種明かしをしようか
良介はじっと恨みがましい目で美砂を見た。
「・・・私?」
「他の誰だよ!」
吐き捨てるように言う。
「何でわかんねえの?俺、周平に『美砂の犬』とまで言われてるんだぜ?」
美砂は目を丸くした。会社では普通にしているつもりで、良介が美砂を気に掛けてくれていることなど他人にはわからないと思っていた。
「だってそれは、うちの母とか弟に頼まれてるからでしょ?」
「頼まれたからってあんなに付きまとえるかよ。ていうか君の弟君、たまにメールするんだけど、君のこと大好きだからね。むしろ俺ちょっと牽制されてるくらい」
良平はため息をついた。
「・・・ていうか、周平のことはいいのかよ」
探るように美砂の顔を覗き込む。そっと視線を合わせた。この目。森の中に隠された湖みたいに綺麗で、見つめられた自分まで浄化されていくように思える。そしてこの傷も。無意識のうちに美砂は彼の右目の脇の小さな傷を指先でそっと撫でた。まるでそれがスイッチのように良介はびくんと震える。右腕も彼の首に回して肩口に額をつけた。
「・・・良介」
呼び捨てにしたのは初めてだったかもしれない。彼は明らかに動揺して、自分の手はぶらりと脇に下がったままだった。
「おい、美砂。からかってんのか?」
さもありなん。今までの自分の天の邪鬼な言動を振り返って苦笑する。
「からかってなんか」
「・・・勘違いするから、触るな」
良介は美砂の両手を自分から剥がすと視線を合わせた。
「なめてるとひどい目に遭うぞ。俺の気持ち、分かってるなら・・・」
凄んでいても、目はむしろ甘い情熱の色を湛えている。美砂は自分が求められている事実に胸が締めつけられて、もう一度目の脇の傷を撫でた。良介はまたびくっとする。
「・・・何で、その傷んとこ、触る?」
「何でかな。そこ、触りたくなるの。前から気になって」
美砂を思いやって顔を歪ませたり、微笑んだり。その度に形を変えて目尻の皺に隠れるその傷は彼の表情の一部のように思える。美砂が正直にそう口にすると良介は一瞬はっとしたように息を呑んだ。
「・・・すげえな」
感嘆をこめて息を吐く。その言葉の意味がわからない。
「何が?」
彼は難しい顔をしてしばらく考え込むと、やがて何かを覚悟したように口を開いた。
「・・・種明かしを、しようか」
何のことだか見当もつかないが、美砂は黙って頷いた。
「俺がK大出身なのは知ってるよな」
忘れる筈がない。あの二股をかけられた元彼の明人と同じ大学で、入社時の自己紹介の時ひやっとしたのを覚えている。
「俺もあのサークルにいたんだよ。明人と一緒の」
「えっ、まさか」
美砂はO大のサークルの部長として、K大の面子もある程度は把握していたはずだった。
「メンバーは相当数いたし、あの頃俺もチャラくて茶髪のロン毛だったからわかんなかったんだろ」
清々しい位短く整えられた今の良介からは想像がつかない。
「・・・今から言うことはちょっと美砂には酷かもしれない」
良介は言いよどむ。
「けど、話さないと、フェアじゃねえから。・・・就活してた頃の話だよ」
ぽつりぽつりと言葉を繋ぎ始めた。
「俺、その夜、忘れ物取りに一人でサークルの部室に行ったんだ。夜だったから誰もいないと思って、ろくに確認もしないで警備から借りた鍵使ってドアを開けたわけ。そしたら明人が女といたんだよ。ま、その・・・明らかにそこで『シてた』っていうの?そういう雰囲気で」
美砂はその相手から直接露骨に言われていたので、その程度のことは織り込み済みだった。ただ、まさか良介がそれを見ていたなんて。
「俺はあまりヤツと親しくなかったけど、美砂と明人が付き合ってるのはサークルでは公認の事実だから。浮気だってすぐ気がついた」
苦々しく言い捨てる。
「相手の女はさすがに気まずくてすぐ帰ったんだけど、明人は俺に釘を刺したかったんだろうね、ぺらぺらしゃべり出したんだ。美砂が、その、そういうことが苦手であんまりさせてくれないからつい、ってさ。俺が軽そうに見えて賛同してくれるとでも思ったのか、あいつ平気な顔で・・・」
良介は自分が傷つけられたような顔をする。美砂は彼の腕を撫で擦った。
