絡まる糸
「美砂?」
給湯室ではちょうど真紀がコーヒーを淹れているところだった。滅多に泣かない美砂が泣きはらした目で飛び込んできたので、真紀は慌ててコーヒーの粉をこぼしてしまう。
「どうしたのよ」
美砂は真紀の胸に縋って、ただ泣きじゃくっていた。
こんな時になって気付くなんて。
散々迷惑をかけ、振り回しておいて今更。
きっとこれは良介を翻弄した私への罰だ。
彼を解放してあげなければ。こんなやっかいなだけの感情は、異動と一緒に持って行ってしまうんだ。隠しきれず彼の目の前にさらけ出すその前に。
真紀は何も聞かずただ美砂に胸を貸していたが、そのうち左手で美砂の背を撫でながらも、右手を小さく動かしだした。かちかちと音がして携帯をいじっているのだと気付く。そのうち背を向けている入り口から大きな足音がした。
「・・・ここか!」
今一番顔を合わせたくない、良介の声だった。
彼に、メールしたんだ。
真紀が一番に良介を呼んだ事実に目の前が真っ暗になる。真紀はやっぱり、良介を。絶望が頭を掠めた時、美砂の手首がぐいっと捕まれた。
ああ、この手。大きく温かな、良介の手だ。
「・・・頼んだからね」
真紀が念を押すように言って、強く美砂を良介に押し付けた。何だか訳がわからずに良介を見上げると、心配そうな瞳と出会った。彼の右目の脇の傷が歪んでいる。手首がさらに引かれて、美砂は空いている会議室に放り込まれた。良介はドアにかかった「空室」の札を素早く「使用中」に返すと、かちゃりと鍵を閉めた。
「どうしたんだよ」
美砂に向き直りながら良介は言った。そう、言われても。どう言ったら良いのだろう。しゃくり上げながらも、慌てて頭の中をかき回し当たり障りのない言葉を探した。
「・・・異動が決まって」
やっと出た言葉に良介は小さく頷いた。
「・・・ああ、そういう噂は聞いてた」
それだけ?むしろ面倒な女がいなくなってほっとしてる?美砂の目からまた零れ始めた涙を見て、良介が慌てた。
「大丈夫だって。同期の絆がきれるわけじゃない。企画部にはダチがいるからいろいろ情報をもらってやろうか?なんなら同期会でも開いてやるよ」
「企画部?」
美砂はきょとんとした。
「周平だろ?企画部に決まったって」
苦虫を噛み潰したような良介の顔を見返した。
周平の異動と誤解してる?
というか、私が彼にまだ泣くほどの気持ちがあると思ってる?
周平には望みがないと言いながら、なぜ橋渡しするようなことを言うの?わからない。
「・・・私の異動のこと。広報に行くことが決まって」
良介は一瞬眉をぴくっと動かしたが、すぐに微笑みを作った。
「・・・じゃあ希望が通ったんだ。おめでとう」
なぜこの男は入社当初の希望部署まで覚えているのだろう。でももうこんな優しい彼ともお別れだ。また涙があふれた。
「良介君も、もうお役ご免だね。今までありがとう」
「え?」
「良介君は異動ないんでしょ。真紀と一緒でよかったね」
彼は美砂の肩をつかんで顔をのぞき込んだ。
「まさか、美砂まで真紀とのこと誤解してんのか?」
「・・・だって」
違うの?
「・・・俺は!真紀が周平の異動で動揺してたから、なだめてただけだ。話を聞くのに何度か食事に行ったし、部屋にも送ったけど、中には入っちゃいない」
良介は一息に言って、特に最後のフレーズに力をこめた。美砂は良介の言葉を反芻する。良介と真紀は何でもない、という事実に心からほっとしたが、そうなるともう一方のことが気に懸かってきた。周平のことで良介の助けがいるくらい真紀が動揺している?
「・・・てことは、真紀は周平君が好きなの?」
「本人は気付いてないみたいだけど、多分。え?なんかうれしそうだな」
「そりゃあ二人とも幸せになってくれた方が」
良介は怪訝そうに美砂を見つめる。
「じゃ、泣いてたのは何だ。単にうちの課を離れたくないからか?」
そうだけど、それだけじゃない。美砂は口ごもった。
「『美砂が取り乱してるからすぐ来て』ってメールが来たから、慌てて仕事ほっぽってきたんだぞ」
そうだ、なぜ良介を呼んだのだろう。真紀は良介がうちの家族から頼まれていることなど知らないはずだ。
「なんで真紀は良介君に連絡したの?」
「そりゃあ・・・」
良介はわしわしと頭をかいた。
「真紀の話を聞くついでに、俺の愚痴も聞いてもらってたからだろ」
「愚痴?」
意味が分からずに聞き返すと、良介はいらだちを隠さず、ついに大きな声を上げた。
「ストーカーして1年にもなるのに、一向に靡いてくれない誰かさんのことだよっ!」