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後日談〜地の塩(2)

 久々のタンデムは戸惑いが大きかった。

 まず密着度が高い。ヘルメットを被ってはいても、しがみつけば濃密な彼の香りが自分にまで取り巻いて胸が高鳴った。彼の身体の動きに反応しなければならないのに集中出来ない。カーブで身体を倒し損ねて何度も怒られた。

 そのうち下りの坂道にさしかかる。少し走ってカーブの切れ目にある小さい空き地にバイクを止めた。

「あ、ここって・・・」

「思い出した?」

 秋に美砂が事故を起こした場所だった。まだガードレールの端が曲がったままになっている。歩きながら辺りを見回した。対側のガードレールの向こうは木々や枯れ草が被ってはいるが、下の方から小さな川の流れが聞こえた。反対車線の方に飛び出したら谷底に落ちていたかもしれない。

「今見るとぞっとするだろ」

 美砂は無言で頷いた。

「ほんとあの時は生きた心地しなかったよ。だけど」

 良介は深く微笑んだ。

「あれがあったから、こうしていられる」

 良介は美砂を後ろから抱きしめた。美砂は回された腕を抱きかかえるようにして彼に背中を預ける。縁は不思議だ。絶望的な片想いをしていたあの頃。自分を見つめてくれるこの瞳があったから、今がある。

「こないだ周平たちがうまくいって、俺心底ほっとしたんだよ」

 背中から彼の声が響く。

「なんだかんだ言って周平にこだわってたのは俺かもしれない。ヤツが真紀に首ったけなの分かってて、もう1年にもなるのに未だに嫉妬してた」

「そんな」

 首をひねって彼を見ると、照れたように笑う。私こそいつも不安に駆られてる。知れば知るほどあなたが魅力的に見えて。私みたいな女の側にずっといてくれるだろうか。そっと見上げると甘い視線。どちらともなく唇を重ねた。


 その後ふたりは山の頂上まで登って、名物の焼き団子でお茶を飲んだり、小さな美術館で木工細工や陶芸を見たりして楽しんだ。冬の陽が落ちるのは早く、5時にはかなり暗くなる。気温も下がるし早く帰った方がと思ったが、良介が意外にぐずぐずしているのが気になった。

「ねえ、かなり暗いけど大丈夫?」

「・・・ああ」

 良介はエンジンをかけた。

「帰りは違う峠を下るよ」

 もう帰るかと思ったら切なくなったが、仕方なくシートにまたがり彼にしがみつく。すっかり馴染んでしまった彼の香りを一杯に吸い込んだ時バイクは走り出した。行きと違い細めの道を辿る。確かに車ではすれ違うのが怖い。外灯はあるがどんどん山道を奥深く入ってゆく。


「ここまでかな」

 バイクを止めた場所は、一応整備されて道にはなっているが二人がやっと通れる位の狭い幅だ。しかも立ち入り禁止の札が立っている。良介はバイクを降り、懐中電灯をつけると分厚いグローブ同士で手を繋ぎ道を進んだ。

