86.小さい隙間を狙う為の布石
サンの警戒はもはや振り切れていた。
鉄将の巨体から溢れ出す圧力はまるで目に見えぬ壁のように迫ってくる。
射抜くような眼光は人を容易に射殺しそうなほど鋭く、全身の毛穴が総立ちになる。だが何より恐るべきはその察知能力と反応速度だった。
横合いから撃ち込んだ弾丸を彼は軽々と受け止めた。草食動物が周囲を同時に認識するかのような広い視野。そこから放たれる反撃はもはや芸術的である。
抜きざまのハンドガンの銃口は木々の陰に身を溶かしたはずの彼女を正確に捉えていた。
「運良く外れたっすけど……あいつは危険っすね」
前方の草木がかろうじて自分を守ってくれた。そう思いサンは一瞬だけ安堵する。
だが狙撃手にとってこの距離は優位とは言えない。瀬名との一件で彼女は慢心という言葉を胸から捨てた。
だからこそ鉄将がまさか空砲で応じているなど夢にも思わない。
――まずは巨人を仕留めるべきだ。
後ろの少女を先に倒してしまえば巨人は撤退する恐れがある。
ここで確実に削ぐ、それがチームの為。サンは冷静にそう結論づけた。
美月に対する彼女の評価は散々だった。守られているだけの存在。
射撃の腕はあるようだが反応も察知も並み。足手まといでしかない――サンはそう判断している。
先にあの巨人を倒して後ろの彼女はゆっくり料理すればいい。
幾戦か銃を交え、彼女はサンをまだ捉えきれていない。巨人の視線の先をただ追っているだけだ。
ならば脅威にはならない。ヒット&アウェイに徹すれば彼女の銃口が自分を向くことはないのだから。
「問題はどこをどう狙うか。……っすよね」
鉄将の反応速度は異常だ。わずかな違和感さえ感じればそちらに身体ごと向ける。その先にある大盾はまさに鉄壁。その厄介さにサンは心の中で奪われた仲間に恨み言を呟きながら低く唸った。
「……考えて戦うのは苦手っすね」
それは本来、津名の役目だ。自分がその立場に立つと頭が痛くなる。無線機に手を伸ばしかけ、助言を仰ごうとしてサンはその手を止めた。
「いや、先輩には頼らないっす」
呟きは自分自身への檄だった。気合いを込め直すように吐息を整える。
それは自分で撒いた種が頭に過ったからだ。サンは二人へ仕掛けた際、津名へ大見得を切っていた。
『あいつらは一人でやるっす』
『いけるか?』
『誰に言ってるんすか? 余裕っすよ。……終わらせたらすぐ合流するっす』
『了解だ』
その約束を果たすためにも確実に仕留めなければならない。サンは木陰の中でゆっくりと動き出した。
草木の揺らぎを感じた鉄将が即座に発砲する。美月も慌てて構えたがそこにはもう敵の姿はなかった。
サンは深く息をつき、繋いだ命にわずかな安堵を覚える。しかし同時に巨人の反応の速さに身震いし、移動する先にぴたりと付いてくる銃口に恐怖を感じていた。
姿は見えていないはず――なのに相手は微かな音や空気の揺れだけでこちらを追跡している。サンはその事実を悟った瞬間、背筋を氷の指で撫でられたような恐怖に包まれた。
だがそれでも未だ自分は撃たれていない。それもまた事実だった。
相手が表層だけを追って深く踏み込んでこない。その理由にサンはふと美月を鋭い視線で射抜く。
(……あのスナイパーを気にかけてるから素早く動けないんっすね)
鉄将は美月を守るように立ち回り、サンが潜む方へと大盾を向ける。
別の気配を感じればすぐさまそちらにも反応する。スナイパーを護るための分散した注意。だから男が撃つ弾は牽制重視の弾だとサンは納得する。それならば当たらないのも無理はない。
サンはさらに思案する。
(けど後ろのスナイパーが役に立たない以上、前の男が出てくるしかないはず……接近されたら私に勝ち目はない。けど上手く釣り出せたら私が勝つ)
彼女は唇を噛んだ。木漏れ日がゆらぎ、戦場の空気がさらに重くなる。
次の一手が勝負を決する――サンはそう感じていた。
サンは銃を構えることはあっても決して引き金を引かなかった。
撃つことが成果に繋がらないと彼女は冷徹に知っている。
だからこそ姿を見せず、物音だけを巧みに散らしながら森の奥を獣のように駆け抜けていく。
その一つの足音がまるで小さな針のように相手の神経を刺し、見えない罠となって張り巡らされていく。
湿った土と苔の匂いが立ちこめる。風はほとんどなく、木々の葉擦れすら息を潜めていた。
張り詰めた空気の中で耳に届くのは自分達の呼吸とどこか遠くで鳴く小鳥の声――それがかえって不気味に響く。
その緊張を最初に破ったのは美月だった。
「行こう、鉄将君!」
彼女の声は張り詰めた膜を破る裂け目のように空間に響き、鳥達が一斉に飛び立つ。
鉄将は咄嗟に美月の腕を掴み、その動きを制した。
「待て、妬根。俺が先に行くから!」
低く押し殺した声が凍てつく刃のように空気を震わせる。
その間にも周囲を回っていた気配が砂が流れ落ちるように奥へ奥へと遠ざかっていくのが感じられた。
鉄将は胸の奥で鼓動が速くなるのを感じる。
「……逃げる気か!?」
鉄将の焦りが声となって弾けた瞬間、二人は息を合わせるように地を蹴る。
落ち葉を踏む音が鋭く響き、枝が顔を掠める。
目に見えぬ影――サンの残り香のような気配を追って、森の奥深くへと踏み込んでいった。




