後日談〜地の塩(1)
美砂と良介が付き合いだして1年、真紀と周平がやっと想いを通わせて間もなくの、早春のエピソードです。
「バイクの後ろって乗ったことある?」
真紀と周平がめでたく恋人同士になってから一月程たった二月の半ば、良介から美砂に珍しく遠出のお誘いがあった。
ふたりで会う時はいつも電車か車だ。何故バイク、しかもこんな寒い時期に?
「海の後ろに乗っけてもらったことならあるよ、もう何年も前だけど」
バイクの後ろというものがどんなものか興味があって、免許を取ってほくほくだった弟をおだてて両親に内緒で出掛けた。海も恋人を乗せるつもりでいたらしく、しばらく慣れるまでいい練習台にされていたのだった。
「・・・シスコンめ。ま、慣れてんならいいや。今度の週末に行くから、それなりの格好できて」
そう言われたけれど、何処へ行くのか何をするのか、全く聞かせられていなかった。
「良介の実家に寄るの?!」
その日に会ってから発表されたスケジュールの破壊力はダイナマイト級だった。よりによって革ジャンとユーズドジーンズにごついブーツで初対面!
「だってバイクは実家だもん」
良介は当然の様に言う。
「せめて実家に寄ってから行くとか先に言ってよ!」
女には色々事情があるということを、どうして男は理解出来ないのか。
「何で?どうせすぐに出発するし。・・・それともうちの親に会うの、まだ早いってこと?」
良介の顔がみるみる曇る。
「まだって、何よ」
「俺の彼女って紹介すんの・・・まだ、早い?」
おずおずと美砂を見る。そっち?美砂は「結婚を前提に」とかいう話だと思っていた自分に密かに赤面した。
「・・・もう1年近くになるわけだし、それはいいけど。服装とか・・・」
「『親に紹介』はいいんだな?」
良介はわかりやすくぱあっと顔を輝かせ、傍にすり寄ってくる。革のライディングジャケットの匂いと混じって、今まで彼から香ったことのないスパイシーな男性用コロンのノート。タンデムで密着するので気を遣ったのかもしれないが、いつもより男っぽい香りが容赦なく迫ってきて落ち着かない。さらに全身をくまなく見られて、ヒューっと冷やかしの口笛。
「・・・すげえいい女。その格好、俺的にはかなりツボなんだけど」
そんなこと言われたら!どぎまぎする美砂の頬に素早くキスして、良介はいつもの笑顔に戻った。
ブランチを取った後、「どうしても寄って」という美砂の願いを聞いて、行きつけの店で評判のシュークリームを手土産に買った。
「手ぶらじゃ何だから。でもこの格好にケーキ屋の箱がまた合わないなあ」
美砂はため息をついて良介の車に乗り込んだ。
良介の実家は純日本家屋だった。しかもその門には「合気道連盟 佐倉道場」という札が下がっていた。
「道場?!」
明人を伸したはずだ。師範の息子じゃない!
「お帰りなさい!ついに連れてきたわね」
良介の母はにこにこして美砂を迎えた。笑った時の目元が彼そっくりだ。
「ただいま。こちら青木美砂さん」
美砂は緊張してシュークリームの箱をもったまま深々と礼をした。
「青木美砂です。良介さんには同期で入社したころからずっとお世話になっております」
「良介の母です。堅苦しいことはいいのよ!良介から聞いてるから!この子は昔から隠し事が苦手な質で。まあ、噂通りの美人ねえ」
ざっくばらんな人柄に美砂の緊張もほぐれる。上がって靴をそろえると、良介も座り直してそれに習った。そういえば、うちに来たときもきちんと靴をそろえていたのを思い出す。普段の所作も姿勢が良くきれいだったのは、道場を開いている両親の躾の賜だったのだ。なるほどお侍の様だと言った美砂の母親は当たらずとも遠からずだったわけだ。
「まあ、お土産まで」
良介の母はいそいそと紅茶を淹れてくれる。どうやら母親には今日来ることは伝えてあったみたいだ。私が知らなかったのに!
