第6話 青い頬
花蓮は咲の肩をぽんぽんと叩いて、「咲ちゃんは悪くないよ〜」と笑ってみせたが、秋の視線はまだ鋭かった。
その鋭さに、花蓮は一瞬だけ目を泳がせた。
「……あ、やば」
小さくつぶやくと、絵筆を水道に突っ込んで、くるりと背を向ける。
「じゃ、反省したってことで〜」
そそくさと、軽い足取りで昇降口の方へ歩き出す。
秋はその背中を見て、タオルを机に置いた。 そして、絵の具のパレットに残っていた青を指先ですくい取り、無言のまま花蓮のあとを追い始めた。
「かーれーんー?」
低く、静かな声。 でも、その足音は確かに“追いかける”音だった。
花蓮は振り返らず、「え〜、逃げるが勝ちって言うし〜」と軽く言いながら、歩幅を広げる。 咲はそのやりとりをぽかんと見ていたが、すぐに笑い出した。
「花蓮ちゃん、本気で逃げてる!」
廊下の先で、秋が花蓮の肩をつかもうと手を伸ばす。 花蓮はひらりと身をかわし、階段の方へと駆けていく。
「ちょ、ほんとに怒ってる!? やばっ!」
花蓮の声が階段に響き、春の空気がその音を運んでいった。
秋は無言のまま追いかける。 指先には、まだ青い絵の具が残っていた。その指先が狙うは、柔らかそうな雪見大福。
「うそ!? うちのほっぺを狙ってる!? やめてやめて! 顔はダメ! 顔は女子の命!」
花蓮は叫びながら、階段を駆け上がる。 その声に、咲の笑い声が重なった。
「花蓮ちゃんもおにぃも本気だ!」
二人の本気度が周囲に伝わるほど、どうやら秋もマジなようだ。
階段の踊り場で、秋の手がついに花蓮の腕をとらえる。 花蓮が振り返るより早く、秋の指先が彼女の頬にそっと触れた。
青い絵の具が、ほんの少しだけ、花蓮の頬に乗った。
「これでおあいこ」
秋の声は低かったが、どこか満足げだった。
花蓮は頬を押さえて、「うわ、やられた……!」と叫びながら、咲のほうを振り返った。
「咲ちゃん、見た!? 秋くん、けっこう根に持つタイプだよ!」
咲は笑いながら頷いた。
「うん。でも、おにぃもちょっと楽しそうだった」
そのとき、階段の下から足音が聞こえた。 軽く、でも確かに近づいてくる音。
「……何してるの」
澪だった。
教室から騒ぎを聞きつけて、静かに階段を上ってきた澪は、踊り場の二人を見て、すぐに状況を察した。 花蓮の頬に青い絵の具、秋の指先にも同じ色。近くにいた咲の笑顔と、空気の温度。
澪はため息をひとつだけ落とした。
「顔に絵の具って、小学生でもやらないよ」
その言葉に、花蓮は「え〜、でも咲ちゃんは喜んでたし〜」と笑ってみせる。 咲は「えへへ……」と赤くしながら、頬をかいた。
少し遅れて、結唯も階段の下から姿を見せた。 彼女は何も言わず、ただ踊り場の空気を感じ取るように立ち止まる。
一瞬だけ秋の右手に残る青い絵の具と、花蓮の頬に乗った色を見て、目を細めるも、花蓮の頬の青、秋の沈黙、咲の笑顔。
それぞれが違う温度を持っていて、結唯は小さく息を吐いた。
「騒ぎすぎると、佐々木先生に怒られるよ」
澪はため息交じりにそう言って、肩をすくめた。
秋は澪の言葉に何も返さず、タオルで花蓮の頬を軽く拭った。 花蓮は「やさしい〜」と茶化したが、秋は作業をこなすかのように、無表情だった。
咲はその様子を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
しばらくして状況が落ち着いたころに奏多がやってきて、盛大にため息をついた。
「馬鹿どもが馬鹿やってないで、早く片付けるぞ。次の授業に遅れる。」
そう冷たく言い放った。
「うちは馬鹿じゃないもん!」
売り言葉に買い言葉。
廊下の空気はまだ春の名残を纏っていて、ほんのり甘い。奏多の言葉に一瞬静まり返った空気の中、花蓮が咲の背に隠れるようにしてふっと笑った。
「ねえ、咲ちゃん。うちら馬鹿かな?」
咲は少し考え込んだふりをして、いたずらっぽく笑みを浮かべて頷いた。
その答えに、花蓮は「楽しかったらいっか~!」と声を上げ、奏多も思わず吹き出す。秋は一瞬だけ、口の端を上げた。
そのとき、階段の下から佐々木先生の声が響いた。
「まさか中学生になっても、誰か顔に絵の具なんて付けてる人、いないでしょうね?」
一同、一瞬にして固まる。
「やば、証拠隠滅!」と小声で言いながら。花蓮はそっと秋のタオルを借り、必死に自分の頬をごしごしこすった。
秋はそれを見て肩をすくめ、奏多は呆れながらも口元に笑みを浮かべる。
「どうせバレるって」
そう言って、奏多は階段を登り始めた。結唯は「先に行ってるね」と言って後を追い、澪も「……もう知らない」とため息をついてその場を離れる。
花蓮と咲は最後まで残って、絵の具の残り香が漂う空気の中で顔を見合わせた。
「こういう日も、わりと好きかも」
咲がぽつりと呟くと、花蓮は照れたように笑って頷いた。
「うちも。ちょっと馬鹿で、ちょっと騒がしくて、でも……楽しいって感じ」
その言葉に、咲はふっと目を細めた。窓の外では陽が高く上がり、校舎の影が短く伸びていた。
「ねえ、花蓮ちゃん。こういうの、ずっと続いたらいいのにね」
咲の声は、少しだけ寂しげだった。花蓮はその表情を見て、ほんの少しだけ間を置いてから、ゆっくりと頷いた。
「うん。でも、続かないからこそ、今が特別なんだと思う」
その言葉に、咲は目を見開いて、それから笑った。
「…それ、ちょっとかっこいい」
花蓮は照れ隠しのように肩をすくめて、「でしょ〜?」と軽く言った。
そのとき、廊下の向こうから誰かが走ってくる音がした。ふたりが顔を向けると、秋が戻ってきていた。手には、さっき使っていた絵筆とパレット。
「忘れ物」
そう言って、花蓮に絵筆を差し出す。花蓮は受け取りながら、少しだけ眉を下げた。
「ありがと。……っていうか、まだ怒ってる?」
秋は少しだけ考えるふりをしてから、咲のほうを見て言った。
「次は咲の番かもね」
咲は「えっ!?」と声を上げて、花蓮の後ろに隠れる。花蓮は笑いながら、「うちら、逃げる準備しとこ!」と手を取った。
校舎の窓から差し込む光は白っぽくてまっすぐで、三人の影はくっきりと廊下に浮かび上がっていた。絵の具の匂いは少し温かくなって、空気に混じる笑い声が明るく響く。緊張感もどこか柔らかく、春の光の中でほぐれていく。