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最初の入居者

作者: Lumiere8888
掲載日:2026/02/08

この部屋には、

まだ誰も住んでいないはずだった。

内見前に書かれた苦情は、私の名前で届いていた。


そのクレームは、午前九時ちょうどに届いた。

件名は「○月○日 内見後のご連絡」

私はまだ、その物件を内見していない。


私は不動産会社の事務で、今日は404号室の内見対応のはずだった。

だから「内見後のご連絡」という件名自体は珍しくない。日時の打ち間違い、テンプレの誤送信。よくある話だ。


――ただ、差出人名を見て、指が止まった。


――私の名前だった。


内容は簡潔だった。

「部屋に入った瞬間、帰りたいと思いました」

「理由は分かりません」

「ただ、ここに住むべきではない気がします」


受信は“今”。送信は“未来”。

送信時刻は、三日後になっていた。私は、まだ内見の予定すら確認していない。


画面を閉じようとして、最後の一文に気づいた。

「この記録は、必ず保管してください」


なぜか、それだけは――

もう、知っている気がした。


その日、私は会社のカレンダーを二度見した。

内見の予定は、確かに今日だった。物件名と部屋番号――404号室。


不思議と、初めて見る気がしなかった。

地図も、鍵の番号も、案内文も。どれも「確認」した記憶だけが、薄く残っている。


エレベーターの中で、スマートフォンが震えた。新着メールはなかった。

――はずなのに、私は画面を見ていた。


02:17


まだ深夜のはずだ。時計は昼を指している。

それなのに、その数字だけが正しいと感じた。

いや、正しいというより――帰れない合図みたいに。


廊下に出ると、私はもう404号室の前に立っていた。

鍵を差し込む前に、なぜか思い出した文章がある。


―「あなたは、もう一度ここに来ます」


私は、その文を“読んだ”覚えがない。

けれど、書いた気はした。


ドアノブに触れた瞬間、胸の奥で、遅れていた何かが合流した。


ああ、と私は思った。

来てしまった。



ドアを開けると、室内は驚くほど普通だった。

家具もない。生活感もない。新築特有の、少しだけ薬品っぽい匂いがするだけだ。


拍子抜けするほど、何もない。


私は一歩、足を踏み入れた。

その瞬間、奥の部屋から声がした。


「……あれ?」


男の声だった。

年齢は、たぶん四十代くらい。聞き覚えはない。

けれど、聞き慣れている気がした。


「もう来たんですか?」


奥の部屋から、男が顔を出した。

スーツ姿で、手にはコンビニの袋を持っている。

まるで、ここに住んでいるかのような自然さだった。


「え……?」


言葉が出なかった。

この部屋は、まだ誰も住んでいない。

鍵は、私が最初に開けたはずだった。


男は、不思議そうに首をかしげた。


「さっき、山で別れましたよね?」


私は、その言葉の意味が分からなかった。

山なんて行っていない。この男と会った記憶もない。


それなのに――

“訂正したい気持ち”より先に、

“思い出しそうな感覚”が来た。


「あれ?違いましたっけ」


男は軽く笑って、袋を差し出した。


「これ、余ったんで。よかったら」


中には、温かいおにぎりが入っていた。

湯気が、はっきり立っている。


私はそれを見た瞬間、なぜか強く思った。


――ここで何かを受け取ったら、戻れなくなる。


理由は分からない。

でも、その感覚だけは、妙に確信に近かった。


私は、少しだけ迷ってから、おにぎりを受け取った。

まだ温かい。指先に、はっきりと熱が伝わる。


普通だ。

触れた感触も、匂いも、重さも。

作り物の感じは、何ひとつなかった。


「ありがとうございます……」


そう言いながら、

自分の声が、少し遅れて聞こえた気がした。


男は、安心したように笑った。


「よかった。

ここ、電波入らないし、コンビニ遠いんですよ」


電波。


私は無意識に、ポケットのスマートフォンを確認した。

圏外だった。


さっきまで、確かに繋がっていたはずなのに。


「……あの」


聞こうとして、言葉を選んだ。

何を聞けばいいのか、分からなかった。


あなたは誰ですか。

ここに何をしているんですか。

どうしてここにいるんですか。


どれも、違う気がした。


男のほうが、先に口を開いた。


「もう、何回目でしたっけ」


「……何がですか?」


「ここに来るの」


その言い方が、あまりにも自然で、

私は一瞬、笑いそうになった。


「初めてです。

今日が、初めてです」


男は、少し困った顔をした。


「そう言いますよね。

皆さん」


“皆さん”


