできなかったが将官たちと、団長とその腹心で作戦会議が開かれた。
その結果として取られた作戦は、砦の外へ出て行き、伏せ、砦に取り付いた兵たちを砦と私たちとで挟撃するという作戦だった。
「そうだ。俺たちの強みは防衛戦じゃない。俺たちの機動力は野戦でこそ発揮される」
てっきり、砦の中のどこかに割り当てられるかと思っていただけに、拍子抜けだった。
確かに、攻められるのは性に合わない。
常に攻勢であること。
そうして掴んできた勝利の数々。
誰もがそれを思ったのだろう。
誰からも異論は出なかった。
すんなりと決は取られ、そのための行動へと移る。
私も私の隊を束ね、砦の外へと向かった。
砦近くの丘の向こう側。
そこを目指して馬を走らせる。
共に走る隊員の中で、少年も遅れずに着いてきた。
多少なりともまともに乗れるようにはなったらしい。
相変わらずの険しい目。
不吉に思えるその目も、戦いを前にすれば頼もしい。
隊員たちもそう思ったのか。
いつもは遠巻きにする少年にそれとなく声をかける者は少なくない。
誰もがいつもの戦いとは違うと感じていた。
金を積んだ相手としてではなく、仲間としての期待をされている。
その期待に応える。
もし、この戦いで功を上げれば、将官としてあの砦で取り立てられる事だって夢ではないかもしれない。
私も、私の出来る最良の行動を取る。
戦場を求めてさすらう生活は厳しい。
常に、人と魔物、その両方を警戒しなければならない。
そんな生活から抜け出せるだけでも夢のようではないか。
やがて丘へと辿り着き、その向こう側へと超え、私たちは時を待った。
◇
戦いは最初、砦の兵たちと、私たちの思惑通りに進んだ。
砦に取り付いた敵兵たち、彼らが戦いを始め、その熱が十分に高まったところで背後から私たちが攻め寄せる。
突如として冷水を浴びせかけられた彼らは多いに混乱し、その数を減らした。
そこで、ひとつ目の思惑になかった事が生じた。
本来であれば、その時点で砦からも兵を出し、一気に叩いて戦闘を終了させるはずだった。
しかし、砦は閉じたままで増援は無い。
堅固な壁の上からの支援は継続されていたので、団長は攻撃を継続する事を選んだ。
一気に終了するはずだった戦闘が長引く。
敵も混乱したままで、すりつぶされる無能ではない。
体勢を整え直し、こちら側へと突破を仕掛けてきた。
当然の選択だろう。
ただでさえ堅固さで有名な砦なのだ。
そうそうすぐには落とせない。
挟撃された状況ならば尚更だ。
撤退。
それを敵が望むのならば、今日の地獄はここまでだろう。
傭兵団の誰もがそう思った。
団長もそのための指示を出すつもりだったはずだ。
地獄は終わらなかった。
そこからが地獄のはじまりだった。
砦の上から矢が降る。
岩が降る。
それは敵味方の別もなく。
情け容赦なく、私たちにも降り掛かる。
それは死という名前でもって降り注いだ。
更なる混乱が戦場を沸騰させた。
嘆きが、悲鳴が響き渡る。
傭兵団と敵兵とが混じり合った戦場はただの処刑場と化した。
何故だ。
俺たちはまだここにいるぞ。
何故だ。
死にたくない。
何故だ。
「裏切ったのか!?」
そう叫んだ私の上に、無数の矢が降り注いだ。
終わる。
確信。
逃げられない。
それだけを思った私の目の端に、あの不吉なくぼんだ目の輝きが写った気がした。
衝撃。
それは熱く。
そして冷たい。
後にはただの闇。
◇
目を開いた気がしたけれども、視界は闇に閉ざされたままだった。
「……ぅ」
息が漏れた。
からからに喉が渇いている。
しかし、水を飲みたい気持ちにはなれなかった。
寒かった。
どんなに冷えた夜でも、これほどまでに寒いと思った事は無い。
それは冷えるというよりも、自分自身の体温がどこか彼方へと抜け落ちていっているようだった。
何かが額に触れた気がした。
温かく、生気のある手だった。
誰の手とも知れなかったけれども、それは不快ではなかった。
「……れ?」
問いは言葉にはならなかった。
単純な疑問だけが口から漏れた。
答えは降ってこなかった。
ただ、ぬくもりだけが額に残ったままだ。
なんとか見ようと目に力を込める。
暗い視界にぼんやりとした光が残る。
なんであろうか?
