第5話 お絵描き
二限目の終わりを告げるチャイムが、木造校舎の天井にやわらかく響いた。
1階の図工室には、すでに机が並べ直されていた。 小学生と中学生が一緒に使うため、机の高さもばらばらだったが、誰も気にしていなかった。
休み時間になると、咲は一番乗りで席につき、絵の具の箱を机の上に並べていた。 新品の絵の具は、蓋を開けるとまだ乾いていない光沢を持っていて、咲はそれをひとつずつ指先で確かめるように見つめていた。
「おにぃ、見て。咲の絵の具、今日から新しいの」
後から来た秋を自分の隣に座るよう手招きし、咲は嬉しそうに声をかけた。
うれしそうな咲の表情に、秋は微笑んで「うん」とだけ答え、絵筆を静かに水に浸した。
やがて、三限目の始まりを告げるチャイムが鳴り、担当の佐々木先生は教室の前に立ち、今日の課題を告げた。
「今日は“島の春”をテーマに描いてみましょう。海でも、花でも、空でも、好きなものを選んでいいですよ」
その声は穏やかで、誰かに急かすような響きはなかった。
花蓮は「海にしよっかな」と言いながら、鉛筆を軽く動かし始めた。動きは豪快に、されど繊細な描写で下書きをしていく。
奏多は無言で、空の色を混ぜていた。 どうやら下書きはせずに、最初から色を付けていくようだ。
咲は、ピンクと水色を並べて、島の空と桜を描こうとしていた。 筆先が紙に触れるたび、絵の具が広がり、春の匂いが少しだけ教室に漂うような気がした。
秋は、咲の絵をちらりと見てから、自分の紙に筆を置いた。 彼の絵には、すでに神桜と思われる桜の木の下に1人の人物が描かれていた。 それは特定の誰かを意識して描いたわけではないが、言い伝えを想像して人物を添えたようだった。
澪は、青の空を描きながら、咲の楽しそうな笑い声に一度意識を向けるも、再び自分の絵に集中した。
結唯は、白い紙の端に、神社の鳥居と、風になびかれ舞い散る桜の花を描き始めていた。
佐々木先生は、教室をゆっくり歩きながら、それぞれの絵に目を通していた。 何も言わず、ただ一度だけ、咲の絵の具の箱に目を留めて、微かに笑った。
「きれいな色だね。空が、春の匂いしてる」
咲はうれしそうに笑ったが、その笑顔は秋の顔色を探るように、少しだけ揺れていた。
佐々木先生は次に秋の絵を見た。 桜の木の下の人物には何も言わず、ただ一度だけ、秋の目を見て頷いた。
教室の窓の外では、風が止みかけていた。 桜の花びらが一枚、窓枠に引っかかって、揺れながら留まっていた。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴るまで、誰もその花びらに気づかなかった。
チャイムが鳴ると、教室の空気が少しだけ動いた。 筆を置く音、椅子が軋む音、絵の具の蓋を閉じる音――それぞれが小さく重なりながら、授業の終わりを告げていた。
咲は自分の絵を満足げに見つめたあと、そっと秋の机に目を向けた。 秋の絵はまだ完成していなかった。 桜の木の下に立つ人物は、顔が描かれていないまま、ただそこにいた。
「……おにぃ、それ、誰?」
咲の声は小さかった。 問いかけというより、確認するような響きだった。
「神桜に願いを込めた人だよ。誰かは分からないけど」
誰かを意識して書いたわけではないよ、という意味を込めて、少し返答に困った顔をした秋は、絵筆を洗うため席を立ち図工室を出た。
澪はそのやりとりを横で聞いていた。 自分の絵を片づけながら、秋の絵の中の人物に視線を落とす。 確かに秋の言うように、特定の誰かを意識して描いたような人物ではなかったが、無意識に人物の骨格から女性ではないだろうか?と推してしまう。
咲は自分を書いてほしかったのか、少し頬を膨らませて、秋が出て行った教室の入り口をじっと見つめていた。 絵の具の片づけも忘れて、筆を握ったまま、机の端に座り込むようにして。
その様子を横目で見ていた花蓮が、ため息まじりに「仕方ないなぁ」とつぶやいた。 片手には絵の具のついた筆、もう片方の手で咲の手をぐいっと引く。
「か、花蓮ちゃん!?」
急に手を引かれた咲が、驚いて声を上げる。
花蓮は咲の声が聞こえているにもかかわらず、小走りになって廊下を進んだ。 そのまま、昇降口の先に見える秋の背中を目がけて、迷いなく追いかける。
水道の前で筆を洗っていた秋の背中に、花蓮はそっと近づいた。 手に持っていた絵筆を咲に渡すと、何も言わずに咲の腕をつかむ。
「……え?」
呆気にとられる咲をしり目に、花蓮は秋の右肩をポンポンと軽く叩いた。
秋は反射的に肩越しに顔だけを振り返る。 その瞬間――咲の手に握られていた絵筆が、見事に秋の頬に刺さった。
筆先には、鮮やかな青色。 頬に触れた瞬間、絵の具がじわりと広がり、秋の表情が一瞬だけ止まる。
花蓮は容赦なく、さらにぐりぐりと押し込んだ。
時間にして2~3秒だろうか。その間いたずらな笑みを浮かべなら、花蓮は咲の腕を操るのを止めなかった。
少ししてー
「うむ、余は満足じゃ」
達成感に満ちた声とともに、満面の笑みを浮かべて咲に顔を向ける。
その笑顔は、いたずらの成功と、場の空気を変えたことへの誇らしさが混ざっていた。
無言で手のひらを咲に差し出すと、咲は一瞬戸惑いながらも、察したように自分の手のひらを重ねた。
「「いぇーい!」」
お互いに秋の顔に絵具を付けた達成感を分かち合い、咲と花蓮の掌が軽く打ち合わされ、空気が一瞬だけ跳ねた。
水道の音がその間を埋めるように流れ続けていたが、次の瞬間、秋が静かに水を止めた。
秋はタオルで頬の青い絵の具を拭いながら、ゆっくりと振り返る。 その目は、笑っていなかった。
「……花蓮」
名前を呼ぶ声は低く、けれど確実に怒っていた。
花蓮は一瞬だけ目をそらし、咲の後ろに隠れるようにしてから、ちらりと秋の顔を覗いた。
「え、だって、ちょっと空気重かったし……ね?」
秋はタオルを手にしたまま、花蓮に一歩だけ近づいた。
「空気を軽くするために、俺の顔をキャンバスにする必要はないと思うけど」
その言葉に、咲が「ご、ごめんなさい……」と小さく縮こまる。