その言葉だけが、部屋の中で、妙に反響した。


私は、手に持ったおにぎりを見た。

ラップの端に、黒いマジックで小さく書いてある。


観測ログ:02:17


02:17


賞味期限でも、商品番号でもない。

ただ、時刻だけ。


私はその数字を見た瞬間、

理由もなく確信してしまった。


――これは、食べる時間じゃない。

「来た時間」だ。


男は、何気ない調子で言った。


「それ、いつもその時間に配られるんです」


「……誰に?」


男は、少しだけ間を置いてから答えた。


「次に来る人に」


私は、包み紙を少しだけ開いて、おにぎりを見た。

中身は、ただの昆布だった。

拍子抜けするほど普通で、逆に安心してしまった。


ひと口、かじる。


味も、温度も、匂いも、全部ちゃんとしている。

変なところは何もない。

……はずだった。


飲み込んだ瞬間、

部屋の音が、すっと消えた。


エアコンの低い音も、

遠くの車の気配も、

自分の呼吸音さえも。


世界が「無音」になる。


代わりに、耳の奥で、

小さく紙をめくるような音がした。


――ぱら。


視界が、一瞬だけ二重になった。

同じ部屋が、少しズレて重なって見える。


男の姿も、二人分あった。

片方は今と同じ。

もう片方は、少しだけ若い。


「……あ」


声を出したつもりだったが、

音にならなかった。


若いほうの男が、私を見て言った。


「やっぱり、食べましたね」


その言い方が、

結果を確認する人の声だった。


「最初の人も、そうでした。

次の人も、そう言ってました」


「……何の話ですか」


そう聞いたつもりだった。

でも、口は動いていない。


男は、私の手元を見た。

食べかけのおにぎり。


「それ、もう“記録”です」


「……記録?」


「はい。

ここに来た人が、最初に残す記録」


私は、自分の手を見た。

指先が、少しだけ透けている。


ラップの文字――02:17が、

皮膚の下に、薄く浮かんでいた。


男は、さっきよりも

ずっと優しい声で言った。


「大丈夫です。

まだ“二回目”ですから」


「……二回目?」


「初回は、皆さん、

何も覚えてないんですよ」



鍵は、何の抵抗もなく回った。

想像していたより、音は静かだった。



その瞬間、

私のスマートフォンが、ポケットの中で震えた。


圏外だったはずの画面に、

新着メールが一件。


件名:内見後のご連絡

差出人:私の名前


私は、もう開く前から、

中身を知っていた。

部屋に入った瞬間、

帰りたいと思いました。

でも、もう一度来ることになる気がします。そして最後の一文。

この記録は、次の人のために残してください。男は、にこりと笑った。

「ほら。ちゃんと書いてあるでしょう?」

私は、その笑顔を見ながら、

はっきり理解してしまった。

ここは、事故物件じゃない。

 “体験が蓄積される場所”だ。


人じゃなくて、

時間が住んでいる部屋。

404号室は、

 そういう部屋だった。



ノックの音は、思っていたより小さかった。


 コン、コン。


まるで、間違った部屋を確認するみたいな、遠慮がちな音。


私は、その音を聞いた瞬間、

なぜか「やっと来た」と思ってしまった。


男が、私を見る。


「次の人ですね」


「……誰がですか」


「あなたです」


意味が分からなかった。

でも、身体だけが先に動いていた。


私は、ドアのほうへ歩いていた。


ノブに手をかけると、

外の廊下が、ほんの一瞬だけ“巻き戻った映像”みたいに揺れた。


 同じ構図。

 同じ照明。

 同じ距離感。


でも、立っている人物だけが違う。


若い女性だった。

二十代前半くらい。

スマートフォンを握りしめて、少し緊張した顔をしている。


「あの……404号室の内見で……」


そのセリフを聞いた瞬間、

胸の奥で、何かがぴったりはまった。


 ああ、と私は思った。