必死に見つめて、それがやがて月であると知れた。
そしてその脇に、人の顔があった。
くぼんだ目。
不吉な目。
まるで髑髏のような。
知っている誰かのような気がした。
でも、それもどうでも良くなる。
寒かった。
「さ……ぃ」
助けを求めるように手に力を込める。
右手がかすかに上げられた気がした。
助けて。
寒いの。
思いは言葉にならない。
寒い。
誰か。
震えるばかりの口は言葉をつむがない。
寒い。
寒かった。
助けを求めるように、右手に力を込める。
込めれば込める程に、体温が抜け落ちていく。
それでも右手に力を込めた。
果たして、その思いは伝わったのか。
右手を誰かは掴んだ。
伝わった。
良かった。
自分が何のために右手を動かしていたのか分からなくなる。
感覚は遠く、ただ眠かった。
「……ぅ」
ひとりじゃない。
ここには誰かがいる。
その事に精一杯の感謝を。
そう思ったその時、額に置かれた手が赤く輝いた。
赤に。
朱に。
茜に。
それはとても温かくて、とても綺麗で。
こんなにも温かい光があるのかと、誰かのくぼんだその目を見た。
その目は何かを諦めたかのように穏やかで。
ただただ私を見ていた。
ありがとう。
本当にありがとう。
言葉になったかどうかは分からない。
ただただその思いを胸に、私は眠りについた。
◇◇◇
最初に気が付いたのは城壁の上の見張り兵たちだった。
城壁を登るその影に気付いた兵は馬鹿にした。
何しろたったのひとつの影だったのだ。
登り切ったところで何が出来る。
見張りの兵たちはさかんにはやしたてた。
早く登ってこいと。
どうせ登り切る事などできないだろう。
なにしろ垂直に切り立った城壁は高い。
どうせその内、力つきて落ちるに決まっている。
しかし、影は登り続けた。
それも驚異的な早さで。
するすると、ハシゴでも登るかのような気軽さに見えた。
それでも、ただのひとつの影なのだ。登り切ったところで突き落とすなり、取り囲んでいたぶって捕らえても良い。
影の背中ではためいていたぼろぼろのマントが膨らむ。
そして弾けた。
影はひとつ。
しかし、ひとりではなかった。
◇
砦の中に突如として、死神が使わしたとしか思えない部隊が現れた。
ひとりが死ぬと、敵がひとり増えた。
まるで感染するように、死が死を呼び、死は敵となって襲いかかる。
現れたのは砦の中だけでは無かった。
城門の前に現れたのは無数の骸骨の群れ。
全員が武装し、何体かはどこから切り出してきたのか、いくつもの丸太をまとめた即席の攻城兵器まで持っていた。
混乱は最高潮に達し、突如として現れた死の部隊に、砦の兵たちは夜の間に皆殺しにされた。
純潔と称された、一度も落ちた事の無いその砦は、そうしてあっけなく、たった一夜の間に無惨に散らされた。
そして、彼が歴史上に最初に現れた事件だった。
◇◇◇
「まったく。なにがやまねこだ」
木の上から下りてこようとしない、1体のスケルトンを見やる。
スケルトンと一口に言っても、その能力は様々だ。
最小限の命令で、きちんと役目をこなす者もいれば、どうしようもない間抜けもいる。
木の上で敵を待て。
確かに発した命令はそれだけだった。
だからと言って、弓だけ持って、矢も持たずに敵を待つ阿呆がどこにいる。
さすがに自分が失敗したことは分かっているようだ。
下りてこい、そうひと言命じればそれで済む。
しかし、遠くを惚けたように眺めるその様は、どこか遠い記憶を呼び覚ました。
それでも、もうこいつはやまねこと呼ばれた彼女ではない。
それは、こんな間抜けな事をやらかしている事からも明らかだ。
彼女はもっと有能だった。
こんなドジをやらかす娘ではない。
いつかははるか年上に思えた彼女。
そんないつかの彼女の年齢を自分はとうに追い越してしまった。
今では彼女もただの娘だったのだと思えた。
まったく。
仕方がないので、骨の馬にくくりつけたままになっていた矢筒を取り外し、木の上のまぬけなスケルトンに放り投げた。
スケルトンはそれを受け取ると、やっと観念したかのようにするすると木から下りる。
太いその幹を、細い蔓を滑り降りるような気軽さで。
それを確認して、俺も馬に乗る。
目指す街はまだまだ遠い。
追っ手も掛かっているし、魔物も現れる。
日はまだ高い。
その間に先を急がなくてはならない。
「行くぞ。そこのドジッ子、さっさと馬に乗れ」
からかうように言ってやると、ドジッ子と呼ばれたスケルトンは急に素早い動きになって馬へと飛び乗るようにしてまたがった。
まったく。
そういえば、彼女のスケルトンだけじゃない、これまでスケルトンに名前を付けていなかった事に今になって気が付いた。
意図的に付けてこなかった訳では無い。
そのはずだ。
一度、呼んでしまえば、呼び名なんてそう悩むものでもないかと思えた。
周囲を取り囲んでいるスケルトンを見る。
どれも同じように見えて、それぞれに違う特徴がある。
他の誰に分からなくとも、俺にはそいつがどんなスケルトンなのかは分かる。
どうせ、先行きは長い。
さて、どんな名前をつけたものか。
「お前はゴキゲンで良いか。お前はガサツ。お前は……」
馬を走らせ適当に名前を呼んだ。
日はまだ高い。
やがて沈んで茜色へと変わるだろう。
その時までに、今日はどこまで進めるだろうか。
馬は急に止まったりせずに、走り続ける。
まだ見ぬ遠い東へ向かって。
遠い未来へと向かって。




