銀の刃
思えば、頼られる人生だった、まだ四半世紀の人生だけど。
家では親が共働きのため年の離れた弟の面倒をみていたし、小学校の頃は女子の誰かがいじめられると男子に詰め寄る矢面に立たされていた。良く言えば大人びてしっかり者、実際は老け顔で諦めの早い美砂は、世間の求めるイメージのまま生きてきた。
大学になって化粧を覚えるとはっきりした目鼻立ちのせいで派手に見られるようになり、否定するのも面倒くさく、サークルに入り飲み会も仕切って、案の定部長に抜擢。飲み会帰りに他校のサークルの部長に誘われて、そのままなし崩し的に付き合い始めた。皆にお似合いと言われそれなりに好きだったが、二股をかけられ、さらに相手の女の子に詰め寄られて。友達の助太刀でいろいろ言わされたことはあっても、自分の時には驚くほど言い返せなかった。ちょうど就活シーズン、面接に同じ会社を受けようと約束していた彼の姿はなく、むしろほっとしてお互い何の言葉もないまま春を迎え自然消滅した。
入社した時期はちょうど会社が事業拡張を展開し、初めて配属された部署も多忙を極めた。同期は美砂の他に3人。おとなしそうに見えるが結構頑固で正義感の強い藤沢真紀。頭がよく冷静で面倒見のよいリーダー格の斉藤周平。ちょっと頼りないが明るく地道に仕事をこなす佐倉良介。バランス良く支え合っているうちに見えてくるものがあった。
そつがなく冷静と思っていた周平は、実は結構な熱血漢だった。真紀がセクハラまがいのことをされた先輩に切れて歯向かった時も、表面上は真紀をなだめながら密かにその先輩のロッカーをぼこぼこに蹴っていた。酒に弱く酔うと地が出て、真紀に絡んで長々ととりとめのない話をしたあげく彼女の肩にもたれて寝てしまう。つまり彼は明らかに真紀を愛していた。普段クールに見えるだけに先輩のロッカーの蹴り跡を見たときは背筋が凍った。一歩間違ったらストーカーになりかねない激情。しかし美砂はなぜかそれ以来周平から目が離せなかった。
朝一番に出社するのは家の近い真紀だった。一方朝が弱い美砂はいつもぎりぎりで、仕事で帰りが遅くなる時は真紀の部屋に泊めてもらう。入社3ヶ月後には美沙の歯ブラシやコップも常備されていた。美砂が泊まるような日はやはり周平も遅くて、仮眠室に泊まることが多い。そんな日の翌朝、真紀は大抵3人分のおにぎりや弁当を用意した。周平の分のおにぎりはいつも少しだけ大きい。胸が痛んだ。
真紀には清水が湧き出るように、彼に愛される理由がいくつも用意されているような気がする。正直で、謙虚で、思いやりがあって。一方の自分は彼の望むものを何一つ差し出すことができない。わざとらしく偶然を装ったり、何かを貸しては見返りを要求したり、少しでも一緒にいる時間を捻出するのに必死だった。
昼食もよく4人でとった。社食で食事を終えると休憩室でまどろむ。今日真紀は持ってきた弁当を食べ終わるや否や郵便局に行くと言って外出していた。良介は寝不足だったらしく周平の脇で爆睡している。周平は自分の本を開きながら、
「美砂は最近何読んでる?」
と尋ねた。共通の趣味である時代小説は美砂と彼をつなぐ唯一無二の糸だ。自分に幾分でも興味をもたれるのは嬉しかった。
「最近は、松井今朝子かな」
「ふーん。直木賞とった奴は読んだことある」
「吉原手引草ね、あれは面白かったなあ」
おまえね、周平は苦笑した。
「吉原とか大きな声で言うな」
「何で?今時だれも反応しないって」
周平は、意外なんだよなあ、と呟いた。
「美砂は一見、付録の付いたカタカナ女性雑誌しか読まない感じだろ。あの本なんか結構中身もシビアだよな、女が読むには」
「だけど女が書いた小説だよ?そんなこと言ったら藤沢周平だって結構きついでしょ」
美砂が好きな小説はみんなそうだ。哀しい運命に翻弄される女は好きな男と添い遂げられずに死んでいったり、その現実を見据えながらたくましく生きてゆく。男たちは女の気持ちを分かりながらも立場上動くことが出来ない。その均衡が壊れた時、男たちは静かに激情を露わにし刀を振りかざす。その姿が寡黙な周平に重なった。でも彼が焦がれるのは健気な真紀だ。私は、初めから実るはずのない恋をしている。美砂は自嘲気味に微笑んだ。
「女にとって残酷な処遇にあればある程、男の復讐にリアリティが出るんだよ。出なきゃ人を斬るなんてなかなか納得出来ない」
「まあ、そうかな」
周平は美砂の迫力に鼻白んで顎をしごいた。重くなりかけた空気を変えようと、美砂は周平に話題を振った。
「私はよく意外って言われるけど、周平はいかにも時代小説読んでる感じだよね。一見ストイックでお侍さんみたいだし、言葉も時々おじさんぽい」
「どこが」
おじさんに反応して膨れる。
「真紀の髪型『おかっぱ』とか言うし。死語だよ、死語」
「言うだろ、おかっぱ!」
・・・馬鹿みたい。せっかく二人きりで話していたのに、わざわざ真紀を思い出させてしまった。今も遠い切なそうな目をして。考えてるんだ、つやつやの髪を揺らして微笑む彼女のことを。
ぶすぶすと燻る嫉妬で焼け付きそうだった。こんな真っ黒な感情こそ、銀色に濡れた刃でばっさりと斬り捨てて、赤い返り血を浴びながら息の根を止めてしまいたい!
焦げ付いてじりじり痛む胸を押さえた時、寝ていた良介が大きなあくびをしながら起き上がった。