 ――これは、私が言った言葉だ。


以前。

いつか。

何度目かの自分が。


私は、微笑もうとした。

でも、表情がうまく動かなかった。


「どうぞ」


代わりに、そう言っていた。


声は、普通だった。

優しくて、事務的で、よくある案内の声。


女性は、少し安心したように笑った。


「ありがとうございます。

 なんか……電波入らないですね、ここ」


「……そうですね」


私は、そう答えながら、

自分のポケットに入っているスマートフォンを思い出していた。


圏外。

でも、メールは届く。


それが、この部屋のルールだった。


女性が、部屋に足を踏み入れる。


その瞬間、私は気づいた。


彼女の手には、

さっき私が食べたのと同じ、

コンビニのおにぎりが握られている。


ラップの端に、黒い文字。


 02:17


女性は、何気ない調子で言った。


「これ、さっき下の人にもらって……

 余ってたからって」


私は、その言葉を聞きながら、

自分が“どの位置にいるか”を、はっきり理解してしまった。


私はもう、

来る人じゃない。


配る側だ。


男が、背後から静かに言った。


「大丈夫ですよ。

 最初は皆さん、気づかないだけです」


「……何にですか」


「自分が、

 “何回目の人”なのかに」


女性が、私のほうを見て笑う。


「じゃあ、食べますね」


私は、その瞬間だけ、

本気で止めようか迷った。


でも、口から出たのは、

全く違う言葉だった。


「……どうぞ」


その声を聞いたとき、

私は、はっきり分かった。


この部屋で一番怖いのは、

幽霊でも、事故でも、時間でもない。


 “ちゃんと案内できてしまう自分”だった。


女性は、おにぎりを一口かじった。

その瞬間、私と彼女の間の空気が、ほんの一瞬だけ歪んだ。


 音が遅れて届く。

 匂いが先に届く。

 視界が、ほんの少しだけズレる。


「……あれ?」


女性は首をかしげた。


「なんか、ここ……さっきより静かじゃないですか?」


私は答えられなかった。

静かになったのは、部屋じゃない。

世界のほうだった。


男が、いつの間にか窓際に立っていた。外を見ている。


「ほら」


そう言って、窓を指さす。


私は、そこを見て、息を止めた。


外は、廊下じゃなかった。

マンションの中庭でも、道路でもない。


同じ404号室が、向かい側に並んでいた。


まるで、鏡の中の世界みたいに。

同じドア。

同じ照明。

同じ位置。


ただ一つ違うのは――

向こうの部屋の前にも、誰かが立っていることだった。


若い男性。

スマートフォンを見ながら、少し緊張した顔。


そして、その背後には、

また別の404号室。

さらにその奥にも、404号室。


 無限に続く、同じ構図。


「……なに、これ」


女性の声が、少し震えた。


男は、穏やかな調子で言った。


「404号室は、一つじゃないんです」


「……どういう意味ですか」


「場所が違うだけで、

 全部“同じ部屋”なんですよ」


私は、その言葉を聞いた瞬間、

すべてが繋がってしまった。


 未来から届くクレーム。

 何度も来る人。

 配られるおにぎり。

 記録として残る体験。


 これは、事故物件なんかじゃない。


 “現実の分岐点”が、物件として固定されている場所。


男は、こちらを見て言った。


「ここに来た人は、

 全員、どこかで“別の選択”をした人です」


「別の……選択?」


「はい。

 本当は行かなかったはずの道。

 本当は言わなかった言葉。

 本当は会わなかった人」


 男は、少しだけ笑った。


「そのズレが、

たまたま“部屋”の形をしているだけです」


私は、向かい側の404号室を見た。

そこに立っている若い男性と、

目が合った。


彼は、私と同じ表情をしていた。


 戸惑い。

 不安。

 そして――


なぜか、少しだけ安心した顔。


