コンフリクト chapter23.5 -ドルチェ-
本編chapter1を想起させるような内容にしてみました。鍋島さん専用番外編。
今日は朝っぱらから鍋島がうざかった。
早めに登校した俺はのんびりと席に着き、腕を組んで正面を向いたまま居眠りをこいていたのだが、ふいに、目の前で携帯のカメラ撮影らしきシャッター音が聞こえた。
訝しんで目を開けると、そこには俺へ向けて携帯を構える、鍋島由多加のにやけ面があった。
「あ、起きた」
鍋島は一度携帯を操作し、それから満足そうな笑みでディスプレイを俺に見せる。
俺の寝顔写メだった。数ミリほど開いた間抜けな目元、四十五度ほど右に傾いた首、そして垂れ下がった右の口角から流れる一筋のよだれ。
はっとして俺は口元を拭った。ぬめった肌触りが手の甲にへばりつく。きたねえ。
鍋島はにやにやしながら携帯をいじりだした。俺はその腹立つ顔を睨みつける。鍋島は、今日もフェレットの尻尾みたいに纏めた髪を二束、胸の前に流していた。
「この画像、これからクラス中に一斉送信しますね」
おさげを思いっきり引っこ抜いてやりたい。
「送ってもいいけど、今後は夜道に気をつけた方がいいぜ、鍋島」
極悪面をたたえて言い放つと、鍋島は何を勘違いしたのか、かなり引いたような表情で一歩後ずさる。
「ありえない。キモい」
女子高生みたいな口調だった。いや、女子高生なんだけどさ。
脅しすら上手く伝わらないのか。俺は今更ながらに、今まで彼女に暴言を吐きまくっていたことを後悔する。
鍋島は携帯を閉じ、蔑むような目で俺を流し見て、それから後ろの席に座った。
俺も無視して居眠りを続行しようとしたが、今度は城川心結が教室に入ってきて、笑顔の小走りで俺たちの方へとやってくる。
「おはよう、今泉くん」
俺への挨拶を適当に言い置き、城川は鍋島の席へと詰め寄る。
「おはよう由多加ちゃん」
「おはようございます。城川さん、ちょっと見てくださいよこれ」
なにをだろう、と思うまでもなく、やっぱり俺の寝顔写メだった。結局見せるのかよ。
城川は、鍋島の携帯に表示された画像をまじまじと見つめ、それから俺の不機嫌な横顔を一瞥し、口元を手で覆って肩を震わせた。ツボに入ってるレベルでうけていた。
「近所で飼われてる犬そっくりな寝顔なんですよ。アンジェリーちゃんって名前なんですけど。ほらこれ」
鍋島がまた次の画像を城川に見せる。犬とか興味ないし見たくもないので俺は見なかったけど。
城川は画像を見た瞬間、ふうっ、と小さく吹き出す。ラマーズ法みたいな喘ぎで必死に笑いをこらえつつ、ぽつりと一言。
「似てるっ……」
「ほら、やっぱり似てますよね。今泉くんのことは、これからアンジェリーと呼びましょう」
「い、今泉……アンジェリー……」
どんだけ語呂悪いんだよ。背中をひくひくさせる城川と、顔を下げて「今泉アンジェリー」をひたすら繰り返して笑う鍋島。イラッときた。
鍋島が来る生徒来る生徒全員に俺の寝顔とアンジェリーを回し見せるので、HRが始まるまで、居眠りをする俺の背中や肩を様々な生徒が叩いてきた。
ようアンジェリー。
アンジェリーちゃん突っ伏してないで寝顔見せて。
今ジェリ、おい今ジェリ起きろー。
これは一体どういういじめなのだろう。鍋島は、遅めに登校してきた依子にも見せていたが、依子は表情こそ変わらなかったものの、俺を見て鼻だけでふんと笑った。
HRの後、鍋島がなにやら話しかけてきたが、俺はシカトを決め込んだ。相当傷ついていたし、なにより大いに腹が立っていたのだ。
三時限目の現代文。
五頭の授業で私語をする生徒はほぼ皆無だった。俺も例に漏れず真面目に授業を聞くふりをして、昨日読んだ井上雄彦のリアルの内容を脳内再現して暇を潰した。
七月も中盤に差し掛かっていた。もうすぐ夏休みである。少し開けた窓の隙間から入ってくる風が生ぬるい。
あくびをしようとしたところ、ふいに後ろの鍋島が俺の背中をつついてきた。
振り返ると、鍋島は少し申し訳なさそうな顔をしていて、一枚の紙切れを差し出してきた。それはA4ノートの切れ端のようで、丁寧に二つ折りにされていた。無言で受け取る。
筆箱の影に隠して開くと、鍋島の筆跡らしい丁寧な字でこう書かれていた。