「私もその女の子からそういう意味のこと散々聞かされたよ、大丈夫」
だが良介は首を振った。あいつもあの女も最低だ、と低くうなった。
「あげくの果てに、就職で同じ会社にしようと美砂と約束してたんだけど、黙って別な会社に希望を出した、しばらくはフリーで楽しみたいんだ、なんて聞いてもいないのにどんどん暴露しやがって。俺は関係なかったけど猛烈に腹が立った。美砂は一見派手そうだけど、うちらとの交流会の時はいろいろ気を使って、面倒なこともよく引き受けてくれてさ。あんな明人にもすげえ尽くしてんの見てたから、いい娘だなって思ってた」
あんな頃から、良介は私を見ていてくれてたんだ。美砂は胸が熱くなった。
「・・・それで俺が黙って睨んでたら明人が切れて。側にあったガラスのコップをテーブルに投げつけたんだ。その破片が跳ねて、出来たのがこの傷」
美砂は息を飲んだ。何となく触りたくなったその傷。それが明人につけられたものだったなんて。
「その時からだ。なんか美砂のことが気になって。ガラスと一緒に、何かがここに入っちまったのかな」
周平は傷を指さして自嘲気味に微笑んだ。
「人伝に美砂が別れたらしいってきいた時は本当にほっとした」
美砂の頭に良介の手が乗った。彼に頭を撫でられるのが好きだ、安心する。
「あの時明人が言った美砂の希望した就職先を選んで」
「ええっ?」
美砂は顔を上げた。
「部署が一緒になった時は神様に感謝したよ。そして現在に至る」
照れくさそうにして、話はお仕舞い、と言うように美砂の頭をぽんと叩いた。
「・・・知らなかった」
きつねにつままれたみたいだった。そんなこと明人にも彼女にも言われていない。しかもそんな事件、知っていたら皆が黙っているはずがない。
「今でも跡が残るなんて、その傷もずいぶん出血したんでしょ。よく噂にならなかったね」
「俺は黙ってたし。奴も言えねえよ。部室で浮気現場見られて、逆ギレしたあげく俺に伸されたなんて」
「伸された?」
明人は良介よりかなり身体が大きかったはずだ。美砂の言葉に良介はにやっとして、
「俺、これでも合気道で段位もってんだ。奴がギブするまで嫌って言うほど、ぎっちぎちに押さえこんでやった。次の日部室行ったら、ガラスの破片も俺の血も、跡形もなくきっれーにしてあったぜ。ちいせえ奴」
美砂は吹き出した。痛快だ、コメディのエンディングみたい。しかし良介は再び複雑な顔になった。
「・・・こんなこと隠して同僚面してたなんて、卑怯で厭らしい男だろ。引くなら引いてくれ。でもこれが俺だから」
なぜそんな卑下した言い方をするの。
笹の葉型の傷は、忠誠の印のように輝いている。
その傷がある限り、鏡を見る度、きっと私のことを思い出す。
何度でも撫でたい。ここにあなたの真実がある。
「私ね、なんで周平君を好きになったか自分でも不思議だった。真紀を溺愛してるの知ってて、最初から見込みないのに何でだろって。でも分かったよ」
すうっと息を吸い込む。
「・・・きっと私もあんな風に愛されたかった」
こぼれる涙をそのままに、美砂は良介の両肩に手をかけ、そばにあるパイプ椅子にかけさせた。彼の体が素直に椅子に沈む。美砂はもう一度良介の傷に指で触れ、屈んでそっとそこに口づけた。誓いのキスのように。
「私のこと、これからもずっと見ていてくれる?面倒な女だけど」
美砂はくじけそうな心を奮い立たせて言った。
「良介じゃなきゃ、だめ、なの。良介が見ててくれるなら、もう・・・何もいらないから」
くっ、と良介から吐息が漏れる。美砂を見上げる彼の目も少し潤んでいた。
「・・・周平なんか及びもつかないくらい、愛してやるよ」
良介は椅子を倒さんばかりに立ち上がると、美砂を熱く見つめた後彼女の身体を想いを込めてかき抱いた。彼の両腕で美砂の吐息が絞り出される。骨がきしみそうだ。でも足りない。もっと・・・もっと強く、今までの隙間を埋め尽くして。美砂も回した腕に力をこめて縋り付いた。
二人の身体から、悪い魔法が解けて渦を巻きながら昇華してゆく。
そして新しい魔法が、咲き誇る薔薇の蔓のように薫り高くふたりを絡め取った。