破綻性格者の欺瞞解放という理解と生々しすぎる現実よりの影響より語来る嘔吐、燦々とした恐怖というパラドクスの震え、妄想
逸脱した方向へ走る思惟へは何の権利も待たされない。トリックスターという呼び名もある様であるが、しかしに現実へ接触し、確かなその精神上の保存が存しなければ勝手に自滅自壊し、いずれ自殺する。故に思惟は蓄え、正史に則るところの研究と、理念的ではないところによる個人主体としてが専ら行動をなすという点に、立論根拠が初めて持たされる。
完全な狂気はいい。独立的なホメオスタシスを確保しているから、破滅しない。身体上破滅しようとも、何やら神秘的な威力によって彼の精神は健常そのものに保たれるのである。しかしどうだ、仮にも日本人、共同精神、捨象に当然の如き妥協と寛容曖昧とが悲観と重なると、半端、此も嘆くに値せぬボヘミアンもどきの、癖が現れる。此は回想である。そして記憶とは消えるべきものなのである。人が記憶を縛るべきであって、記憶が人を縛るべきではない。何故なら記憶というものは存在体としては在らぬどころか、寧ろに現実が紛われる如きの観を一層、敏感関係妄想へと発展しかねる意識混濁を誘引するだろうと、勝手に推理してみる。
頑なに避けるのは、それに一つありえそうであるのは心的外傷である。それはインパクトと心理上の圧倒のために、掘り返されて身の堪えることから邪推、回避が前提、基軸にされている…とでもいってよかろうか。しかしここまでの文章を追って、私は内面を叙述しているのみで、形像にしても主観的で、よく言えばキェルケゴールの如き、悪しく言えば引きこもりのそれである。心が弱く、振り切る機会も見失っている最中にいるのであろう。
人間は人間が信じる程に神秘的な存在ではないし、その必要もないのであろう。神秘的に人間をその把捉や理論へ(素晴らしい傑作も数少なくない…、が、冗長を承知で、そんな驕った知識人らしき言を吐くのも、誰も好まざることであろうが、補足的である由に。)上げようという歴史は長いが、人間を生理上にその限界性を率直に認容しておこうという歴史も、短くはない。実存思想はあくまで身体上の存在である人間への科学的なアプローチとして存在する限りで、歴史上の一ムーブメントから脱して思想的な位置立場として有力、自体になるのではなかほうか、と考えてみるのである。