『今朝は馬鹿にしてごめんなさい。まだ怒ってますか?』
本当のことを言うとまだ怒ってる。さっきの休み時間だって、トイレに行く途中に村瀬から、「おっすジェリ泉。あ、ごめん今泉か」と半笑いで声をかけられた。俺がトイレに行ってる間に、一人残らずアンジェリーとやらに噛み殺されていればいいのにな、と思った。
ま、もういいか。鍋島もちゃんと謝ってくれてるみたいだし。
俺は五頭の目に止まらないように、そっと後ろを振り返る。鍋島は上目遣いでこちらを見上げた。
「怒ってねえよ。あの画像消してくれたら、もう許すから」
鍋島は頷き、声をひそめる。
「ありがとうございます。でも、五頭先生に見つかっちゃうから、今度からは紙に書いて伝えてください」
「わかった」
俺も慌てて声量を抑える。
俺と鍋島は先月、二人そろって五頭から廊下に立たされた。廊下に立ってからも、鍋島が思わず大声を上げてしまったため、俺たちはそれからというもの五頭から目の敵にされているらしいのだ。あれから結構日にちも経っているけれど、まだ油断はできない。
もう別に伝えることは無かったけど、五頭の授業はあまりにも退屈だった。居眠りしたらキレるくせに、この眠気を誘うような抑揚のない喋り方は何なのだろう。
暇つぶしに、鍋島とこのやりとりで時間を潰そうと思った。
そこで話題を探してみるが、俺は一つだけ気になっていることがあった。
昨日の放課後に原村から誘われて、鍋島は原村と一緒に駅前周辺へ出かけたはずだった。今朝は初っぱなから鍋島に馬鹿にされて、それから一切会話をしなかったので、まだこの詳細を聞いていない。
俺は鍋島から渡された紙切れを開き、鍋島の書いた行のすぐ下に書き込む。
『昨日の放課後デート、詳細教えて』
あえてデートという表現でいこう。
鍋島にそれを手渡し、横目に反応を眺めていると、それを読んだ鍋島は少し恥ずかしそうに俺を見上げた。ちょっと面白い。
三分くらいして返事が返ってくる。
『駅近くの文房具店と美岡画材店に行って、それからミスドに行って帰りました。それだけです』
最近の鍋島は原村との惚気話を全くしてくれない。原村が好きだってことを俺に知られてからずっとである。どんだけ奥手なんだ。
惚気話って、聞かされるとうんざりするはずなのに、こういう風に口をつぐまれると、逆にこっちから聞き出したくなるんだよな。なんでだろ。
これではつまらなさ過ぎるので、俺はさらに書き込みを重ねる。
『楽しかった?』
渡す。今度はすぐに返ってきた。
『楽しかったです』
なんだこれ、面白くねえ。もっとなんか教えろよ。
やきもきしてきたので、俺はさらに突っ込んだことを書く。
『原村のどこが好きなの?』
これは最大にして永劫の疑問。原村のどこに惚れる要素があるんだろう。後ろの鍋島へと渡す。さて、どういう反応が返ってくるか。
すると、ここで五頭の声が飛んでくる。
「今泉」
やべ、ばれたか。顔を上げて五頭の顔を見ると、五頭は教科書に目を向けながら言った。
「四十二ページの五行目から読んでくれ」
そういうことか。急いで教科書を開き、席を立って五頭の指定した一節から朗読していく。羅生門だった。
「積極的に肯定するだけの勇気が出ずにいたのである。下人は、大きな、あー、えっと……」
読めねえ。なにこれ、中国漢字? ここで鍋島の助け舟が出る。
「くさめです、くさめ」
助かった。
「下人は大きなくさめをして、それから大儀そうに立ち上った。老婆の答が存外、平凡なのに失望した――」
一ページほどを読んだところで、そこまで、と五頭の声がかかる。座りながら、鍋島に小さく礼を言う。結局全部読み上げるまで三回助けてもらった。
ここで、ついでというようにノートの切れ端が返ってくる。原村のどこが好きなのか、という問いについての返事。
『今泉くんには教えません』
あれだけ時間かけてこれかよ。首だけ巡らせて鍋島を見る。鍋島は知らんぷりでノートに視線を落とした。
『教えてくれたら、こっちも原村がどんな女子が好きか教えるから』
本当は知らないんだけど、そう書いてみた。一度原村のiPhoneを見たときは、ブックマークに巨乳関連サイトばっかりが登録されていたけれど、これは鍋島に教えても仕方がないというか、ただ俺がぶん殴られて終わるだけのような気がする。