私は、その瞬間、はっきり理解した。


この場所は、

人を閉じ込めるための場所じゃない。


現実から零れ落ちた人を、

回収するための場所だ。


男が、静かに言った。


「だから、ここは事故物件じゃありません」


私は、喉の奥が乾くのを感じながら、聞いた。


「じゃあ……ここは何なんですか」


男は、少し考えてから答えた。


「……“404”です」


「……?」


「見つからなかった現実の、保管場所」



男は、私と女性を交互に見た。


「ここに来た人には、

 一度だけ“選び直す権利”があります」


「……選び直す?」


女性が、小さく聞き返した。


男は頷いた。


「元の現実に戻るか、

 それとも、こちらに残るか」


私は、その言葉を聞いた瞬間、

なぜか胸が締めつけられた。


「戻れるんですか……?」


「ええ。ただし」


男は、少しだけ間を置いた。


「誰かと入れ替わる必要があります」


部屋の空気が、ぴんと張りつめた。


「……どういう意味ですか」


私の声は、思っていたより低かった。


「あなたが戻るなら、

 代わりに“誰か”がここに来る」


男は、淡々と言った。


「それは、今この部屋に来るはずだった人かもしれないし、

 もうすぐ別の404に辿り着く人かもしれません」


女性が、無意識に一歩後ずさった。


「……それって」


私は、喉の奥がひりつくのを感じながら、言った。


「誰かを、代わりにここへ……?」


「そうです」


 男は、驚くほど穏やかに答えた。


「でも安心してください。

 その人にとっては、

 “最初からここに来る予定だった現実”になります」


私は、向かい側の404号室を見た。

さっき目が合った、若い男性。


彼は、まだ何も知らない顔で、

ドアの前に立っている。


女性も、その方向を見ていた。


「……戻ったら」


彼女が、震える声で言った。


「私、ここに来たこと……忘れるんですか?」


「ほとんどの人は」


男は、少しだけ微笑んだ。


「ただ、“選ばなかった気がする”という違和感だけ残ります」

その言葉が、妙にリアルだった。


私は、その瞬間、

今まで何度も感じてきた感覚を思い出した。


あの時、別の選択をしていたら。

あの時、違う道を選んでいたら。

あの人に、あの言葉を言っていたら。


理由のない後悔。

根拠のない“もしも”。


男は、静かに言った。


「それが、404の副作用です」


私は、女性を見た。

彼女は、唇を噛みしめていた。


「……あなたは、どうするんですか」


彼女が、私に聞いた。


私は、すぐに答えられなかった。


戻りたい気持ちがないわけじゃない。

でも、ここに来てから、

妙に落ち着いている自分もいた。


男が、最後にこう言った。


「決めるのは、

 “今のあなた”です」


「戻るのも、残るのも、

 どちらも正解です」


「ただし」


その声だけ、少し低くなった。


「一度選んだら、

 二度目はありません」


私は、目の前のドアを見た。


元の現実に続いているはずのドア。

そして、無限に並ぶ404。


なぜか、はっきり分かってしまった。


どちらを選んでも、

もう“完全な元の世界”には戻れない。


404号室は、

選び直す場所じゃない。

選び直したという事実だけが、

一生残る場所だ。



男は、私の視線の先――

向かい側の404号室を、静かに指さした。


「入れ替わる相手は、

 もう決まっています」


「……誰ですか」


私は、自分の声が、少しだけ震えているのを自覚した。


男は、答えなかった。

代わりに、向かい側の部屋のドアがゆっくりと開いた。


出てきたのは――

さっきまでそこに立っていた、若い男性。


ではなかった。


私だった。


同じ身長。

同じ髪型。

同じ服装。


ただひとつ違うのは、

向こうの私は、少しだけ疲れた顔をしていることだった。


