第3話 幼馴染②
秋が灯籠のそばに立ち、境内の奥を見渡した。
4月中旬になると、島の桜は一気に散り始める。
境内の桜も例にもれず散り始めるため、この時期になると結唯の朝は毎日、境内の掃除から始まる。
澪は境内の方へゆっくりと歩み寄り、掃かれた石畳に目を落とした。
「きれいになったね」
結唯は小さくうなずいた。
「でもまた明日もやらないと」
ため息交じりにそうつぶやきつつ、境内の隅に集められた桜の花びらを見届けると、結唯は竹ぼうきを静かに灯籠の裏へと立てかけ、袖口に付いた数枚の花びらを、手のひらでそっと払った。
それから、深緑のロングスカートの裾を軽く整え、前髪にかかった一房の髪を指先で戻す。
身支度というには簡素すぎる動きだったが、その一連の所作の中には、“今いる場所から少しだけ離れる準備”が込められていた。
社務所の前を通り過ぎるとき、結唯は社殿の方へ一度だけ視線を向けた。 何かに祈ったわけでもなく、何かを尋ねたわけでもない。ただ、そこにあった静けさに、最後のひと呼吸を預けるような眼差しだった。
鳥居の下では、澪と咲が待っていた。秋は少し離れて境内の端を見ていたが、結唯の動きに気づくと自然に歩を進めた。
結唯は無言のまま三人のそばへと歩き、咲が軽く声をかけた。
「結唯ちゃん。いこっか」
「うん」
その返事は小さかったが、言葉は澄んでいた。
澪が一歩だけ先に立ち、石段を下りながら言った。
「きれいになった境内は足が進むね」
三人がそれに応じるように歩き始める。結唯は誰とも並ばず、ほんのわずか後ろを歩いていたが、その距離が遠すぎることはなかった。
足音は静かに重なって、境内の空気を後ろに残しながら、朝の通学路へとほどけていった。 神社の桜の木は、またひとひらだけ花びらを落としていた。
通学路の石畳に、朝の光がやわらかく染み込むように差し込んでいた。 鳥の鳴き声が風の隙間を通り抜け、海から運ばれてきた匂いが、ほんの少しだけ四人の会話を包み込んだ。
咲は秋のすぐ横を歩いていた。 段差のある歩道に差しかかると、小さな足取りで秋の腕に肩を寄せるようにして歩幅を合わせる。 背伸びするような声で呼びかけた。
「おにぃ、今日って図工あったよね?咲、絵の具新しくしたの。おにぃの絵を見るの、楽しみにしてるんだ」
その声には、甘さよりも“確かめたい気持ち”の響きが宿っていた。
秋はほんの一瞬だけ目を向けて、「美術は三限目だったと思う」とだけ返した。
その言葉に、咲は満足げに微笑んだが、秋の表情を探るように視線を細めた。
澪は少し後ろから、二人の様子を見ていた。 顔を前に向けながらも、左手がゆっくりとカーディガンの裾をつまむ。 風が吹いたときの自然な動作に紛れて、その指先だけが咲の距離感を映していた。
結唯はさらに少し離れて歩いていた。 会話には加わらず、石畳の隅に散った一枚の桜の花びらを目で追っていた。 咲の甘えた口調にも、秋と澪の間にある沈黙にも、何も反応は示さない。 ただ、スカートの裾が風に揺れたとき、自分の足元だけを見て、歩幅をほんの少しだけずらした。
「澪ちゃん、絵の具、最初に使うの何色?」
咲がふいに澪に問いかけた。声は軽かったが、言葉の奥には“澪と話したい気持ち”が微かに滲んでいた。
「……青、かな」 澪の声は静かで、少しだけ遠くにいるような温度を持っていた。
「そっか、咲はね、ピンクと水色!春っぽいやつ」 咲は笑ってみせたが、その笑顔はどこか“誰かに見てもらいたい”ような向きがあった。
澪はその言葉を聞いて、言葉では答えず、ただ一度だけ瞬きをした。
その瞳の奥に、触れることのできない感情が、一輪だけ咲いていた。
結唯は黙ったまま、澪の背中に目を落とす。 何も言わず、何も変えず。
ただ、咲の声と澪の沈黙と秋の足音を、空気の継ぎ目みたいに感じ取っていた。
曲がり角をひとつ越えた先に、木造の校舎が姿を現した。 その窓辺に、島の朝が静かに重なっていた。
木造校舎の廊下に、朝の光が静かに差し込んでいた。 窓は少し開いていて、桜の花びらが一枚だけ、風に乗って校舎の床に舞い込んでいた。
咲は昇降口で上履きに履き替えながら、秋の腕をそっと引いた。
「じゃあ、三時間目に図工室でね。咲、絵の具ぜんぶ出しておくから」
声には期待が滲んでいたが、あくまで軽やかに。
「うん」 秋は短く答え、澪も微かに頷いた。
咲は満足げに笑い、手を振るような仕草をしながら、階段のほうへと駆けていった。 背中に揺れるポーチのストラップが朝の光を反射して、小さく瞬いていた。
残った三人は中等部の廊下をゆっくり進む。 足音は軽く、4月の空気によくなじんでいた。
秋は窓の外に目をやる。校庭にはまだ誰もいない。
澪はその横で、鞄の持ち手を両手で握りながら歩いていた。
結唯は一歩後ろから、自分を含めた三人の影を見ていた。並んではいないのに、床に落ちたその形はなぜかひとつに見えた。
教室の扉の前で、秋がふと立ち止まる。 澪もそれに合わせて歩を止める。結唯は何も言わず、ただ視線でその気配に寄った。
扉の奥からは、誰かの笑い声がかすかに聞こえた。 落ち着いた声色と、それに応じる明るい返事。その音に、教室の中の空気がすでに色づいていることを三人は感じ取った。
秋は扉に手をかける。その手の動きに、澪と結唯もほんの少しだけ息を整える。 そして、静かに扉が開く。