渡すと、鍋島は今まで以上に長考し出した。なかなか返事が来ない。
ふと視線をあげると、俺の斜め前の席の曽根本が、何故か俺を睨みつけていた。それから自分のノートの一部を切り取り、何やら書き込み始める。
書き終わり、曽根本はそれをこちらに寄越してきた。斜めに座る者同士だから受け取りにくいし、五頭に見つかりそうで恐かったが、なんとかバレずに受け取る。
内容が予想できないけど、とにかく読んでみよう。うわ、字きったねえ。
『なに鍋島さんと文通してんだこの野郎。お前ってやつは、どうしてオレが狙ってる女子ばっか落とそうとするんだよ。あ、これ鍋島さんには見せんなよ』
結構雑食だな曽根本。依子と鍋島ってかなりタイプ違うと思うけど。
さっきから曽根本の刺すような視線を感じる。あいつだけ五頭に見つかればいいのに。
「次、四十三ページから。曽根本、読んでくれ」
「あひ」
五頭に指名され、曽根本はカエルみたいな返事で教科書を持って立ち上がる。焦りすぎだ。
曽根本から回されたメモを鍋島に渡した。後ろをこっそり確認すると、鍋島は曽根本のメモを読んでありえないほどの嫌悪感を表情に反映させた。まぁ、普通はそうなるだろうな。
曽根本が爬虫類のような声で朗読していく中、先に鍋島から渡されたのは、曽根本から送られた方のメモ紙だった。
曽根本の文を避けるように、かなり下方に鍋島の小さい字がある。
『万が一ナンパされそうになったら、今泉くんの恐い顔で追い払ってください。それと、これは絶対曽根本くんには回さないように』
恐い顔。カチンとくる俺。
俺は鍋島の顔を見やり、眉をひそめる鍋島と頷きあう。そして、曽根本の紙にさらに書き込みを加えていく。
鍋島の文のすぐ上に『なんですかこれ? 曽根本とかマジ無理なんですけど。キモ過ぎて鳥肌立ってきた。これ、訴えてたら勝てますよね?』と、鍋島の字体を真似して書き込んだ。
やがて曽根本が朗読を終えたので、すぐに曽根本へとメモ紙を渡す。鍋島が慌てたようにシャーペンの頭で俺の背中をつついてきたが、無視。
曽根本は文に目を通し、ちょっと目をこすってからもう一度読み返し、それから机に顔を伏せて鼻をすすった。泣いているのかもしれない。やりすぎたかな。だがこれで邪魔者は消えた。
後ろをうかがう。鍋島が紙切れにペンを走らせていた。原村のどこを好きになったのか、やっと書く気になったのだろうか。
しかし、やがて鍋島から渡された内容はこうだった。
『実は中二の頃からずっと気になっていたんです。一目惚れというわけではないんですけど、部活で絵の描き方を教わっているうちになんとなく、という感じで。どうして好きなのか、自分でもよく分かりません』
なんと煮え切らない。何度か消しゴムで訂正したような跡もある。
なんとなく。
他の連中ほど、俺は人を好きになったことがないから、俺にはよく分からないんだけど、好きになるってそういうものなのかな。
あの人はどういう性格か、という問いに一言で答えられない曖昧さがあるように、好きという感情も曖昧な部分が多いのかも。
でもそのなんとなくが、案外強かったりするんだろうな。
『もう告れよ』
五文字の短い応援メッセージ。さっきから俺、言いたい放題な気がする。後ろに送ろうとして逡巡する。中二の頃から気になっているらしい。実に二年以上。こんな風に俺が軽々しく面白半分でけしかけたって、意味がないのかもしれない。
そもそも原村は鍋島をどう思ってるんだ。そういえば、それについては詳しく話したことがない。つーか、原村と色恋話とか恥ずかしいし。
もし原村が鍋島のことをただの後輩としか思っていなくて、それで俺に誘導された鍋島がふられでもしたら、やばいな、俺の責任じゃん。
消しゴムでメッセージを消す。消し跡を隠すように、その上にまた文をつづった。
『後悔だけはすんなよ』
文脈がない気がする。気の利いたことを言えているだろうか。まぁいいや。このやりとり、だんだん飽きてきたし。
腕だけ後ろに回し、紙を鍋島へと送る。鍋島が控えめに手をゆっくりと伸ばした。ここで、後ろから気配を感じる。
背後を流し見る。教科書を手に持ち、俺たちを見下ろす五頭だった。瞬間移動?
