第2話 幼馴染①
玄関を出ると、島の朝がふたりを包み込んだ。
潮の香りがわずかに濃く、いつもよりも空気がやわらかい。道端のツツジは赤く咲きはじめ、花びらの間には朝露がまだ残っていた。咲はランドセルを背負いながら、小さく鼻を鳴らして「今日、あったかいね」と言った。
「春ってこんなに匂うんだっけ」と秋が答える。
ふたりは並んで歩き出す。舗装された通学路は、家々の塀沿いに続き、途中で畑や商店街を抜けて学校へと向かう。
背の低いフェンスにはツタが絡み、時折、風が葉を揺らして通り過ぎる。その音を聞きながら、咲がぽつりと呟いた。
「ねえ、おにぃ。今日は四月の何日?」
「えっと…たしか、十六日だったかな」
秋は空を見ながら、記憶をたぐるように言った。
「じゃあ春のまんなかだね」
咲は足元に転がる椿の花を指差して、少し嬉しそうに言った。その声には、季節をまるごと受け入れるような素直さが滲んでいる。
「先は最後の小学生だな」
「うん、来年からおにぃと同じ中学生になるんだよ」
少しずつ大人の階段を上っていることを実感しているのか、咲の語尾は上がっている様子だった。
ふたりが角を曲がると、少し広い坂道へ出た。そこは島の中でも陽当たりがよく、風の通り道でもある。その道の向こうに、幼馴染の澪が立っていた。
髪は整えられたまっすぐなセミロング。朝の風に撫でられて動いた一房が頬にかかると、澪は左手でそっと戻した。その仕草に、服の色合いと風の輪郭がぴたりと重なり、彼女自身が風景の“隙間”に自然に溶け込んでいくようだった。
彼女が身につけていたのは淡い亜麻色のカーディガンと、白の膝丈スカートだった。どちらも柄はなく、素朴でやわらかな印象だが、色と質感に小さなこだわりを感じるような選び方だった。カーディガンの袖は手首のあたりで少しだけ弛み、風が吹くとスカートの裾と一緒にふわりと揺れた。
咲の視線はその服にふと止まり、ほんの少しだけ、自分の着ている服の色味を気にした。
咲は秋のそばにぴたりと寄り、澪の姿を見つめる。
瞳には、どこか複雑な光が浮かんでいたが、すぐに「澪ちゃん、今日も早いね」と言った。
その声はいつもより少し張りがあり、秋はそれに気づいたが、何も言わなかった。
澪はふたりに気づくと、微かに口元を緩めて「おはよう」と言った。
秋は澪の声にうなずきながら、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
咲が澪を見つめるその横で、彼は澪の立ち位置と自分たちの距離を測るように、足元の影に目をやった。三人の影が石畳のうえに並び、それぞれが微かに重なっていた。
「さっきね、椿が落ちてたんだよ。水たまりの上に、赤いやつ」
咲がぽつりと語る。
声のトーンは穏やかで、話しかけているというより、呟いているようだった。
「この道、春になると落ちてるよね」
その理由をなんとなく察しつつも、澪が愛想よく応じた。
秋はゆっくりと歩き出す。三人の足音が同時に通学路に乗って、島の朝が少しずつ色を変えはじめた。
咲が澪の横に並ぶと、ちらりと澪の顔をのぞくようにして小さく言った。
「澪ちゃんと一緒に歩くと、なんか……空気が変わった気がする」
「昨日より暖かいね」
咲の意味深な言葉に、澪はそう答えた。
言葉の表面はあっさりしているのに、その奥に、咲の言葉をきちんと受け止めた痕跡が残っていた。
遠くで鐘の音が鳴る。学校の開始を知らせる合図ではなく、神社からの時報。
重ねられるような音ではなく、一度きりの低く澄んだ響きだった。島の時間がきちんと動き始めたことを、誰に届けるでもなく島に告げていた。
秋が立ち止まり、音の余韻に耳を澄ませる。
咲も自然に足を止め、振り返ることなく、ただ神社のほうを見上げる。
澪は一拍遅れて、静かにその場の空気を読み取るように顔を上げた。
「寄っていこうか」 秋が小さく言った。
咲は「うん」と応じ、澪は何も言わずに歩き出した。
三人の歩調は揃ってはいなかったが、通学路から外れ、鳥居へ向かう道へと自然に進んでいった。
道は細く、左に少しだけ傾いている。 両脇には竹が混じる低木が風に揺れていた。地面には昨夜の雨がうすく残っていて、スニーカーの底が水をすべる音が小さく響いた。
鳥居が見えはじめるころ、空の色が少しだけ変わっていた。 濃い青から柔らかな白へ。葉の隙間から差す光が、境内の奥に小さく広がっていた。
三人は、鳥居の下で立ち止まり、境内の奥にある社殿と、灯籠と、掃き清められた石畳を見渡す。
石畳の上には、淡い桃色の花びらが点々と散っていて、朝の光に照らされながら、まるで誰かの記憶のように静かにそこにあったように。
神社の境内では、少女が静かに箒を動かしていた。落ち葉とは違い、桜の花びらは軽く、掃こうとすると風に乗ってふわりと舞い上がる。彼女はそれを追いかけることなく、ただ、舞い戻ってきた花びらを静かに寄せていく。
青みがかった前髪は長く、左目にかかっていたが、彼女は気にする様子もなく、髪を払うこともなかった。 生成色の襟なしシャツに深緑のロングスカート。暖かな色合いのその服装は、神社の空気に自然に溶け込んでいた。袖口を整える所作も、掃き方も、すべてが境内の静けさに馴染んでいた。
境内の隅にある桜の木は、すでに満開を過ぎていた。 枝先からは、風が吹くたびに数枚ずつ花びらが舞い落ちてくる。 それは“散る”というより、“帰ってくる”ような動きだった。 石畳に落ちた花びらは、少女の掃く音とともに、境内の端へと集められていく。
秋が鳥居の下から声をかける。
「結唯。朝からお疲れ様」
結唯と呼ばれた少女は秋の声にすぐには答えず、掃き終えた範囲を目で確かめてから、動きを止めた。 ゆっくりと顔を上げると、前髪のすき間から伏し目がちの視線が咲と澪に向けられた。
「秋くん。…うん。花びら、多かったから」
その声は、桜の散る音よりも静かだった。