「ここは昔から気に入ってて、毎年来てたんだ。川名さんていう人の私有地だからほんとは入っちゃ行けないんだけど、俺は断り入れてるから大丈夫」

 こんな山道に何があると言うのだろう。良介は美砂の不安を取り払うように微笑んだ。

「ここに家族以外の誰かを連れてくるのは美砂が初めてだ。危ないから手を離すなよ?」

 張り詰めた冷気の中、白い息を吐きながら枯草を踏みしめて歩いた。まだ6時頃だが懐中電灯がないとほとんど周りは見えない。

 5分も進んだ頃だろうか、少し道が開けた。と同時にふわっ、と控えめだか凛とした芳香が漂う。この香りは・・・。

 良介が懐中電灯で辺りを照らし、見つけた小さな柱についているスイッチを付けた。その途端。


「・・・!」


 思わず息を呑む。小さな足元の明かりが点々とともされて、うっすらと視界が開けた。




 そこは一面の梅林。




 薄明かりに照らされて、ほころんだ梅花の白が何処までも続いている。

 黒くごつごつした幹から伸びた枝先はまっすぐ天に向いて闇に溶け、花だけが白く浮き上がって、まるで牡丹雪が降り出したまま時が止まったようだ。


   勇気こそ 地の塩なれや 梅真白


 花の中、良介の母の声が木霊した。

 琴の調べのような清らかな香りに包まれて、花を見上げながら美砂は酔ったようにふらつき、後ろに立つ良介に背中を預けた。

 自分も梅の花になって、白く弾けたまま闇に放り出される。


 何も言えずただうっとりと花を愛でていると、良介が後ろから美砂の手をとってグローブを外した。感触でいつの間にか良介も素手であるのが分かる。

「ん・・・寒いよ?」

 彼は足元に付けたままの懐中電灯とふたり分のグローブを置いた。自分のジャケットのジッパーを下ろすと内側の胸ポケットから何かを出す。暗くてよく分からぬまま見ていると急に左手を取られた。

ひやっと冷たい感触が薬指を滑る。

「えっ」

 美砂は目を懲らして自分の指を見た。薄明かりの中にちかり、ときらめきが見える。

 小さなダイヤモンドが埋め込まれた指輪だった。


「・・・美砂」

 良介は美砂の左手を取ると、騎士の様に膝を折った。



「俺と、結婚してくれ」



 一瞬何を言われているのか分からなかった。見上げる良介の綺麗な瞳を見ているうち、自分の中に突然、彼の言葉がすとん、と落ちてきた。

 

   俺と、結婚してくれ。


 とても現実とは思えなかった。この桃源郷のような景色が見せてくれた幻なのだろうか。右手で胸を押さえた。

「・・・嫌?」

 そう言いながら彼は立ち上がろうとしない。この期に及んで彼は私に選択を委ねるつもりなのだ。地の塩の精神。どうして?・・・私が信じさせてあげられないから?

 ようやく美砂は気付いた。自分の気持ちを伝えることが彼を幸せにすることを。

「嫌なんて。良介こそ私にはもったいない人なのに」

「・・・なに言ってんだよ」

 良介は膝を折ったまま嘆息した。

「大学時代から今までずっと、美砂はいつも高嶺の花で。俺が追いつこうとどんなに頑張ってたか」

 美砂の左手にキスをした。

「俺はもう、爪の先まで美砂のものだ。これからもずっと美砂の側にいられる権利を、俺にくれないか」

 ああ、もう!美砂は涙でぐしょぐしょになりながら答えた。

「私はもうとっくに良介だけのものなんだってば!」

 手を握っていた良介の顔がぱあっと輝く。でもまだ立とうとしない。美砂はそのためにどんな言葉が必要なのか、もう分かっていた。美砂は良介の手に自分の右手を重ねた。


「こんな私だけど、これからもずっと側にいて。どうか私と・・・結婚してください、お願いします」


 その言葉がスタートのピストルとなった。良介は猛然と立ち上がり美砂をかき抱いた。

「・・・ありがとう、美砂」

 長い息を吐くとそっと口づけた。ライディングジャケットの厚さの分、相手が離れている気さえして、二人はきつくきつく抱きしめ合い、口付けを深くした。馥郁とした梅の香りが、真綿のように二人の身体を柔らかくくるむ。白い花が永遠のように続く場所はあまりに静謐で。身じろいだ衣擦れや唇の触れあう音さえも鮮やかに響いた。

 

「愛してる」


 幸せで、幸せで、それなのに胸が苦しくて、どうしても彼に言いたくて、言葉が零れた。照れ屋の美砂が彼にそう言ったのは初めてかもしれない。良介は一瞬驚いたように彼女の顔を見た。そして美砂に何とか微笑もうとしているのが分かるが、うまくいかずくしゃっと顔をしかめた・・・瞳が潤んでいる。


「・・・気が合うな、俺もだ」



 今までの人生が、今日のためにあったのだとしたら。全てを赦し全てを解放しよう。心から愛する人に愛される、たとえようもない幸せのために。


 ふたりの吐息は白い花の中にいつまでも立ち上り、闇の中に溶けて消えていった。 




Fin




 


 お付き合いいただきありがとうございました。後日談〜地の塩はこれで終り、この後もう一本後日談が続きます。

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