五頭はすでに俺たちの間に手を伸ばしていた。鍋島に送るはずだったノートの切れ端は、彼の手によって取り上げられる。
走馬灯のように脳内を駆け巡る文通内容。
『今朝は馬鹿にしてごめんなさい。まだ怒ってますか?』『昨日の放課後デート、詳細教えて』『駅近くの文房具店と美岡画材店に行って、それからミスドに行って帰りました。それだけです』『楽しかった?』『楽しかったです』『原村のどこが好きなの?』『今泉くんには教えません』『教えてくれたら、こっちも原村がどんな女子が好きか教えるから』『実は中二の頃からずっと気になっていたんです。一目惚れというわけではないんですけど、部活で絵の描き方を教わっているうちになんとなく、という感じで。どうして好きなのか、自分でもよく分かりません』『後悔だけはすんなよ』
なにこれ恥ずかしい。やだこれ甘酸っぱい。
五頭は眼を這わせ、紙切れの文を追う。バブルの香りを残した、気持ち大きめな眼鏡レンズ、その奥から五頭の無感情な瞳が移動し、俺たち二人を捉えた。クラス中からも視線の集中砲火を浴びせられ、俺も鍋島も押し潰れそうに顔のあちこちの筋肉を硬直させた。
五頭は、投げるように紙切れを鍋島の席に乗せる。
「青春がしたいなら廊下でやれ」
結局廊下に立たされた。
教室を背にして、鍋島と二人で廊下に立つ。教室内から感じる好奇の目が痛い。
「今どき高校生を廊下に立たせる教師なんて、県内中探してもあいつくらいだよな」
なんだかこの台詞、前にも言ったような気がする。
返事がないので横を見ると、鍋島は頬を紅潮させ、俯きがちに直立していた。人差し指と親指でおさげの先をつまみ、深いため息を吐く。
「なんで私って、こんなに意気地なしなんでしょう」
悲愴感を全身から発散する鍋島。廊下に立たされることなど、もはやどうでもよさそうだった。
廊下の窓から外を眺める。前回ここに立たされたときは雨が降っていたはずだが、今回は清々しいほどの青空を拝めた。教室内と違って熱気もこもってないし、気分的にも涼しい。ただ、隣の鍋島だけは晴れない顔をしていた。
「俺も、昨日はお前に『二人で行け』って強要したけどさ、もう無理に告ることないんじゃね。特に今は、関係を保つことが第一なんだし」
村瀬との件もあった直後だ。本当だったらこんなことやってる場合じゃないんだし。
「私がもっと上手く気持ちを伝えていれば、あの図書室のことだって、何事もなかったはずなんですよね」
「そんな悲観的になるなよ。時間が経てばどうにかなるだろ」
「でも私、本当に自分の優柔不断さが嫌だし、いざというときも、すぐ弱気になっちゃうし……」
なんだか面倒臭くなってきた。女ってたまにすげえネガティブになるよな。
「すみません。さっきから弱音ばっかりで」
「本当だよ。鍋島らしくねえ」
無言で晴天空を見つめる。
発言しづらい湿った空気が俺たちを包んでいた。他の明るい雑談でもしたかったけど、頭がぼうっとして何も思い浮かばない。
「中学の頃の、城川さんとのことなんですけど」
「いじめのことか」
「それのことで、いや、そうじゃなくて、まだお礼言ってなかったなって」
なんのことだかよく分からなかった。お礼。誰に?
「今泉くん、お前が完璧じゃなくてよかったよ、って言ってくれましたよね。私、あれにすごく勇気付けられて」
「あぁ、そのこと」
そういえば俺、あのときかなり臭い台詞吐いてたからな。そのときのことを思い出すのも照れくさいし、誰かにお礼を言われるのだって慣れていないから、俺は鍋島と目を合わせないように軽く天井をあおぐ。
「別に完璧じゃなくてもいいんですよね。自分に出来ることをやればいいんです。昭文くんのことだって、もしふられちゃっても、自分の気持ちさえ伝えられたら」
「伝えるにしても焦ることはないだろ。ゆっくりやればいい」
センチメンタルスパイスが空気中に混濁していた。こういう話をいつまでも続けるのは俺の性に合わない。何でもいいから、とにかく俺は洒落のめしたかった。
腕時計を見ると、三時限目終了まであと五分を切るところだった。
「とにかく、あんまり気負わないことだな。原村のことも城川のことも村瀬のことも。相談だったら、俺が機嫌悪いとき以外ならいつでも聞くし」
「今泉くんって、たまに優しいですよね」
「惚れんなよ」
鍋島は口元をおさえ、控えめにくすくすと笑う。
「それ、つまんない冗談ですね」
嫌がられると思って言っただけに、逆に背筋がむずがゆくなってしまった。今日の俺は恥ずかしい言動ばっかりな気がする。決まりが悪くなった俺は、おかしそうに笑う鍋島から顔を逸らし、授業終了までじっと青空を眺めて過ごした。