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第1話 小さな世界の始まり

 まだ静けさが残る時間だった。

 遠くで鳥が一度だけ鳴き、それが波音に消えていった。


 網戸越しに入ってくる潮風が部屋をそっと撫でていて、障子のすき間から差し込む光は、まだ頼りなさげに畳の上に伸びていた。


 秋はぼんやりと意識を浮かせた。まどろみの中で、どこか遠くから誰かに呼ばれたような気がした。

 夢か現か、はっきりとはわからない。手のひらをそっと布団の外に出して、指先に触れた空気の温度を確かめる。柔らかく、島の朝そのもののようだった。


 目をゆっくり開くと、視界の中に、自分の腕に寄り添うように小さな肩が見えた。


 ミディアムボブの髪が枕にふわりと広がり、朝の光に透けるように揺れている。

 髪の先が秋のシャツにそっと触れ、まるで“ここにいてもいいよね?”と問いかけるようだった。


 小柄な少女は軽く丸まった姿勢で、秋の腕に軽く触れるように身を預けている。

 頬はほんのり赤く、吐息が規則的に布団を揺らしていた。


 秋は眉をほんの少しだけ上げて、それでも声は出さずに眺めた。

 彼女がいつの間に布団に入ってきたのかは分からないけれど、今までもこういうことは何度もあった。


 ときどき夜中に、母の部屋からそっと抜け出して秋の隣に来る。

 その理由は誰も深く聞かない。秋もわざわざ聞かない。

 ただ、彼女がそこにいることが、島の朝と同じくらい自然だった。


 布団の中の少女は、ぬくもりを求めるように秋の肩に頭を軽く乗せていた。

 閉じられていた目がピクリと動くと、つられて長いまつげの揺れが微かに動いた。


「……おにぃ…?」


 くぐもった声が、布団の中からひそやかに響いた。秋が顔を向けると、咲が目をゆっくりと開けた。


 まだ眠気の残るまぶたの間から現れた瞳は、島の海よりも澄んでいて、朝の光をまるごと映していた。ぼんやりしているようでいて、芯のある視線。咲は秋の顔を見つけると、安心したように目尻を柔らかくゆるめた。


「おはよ」と秋が言う。


 咲は、頬に手を添えて目をこすりながら、小さな声で「うん…」と応えた。そして、口元にかすかな笑みを浮かべたまま、もう一度目を閉じた。その笑みには、今朝もちゃんと“おにぃ”が隣にいることへの、静かなよろこびが溶け込んでいた。


 秋は彼女の髪が自分の腕に触れているのを感じながら、布団からそっと体を起こした。窓の外には港町の空が広がっている。海の先に少しだけ雲が浮かび、風がその形をくるりと巻いていた。


 父の絵が掛けられている壁が、朝の陽射しに照らされていた。波打ち際の花と、空に浮かぶひとつの鳥――それはフランスへ赴いた父が残していった、色の記憶だった。


 秋はその絵に視線を送ると、振り返ってもう一度咲を見た。


 彼女の瞳はまた閉じられていたが、呼吸は浅く、小さな鼻と耳はきっと“おにぃ”の気配を探している。秋はゆっくりと立ち上がる。咲の目はまだ閉じているけれど、その表情の中に、もう目覚めている想いがそっと潜んでいるのを感じた。


 しばらく夢心地の咲を眺めていると、遠くから母の声が聞こえてきた。


「秋ー、咲ー、ごはんできたよー!」


 木造の家は音をよく響かせる。台所からの声が廊下を通り、天井に沿って軽やかに届く。二人の間にその音が溶け込んだ瞬間、朝の時間はゆるやかに区切られた。


 秋は布団の縁をめくり、少し冷えた空気に触れながら立ち上がる。咲は名残惜しそうに動かずにいたが、秋が足を進めると、何も言わずにあとを追った。


「おにぃ、スリッパ履かないと冷たいよ」


 春先とは言えど、まだまだ早朝は冷える季節。


 廊下を踏みながらそう言う咲の声には、もう眠気は消えていた。スリッパを兄に差し出し、自分も揃えてから音を立てずに並んで歩く。ふたりの足音が重なりながら、朝のリビングへと向かう。


 リビングでは湯気を立てた味噌汁、白ごはん、焼いた鯖の香ばしい香りたち、起きてきた秋と咲を見た母が笑いながら「はい、座ってー」と言い、食卓を整えていた。


 咲は秋の隣の席に座り、指先で箸をまっすぐ並べた。

 秋は何も言わずにご飯の湯気を見つめていたが、心の奥には、布団の中で感じた咲の体温が、まだじんわりと残っていた。


 木の食卓には、白い湯気が立つ味噌汁、きれいに並べられた焼き鯖、ほくほくのご飯、そして浅漬けの大根ときゅうりが添えられている。窓辺から差し込む朝の光は、食卓の一角だけをやわらかく照らしていた。


 咲はまだ少し寝ぼけたまま箸を握っていた。髪は手でさっとといていたようだが、右側の寝癖は微かに残っている。大きな丸い瞳は、食卓の端で揺れる湯気を見つめながら、その奥に何かを思い出しているようにも見えた。


 母はキッチンから盆を運びながら、「今日はいい風が吹きそうだね」と言って席に着いた。エプロンを外す仕草がどこか習慣的で、少し疲れているようにも見えるが、笑顔は崩さない。


 三人は声を揃えて「いただきます」と言った。


 秋は黙って味噌汁をすする。その出汁の香りが喉を通る瞬間、ふと父のことを思い出す。フランスのアトリエで絵筆を握る姿を想像してみるが、それは実感を伴わない。写真で見た風景はどこか異国のままで、父の声は電話越しにしか届かない。


「おとうさん、今も描いてるのかな?」


 咲がぽつりと言った。


 母は少しだけ間を置いて、「昨日、メールが来たよ。“朝の光の絵、もう少しで仕上がる”って。向こうは雨だったみたい」と答えた。その声は穏やかで、咲の不安を包むような柔らかさを含んでいた。


 秋は焼き魚の身をほぐしながら黙って聞いていた。フランスという遠い場所にある父の時間と、この島の朝が、同じ地球にあるということが、まだピンときていなかった。


「おとうさんって、魚の骨とるのうまいよね」 咲が言う。


「前に、“鯛は彫刻みたいに食べるんだ”って言ってたよね」 秋が笑いながら返すと、母も「うん、“食べ方も描き方と似てる”って」と思い出すように言った。


 その時、食卓に微かな沈黙が流れた。 父の不在は、誰も口にしないけれど、食卓の隅に座っているような気配があった。


 食事を終え、秋が茶碗を台所へ運ぶ。咲は母の手元の食器を自分から受け取り、静かに「ありがとう」と言う。母は手を止めて、咲の髪に軽く指先を通すだけだった。


 そのあと、身支度を終えた秋と咲が玄関の扉を静かに開くと同時に、朝の空気が一歩分、家の中に入り込んでくる。


 外の光は少し強まり、今日が、もうじき始まるのだと告げている。

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