第2話 雨に濡れる思い
麻衣の部屋。
「いいかい、麻衣。
『隘地には、必ずこれを先に居て、もって敵を待つ』
これが今回のキーワードだ」
颯太は『孫子』を片手に、眼鏡の奥の目を光らせる。
「……アイチ? 愛知県のこと?」
「狭い場所、という意味だ。
狭い場所には先回りして陣取り、相手を迎え撃つのが定石」
「要は、狭いとことに追い込めってことね」
「その通り。ずばり、戦場は『生徒会室』だ」
「生徒会室?」
颯太がニンマリと笑って続けた。
「心理学には『ボッサードの法則』というものがある。
物理的な距離が近いほど、心の距離も縮まるという理論だ」
「要は、ぴったりくっ付けってことね」
「そう、二人きりで会計作業をする。
狭い密室での共同作業は、親密度を跳ね上げる」
「でも、誰か入ってきちゃうよ」
「その点は任せてくれ、入口で僕が足止めしておく」
颯太は自信満々に、薄い胸を叩いた。
***
翌日。
麻衣は放課後のチャイムと同時に生徒会室へ急いだ。
「今日こそ距離を縮めるんだ……!」
バクバクと暴れる心臓を抑えながら待つこと数分。
ドアが開き、燎生が入ってきた。
「あれ、香川さん一人だけ?早いね」
「そうかな、普通だよ」
麻衣は、笑ってごまかしながら「予算案ファイル」を開いた。
憧れの燎生とのきっかけ作りのために用意しておいたやつだ。
「星野くん、ここの計算方法、あってるかなあ?」
密着しての作業、絶好のチャンス……のはずだった。
「ん?……うーん?」
燎生は、興味なさそうにファイルをパラパラとめくっただけ。
ろくに中身を見もせずに、重いため息をついて匙を投げた。
「これ、まとめ方がちょっと雑じゃない?
俺にはよく分からないや」
「ほ、本当にこれって、わかりにくいんだよね。
こんなの作ったやつ、誰だ……なんて……」
自分だとは口が裂けても言えない。
慌てて、ファイルを引っ込めた。
(おかしいな、去年のと同じはずなんだけど……?
もしかして、分からないとか……そんなはずないよね)
会話は空回りし、気まずい沈黙だけが部屋を支配した。
***
その時。 ガラッとドアが開き、岬麗華が優雅に入ってきた。
(ちょっと、鉄壁の足止め……全然効いてないじゃない!)
麻衣はドアの方を睨む。
燎生は救世主を見るような目で麗華に駆け寄った。
「岬さん! ちょうど良かった。
香川さんの話、聞いてやってくれないかな?
俺には難解すぎてお手上げなんだ」
「あら、そう。どれ、見せて」
燎生は「あとは二人に任せたよ」と爽やかに去ってしまった。
残されたのは、恋のライバルである麗華と二人きり。
「ここは、こう処理すべきね」
麗華は麻衣の隣に座ると、鮮やかな手つきで数字をまとめていく。
その仕事ぶりは完璧で、一切の無駄がない。
(こいつ……めちゃくちゃ有能じゃん)
敵ながら敬意を抱いてしまう自分が、麻衣は少し悔しかった。
結局、二人はそのまま奇妙な共同作業を進めることになった。
***
帰宅時、昇降口の下駄箱の前。
外は急な夕立に見舞われていた。
「もう、ついてない」
傘を持っていなかった麻衣は、途方に暮れて立ち尽くす。
「どう? 作戦は上手くいったかい」
のんきに傘を差した颯太が現れた。
「麗華が来ちゃったじゃない。
どうして、足止めしてくれなかったのよ!」
「……ごめん。降水確率の計算をミスってね。
傘を取りに戻っていたんだ」
「この、ポンコツ軍師!」
「とんだ呉越同舟だったね」
怒り心頭の麻衣を、颯太は笑いながら自分の傘に招き入れた。
***
狭い路地。
一つの傘に肩を並べて歩く。
「……狭いんだけど」
「我慢しろ。はみ出したら濡れるぞ」
そんな文句を言い合っていた時、背後から車の音が近づく。
「危ないっ!」
颯太が麻衣の肩を強く抱き寄せ、自分の体で庇う。
狭い傘の中で、麻衣の顔のすぐ横に、颯太の胸板があった。
(……颯太って、こんなに背が高かったっけ?)
雨音だけが激しく響く。
至近距離から伝わる体温と、意外にしっかりした腕の力。
不意に訪れた密着に、麻衣の心臓が波打った。
「……かかってないか?」
颯太が顔を覗き込んできた。
麻衣の頬が火を噴くほど熱くなる。
慌てて彼を突き放した。
「……大丈夫! 平気!」
顔を背けながら、麻衣は必死に自分に言い聞かせる。
(落ち着け、香川麻衣。
これは単なるハプニングよ!)
熱くなった麻衣の頬を、雨が濡らした。




