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第8話 芽吹いた感情②

 放課後の陽射しは、昼よりも少し柔らかくなっていて、空の色も淡く滲んでいた。結唯は一人、川沿いの道を歩いていた。服の袖が風に揺れて、少し切ない空気が肌を撫でる。


 結唯の足は、無意識に河川敷へと向かっていた。それは、その場所にある、少しだけ古い記憶のせいだった。

 給食の際の不可思議な感情。

 いっきに頬が紅潮して、今でも熱を帯びているんじゃないかと錯覚する。


(秋くんに助けられた、あの日)


 少しでも落ち着こうと、河川敷に足を運んだが、いつしか秋のことばかり考えてしまっていた。


 低い水音と草の匂い。小さな石の上で滑って浅瀬でおぼれてしまったあの日。


 焦っておぼれた自分に、秋が必死に手を差し出してくれた。あのときの手のひらのぬくもり、腕の力強さ。そして、自分のために必死になってくれた、あの顔。


 今も、鮮明に思い出せるのに、給食のときにはまともに見られなかったその顔を、結唯は記憶の中でそっとなぞった。


「大人になるって…なんだろう」


 ぽつりと漏れた言葉は、誰に向けたものでもなかった。


 昼の一連のやりとりを思い出し、答えの見つからない自分の感情の糸を無意識に手繰るけど、やっぱりその先の答えは見えてこない。


 昔の記憶を思い出しつつ、怖かった思い出と、優しかった思いでに少し浸りながら、夕刻の冷たい風をそっと感じていた。


 ――結唯が小学3年生、秋たちが4年生の頃


 夏の陽射しがゆるく差し込んだ午後、学校が終わってすぐの河川敷は、土手の草が少しだけ新しい芽をつけていた。小さな空き時間を楽しむように、結唯、秋、澪、奏多の四人は川沿いに集まっていた。この日、咲は夏風邪で学校を休み、自宅で療養していた。


 結唯はひとり、川岸に咲いていた小さな花に目を留めてしゃがみ込む。水面がきらきら光っていて、草のすき間から見えるその輝きに、何か心を引かれるように指を伸ばした。


 近くにあった大きめの石——それを、ほんの少しだけ越えてみたくなった。手をつけば届きそうな距離だったし、浅そうに見えた川の流れが安心感をくれた。


「せーのっ……!」


 つぶやいて、ほんの少し勢いをつけて片足を出す。


 その瞬間だった。


 結唯が石を飛び越えようとした拍子に、足を滑らせて川の中へ、どぼんと落ちた。水しぶきがあがり、細い声が「ひゃっ」と漏れた。


 水は見た目より冷たく流れも早くて、結唯はあっという間に足元をさらわれた。足がつかない。水中でうまく身体の向きを保てず、ぱしゃり、ぱしゃりと手を振っても、何に触れられるわけでもない。


「……っ、やっ!……たす……っ!」


 声にならない叫びが、澪と奏多の耳に届いた瞬間、秋がすでに川の近くまで駆けていた。躊躇のない動きだった。


 奏多が叫ぶ間もなく、秋はすぐに靴を脱ぎ捨て、服を着たまま腰まで浸かっていた。


「結唯!」


 短く叫んで、すぐに腕を伸ばす。その声で、結唯はどうにか顔を上げた。泣きそうだった。だけど、水で揺らぐ視界の中に秋の顔を見た瞬間、少しだけ手を伸ばす勇気が湧いた。


 秋の腕が結唯の袖を掴む。濡れた重みのなかでバランスをとりながら、秋は自分の身体を川底に踏ん張らせて、ゆっくり引き寄せるようにして結唯を抱きかかえた。


 川から引き上げられた結唯は、濡れた髪を顔に貼りつかせながら、息を荒げていた。その頬には涙が混じった、水の滴がついていた。


「だいじょうぶ?」


 秋の声は小さかったけれど、あたたかかった。


 結唯は言葉にならず、ただ小さく頷くだけだった。胸の中でひゅっと冷たくなっていたものが、秋の手の温度で少しずつ溶けていくようだった。


 澪と奏多が駆け寄ってきて、タオルを広げながら「もう!ちゃんと見てなよ!」と口では叱るものの、その手は優しかった。


 その日から——秋の顔を思い出すと、結唯は少しだけ胸がきゅっとなるようになった。理由はわからないけれど、その感覚は、確かにあの夏の川に流れていた。





 懐かしい記憶を思い出していると、いつの間にか徐々に日が暮れてきたいた。

 沈みゆく夕日をしばらく眺めていると、後ろから誰かの足音が聞こえてきた。


 振り返り見上げると、薄く笑みを浮かべた澪が立っていた。


「結唯ちゃん、ここに来てたんだね」


 そういうと、結唯の隣に腰を下ろし、目の前を流れる河川に目線を移した。


 一拍おいて、


「昔のこと、思い出してたの?」


 結唯は小さく頷いた。


「……うん。秋くんに助けられたあの日。川、すごく冷たくて。怖かったけど、秋くんの手、あったかくて」


 澪はふっと笑う。


「懐かしいね。あのときはびっくりしたよ。奏多も私も突然のことに驚いて動けなかったけど、秋だけがすぐ気づいてすっと動いたから。」


「うん…」


 結唯は頷きながら、自分の胸の中にある気持ちにそっと手を触れる。


 風が静かに流れた。水面に映る夕空が揺れて、草の間から見える空が少しだけ色を変え始める。結唯は胸元に添えた手をゆっくり下ろして、指先で土手の草をつまむ。


「……私、あのときのこと、すごく覚えてる」


 声は細くて、ほんの少しだけ震えていた。


「川に落ちたとき、秋くんが一番に動いてくれて。怖かったのに、秋くんが来た瞬間、ほんとに……ほっとしたの」


 澪は横顔でその言葉を聞いて、何も言わずにうなずいた。 空気を乱さないように、沈黙を受け止めるように。 そして、一拍置いて、ぽつりとつぶやいた。


「秋くんのこと、見ようとしてるんだね」


 結唯はその言葉に少しだけ驚いたように目を向けた。 でもすぐに、その視線を水面に戻す。


「……うん。見たいけど、うまく見れないの。顔、ちゃんと見ようと思うんだけど……なぜか、まっすぐ見られないの」


「それはきっと、心が動いてるってことだよ」


 澪はやわらかい声でそう言うと、スニーカーのつま先で小石を転がした。小石がひとつ、川辺に転がる。


「誰かのことを意識するって、きっと自分の中にそれだけ深く残ってるってことだし。秋くんの顔が直視できなくても、焦ることはないと思うよ」


 結唯はしばらく黙ったまま、夕陽に染まる川の流れを見ていた。風に吹かれた髪が頬に触れ、その感覚にふと目を閉じる。


 そして、ほんの少しだけ笑った。薄く、けれど確かに。


「……ありがとう、澪ちゃん」


 その言葉の温度に、澪も同じように微笑みを返した。


 陽はゆっくりと地平へと降りていく。帰り道に伸びるふたりの影が、土手の草を長く撫でていた。

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