良介の母親は俳句を教えているという。一家は中身も純和風だ。歳時記や辞書、新聞のチラシや包装紙の裏を綴じ込んで書き散らしたものがテーブルに置かれていた。美砂の持参したケーキ屋の包みもペーパーナイフであっという間に切られてクリップで留められる。その鮮やかさに圧倒された。紅茶を飲んで会話がなく静まりかえると道場から身体を倒した時の大きな音やかけ声が聞こえてくる。
「ごめんなさいねえ、土日は合気道のお弟子さんが一杯で。この子の父親と兄が二人で教えてるもんだからなかなか上がって来れないのよ」
「いえいえ、そんな」
こんな格好で全員にご挨拶は避けたい。それにしても本当に良介には驚かされてばかりだ。初めは人のいい同僚。それが大学時代はチャラい茶髪でバイクも乗っていたと。と思えば躾の行き届いた合気道師範の息子。
「この子はねえ、家が道場ってのが気に入らなかったみたいで、中学から大学までは本当にやんちゃでね、合気道だけは続けてくれたけど、髪は染めるわ、バイクは乗るわで、随分心配させられたわ」
やめろよ、と嫌がる良介を手で払いながら、
「それが就職したら人が変わったみたいに好青年ぶっちゃって。そりゃこーんな美人がいたらねえ」
良介そっくりの笑顔で言われると余計に面映ゆい。
「バイク久しぶりじゃない?美砂さん乗せて大丈夫?」
「バイクでなきゃ行きにくいとこなんで。こないだ帰った時ちゃんとチューンアップしたから。大丈夫、安全運転で行くよ」
「バイクで行くとこって・・・ああ、川名さんとこ?」
母親の納得した表情に良介が慌てた。
「余計なこと言うなよ。俺、ガレージ開けてくるから」
そう言って立ち上がった。良介の母はにやにやと笑っている。
「内緒なのね」
「は?」
「後のお楽しみ、みたいよ」
首をかしげる美砂に良介の母は突然俳人の名を挙げた。
「中村草田男って知ってる?」
「・・・『降る雪や明治は遠くなりにけり』の人ですよね」
美砂が応えると「さすが読書家」と満足げに頷いた。
「草田男の墓碑に刻んである有名な句があるんだけど。『地の塩』って知ってる?」
「いえ」
良介の母はすうっと息を吸い込んだ。
「・・・『勇気こそ 地の塩なれや 梅真白』」
凛とした声が響く。
「この句は自分の若い教え子が学徒出陣で出て行くときのものでね。地の塩って聖書に出てくるんだけど、迫害されて亡くなった人達の象徴らしいの。塩は命を育む大切な調味料で腐敗を防いだりもするでしょう。犠牲者は世の中にとって尊い塩の様な存在で、草田男は戦場に出てゆく若い魂にそれを重ねて、生きて還るのも勇気だ、と暗に言っていたんじゃないかって言われてるわ」
良介の母は微笑みながら美砂の肩に手を置いた。
「あの子は人の犠牲を厭わないでしょう。ちょっと愚連かかった時も結局ちゃんと帰ってきたし、自分に自信がなくて、せめて人に尽くして役立つことが自分の道だと思っている。でも貴方のことは譲れないらしいわ。あんな子だけど、よろしくね」
思い当たることが多すぎて胸が詰まる。ずっと美砂の後を殉教者のようについてきてくれた彼。そんな良介を深く包み込む母親の愛情。適わない。私は、彼に何を返せるだろう。
ガレージにあるバイクは黒く光って美砂を迎えた。投げて寄越したフルフェイスのヘルメットはどうやら新品のようだった。
「わざわざ今日の為に?」
「そりゃ大事な姫をのせるんだから」
昔の彼女のものでも使うのかと覚悟していた美砂は驚きを隠せない。プロテクターも付けてくれて、何も言わなくても綿密に計画を練っているのがわかる。正直久しぶりのタンデムは不安だったが、彼に全てを委ねる事に決めた。