「……え?」


女性が、小さく声を漏らした。


向こうの私も、こちらを見て、同じように固まっている。

鏡を見るよりも、はっきりとした“自分”。


 でも、どこか違う。


 向こうの私が、口を開いた。


「……ここ、404号室ですよね?」


その言い方。

その間の取り方。

その不安そうな声。


全部、覚えがあった。


私は、さっきまで、

まったく同じことを言っていた。


男が、淡々と説明する。


「あなたが戻るなら、

 代わりに来るのは“別の現実のあなた”です」


「同じ人生、

 同じ選択、

 ただし、ひとつだけ違う分岐をしたあなた」


向こうの私は、こちらを見て、困ったように笑った。


「……なんか、

 すごく嫌な予感するんですけど」


そのセリフを聞いた瞬間、

胸の奥が、きゅっと縮んだ。


それも、私の癖だった。


女性が、私に小さく囁いた。


「……あの人、

 あなたですよね?」


「……そうみたいです」


私は、目を離せなかった。


向こうの私の目の下には、

薄く、クマがあった。


私には、まだない。


でも、

いつか、できるかもしれないものだった。


男が、静かに言う。


「どちらが残って、

 どちらが戻るか」


「それは、あなた自身が決めてください」


向こうの私が、こちらに向かって言った。


「……あなたは、

 戻りたいですか?」


私は、その質問を聞いて、

はじめて気づいた。


これは、入れ替わりの話じゃない。


未来の自分と、

今の自分が、場所を取り合う話だ。


戻るということは、

 “あの顔”になること。


残るということは、

 “あの顔”を、ここに置いていくこと。


私は、向こうの自分の目を見た。


そこには、後悔も、疲労も、諦めも、

全部、うっすらと映っていた。


そして同時に――

私がまだ知らない、

 “何かを乗り越えた人の目”でもあった。


男は、最後にこう言った。


「404は、

 “間違った現実”じゃありません」


「ただ、

 あなたが選ばなかった現実です」


向こうの私が、少しだけ笑う。


「……ねえ」


「そっちの私は、

 今、幸せですか?」


その問いに、

私は、すぐに答えられなかった。


でも、分かってしまった。

この質問に答えること自体が、

もう――


どちらかの現実を、否定することになる。



向こうの私が、じっとこちらを見ている。


「……今、幸せですか?」


その問いは、

誰かに聞かれたというより、

自分の中から浮かんできた言葉みたいだった。


私は、すぐに答えられなかった。


幸せかどうかなんて、

普段、考えたこともなかった。

忙しくて、

それなりにうまくやっていて、

大きな不満もなくて。


でも。


 「それ」を幸せと呼ぶかどうか、

 私は決めた覚えがなかった。


向こうの私は、少しだけ視線を逸らした。


「私はね……」


彼女の声は、

私よりも、ほんの少し低かった。


「正直、

 楽ではなかったです」

胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「選ばなかったほうの人生って、

 やっぱり、しんどいところも多くて」


「でも」


彼女は、こちらを見て、

小さく笑った。


「それでも、

 あの時、あの選択をしてよかったって、今は思ってます」


その笑顔は、

私の知っている“自分の笑顔”とは、違った。


もっと、静かで。

もっと、重みがあって。

ちゃんと生きた人の顔だった。


男が、私の横で言う。


「今のあなたは、

 “まだ決めていない”状態です」


「だから、

 ここに来たんですよ」


私は、向こうの私を見た。


あの人は、

私が選ばなかった現実を生きて、

ここまで来た人。


私は、あの人を、

まだ生きていない。


私は、ゆっくり息を吸って、言った。


「……今の私は」


声が、少し震えた。


「幸せかどうか、

 分かりません」


向こうの私は、驚いた顔をしたあと、

なぜか、安心したように頷いた。


「そっか。

 それ、いい答えだと思います」


「え……?」


「だって、

 “幸せだ”って即答できる人は、

 もう、ここには来ないから」


その言葉が、

静かに胸に落ちた。


男が、穏やかに言う。


「404に来る人は、

 みんな“途中の人”です」


「完成していない。

 でも、間違ってもいない」


私は、向こうの私と、しばらく見つめ合った。


どちらが本物かなんて、

もう、どうでもよかった。


ただひとつだけ、

はっきりしていることがある。


私は、今、

 “選べる場所”に立っている。


向こうの私が、最後に言った。


「ねえ」


「もし、ここに残るなら……

 ちゃんと、自分の人生を生きてね」


その言葉は、

応援みたいで、

別れの言葉みたいだった。


私は、少しだけ笑って、答えた。


「……そっちも」


「私の分まで、

 ちゃんと生きて」


その瞬間、

404号室の照明が、ふっと揺れた。


まるで、

どちらかの選択を、

世界が待っているみたいに。



私は、男のほうを見て言った。


「……戻ります」


その言葉は、驚くほど自然に出た。

自分でも、少しびっくりするくらい。


向こうの私が、ほっとしたように息を吐く。


「……そっか」


「よかった。

 それなら、私は——」


彼女は、何かを言いかけて、

言葉を止めた。


男が、静かに頷く。


「分かりました。

 では、手続きを始めます」


私は、その言葉を聞きながら、

なぜか“終わった感じ”がしなかった。


むしろ。


何かが、ようやく始まる感じだった。


向こうの私が、こちらに近づいてくる。あと一歩で、触れられる距離。


「……じゃあ」


彼女が、少し照れたように笑う。


「私、戻りますね」


私は、にこっと笑って答えた。


「うん。

 気をつけて」


男が、向こうの私の背中に手を置いた。


「目を閉じてください」


向こうの私が、素直に目を閉じる。


私は、その様子を見ながら、

自分の心拍数が、妙に落ち着いていることに気づいた。


男が言う。


「では——戻ります」


照明が、一瞬だけ強く光った。


向こうの私の輪郭が、

少しずつ、薄れていく。


私は、その光の中で、

静かに一歩、後ろへ下がった。


ほんの、半歩分。


誰にも気づかれないくらいの距離。


でも、

元の現実に続くはずの位置から、

確実にズレた場所。


男が、ふっとこちらを見る。


その視線だけで、

すべて、伝わってしまった。


「……なるほど」


彼は、何も言わずに、微笑んだ。


光が消える。


そこには、もう

 “向こうの私”はいなかった。


部屋に残っているのは、

私と、男と、

無限に並ぶ404号室だけ。


男が、ゆっくりと言う。


「戻ったのは、

 “あなたが演じたあなた”です」


「……私は?」


「あなたは、

 ここに残りました」


私は、深く息を吸った。


不思議と、後悔はなかった。

怖さも、なかった。


ただ、

自分の人生を、自分で選んだ感じだけがあった。


男が、ドアのほうを見て言う。


「では、次の人が来ます」


ノックの音。


コン、コン。


私は、その音を聞いて、

もう、振り返らなかった。


ドアの前に立つ。


手を伸ばす。


そして、

いつかの自分と同じ声で言った。


「……どうぞ」


404号室は、

今日も静かに、

 “選ばれなかった現実”を迎え入れる。


まるで、

最初から、

私がここにいたみたいに。


私は、まだその意味を知らない。

この部屋は、まだ閉じていない。


この部屋は、まだ閉じていない。

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