8.小さくて大きい先輩(2)
彼女は高校生活があまり好きになれなかった。
もともと背が低く、小学校の頃から「チビ」と呼ばれてはからかわれてきた。それだけでも嫌だったのに、中学三年の終わり頃から急に胸が大きくなってしまった。
それが決定打だった。
彼女のあだ名はいつの間にか「チビ」に「でか」がついて「チビでか」になった。それは高校生になっても変わらなかった。
低い身長も、目立つ胸も、すべてが彼女にとってはコンプレックスだった。
特に男子の視線。からかうような笑い声、舐めるような目線、下品な囁き声。
それらが重なって、彼女の中にあった男子への警戒心はやがて嫌悪へと変わった。
男という存在そのものが彼女にとっては不快な生き物だった。
月日が経つにつれて、その感情はますます硬く、重く、拗れていった。
そんな彼女にとって唯一心安らげる時間が放送部の活動だった。
部員は七人。先輩たちは穏やかで頼りがいがあり、同級生も、最近入部した後輩たちも優しかった。
男子がいないその場所は自分が自分でいてもいいような、そんな気がした。
——この日、彼女は図書室に来ていた。
ある男子がやってきて、こう言ったのだ。
「放送部の先輩が次の放送で恋愛小説を紹介したいらしくてさ、何冊か借りてきてくれって」
彼の姿は、マスクにサングラスという怪しさ全開の出で立ちだった。先輩が間接的にそんなことを頼むはずもない。でも——いいか、と半ば諦めるようにして彼女は図書室へ足を運んだのである。
後から知ったことだがそれはまったくの嘘だった。
先輩からそんな頼みごとはなかった。彼女はそのことを知った時、息を吐き捨てるようにこう呟いた。
「陰湿なことをする奴もいるもんだね」
◇◇◇
「うーーーーん、もぉーーーー!」
図書室で彼女は苛立ちを隠せずにいた。
目の前の棚、その最上段。手を伸ばしてもあと少し届かない。
低身長の彼女にとってこの世界はしばしば不便だった。こんな時、台の一つでも置いてくれればいいのにと文句を言いたくなる。
視線を横に移せば大きな長机と、その周囲に点々と置かれた椅子が見える。椅子を使えば本に届く。だが——
そのうちの一脚には、ピアスをつけた茶髪とロン毛の金髪の男子が腰をかけ、にやにやとこちらを見ていた。
彼女が困っている様子を、まるで娯楽のように眺めている。
彼らは助けることもしない。ただ笑っているだけだ。
奥歯を噛み締める音が、心の奥で響いた。
(もう一度、時間をおいて出直そう)
そう思い、その場を立ち去ろうとした、その時。
ふいに、一人の男子が彼女の肩越しに身を寄せ、すっと本棚の上段に手を伸ばした。
「これが欲しかったんだろ?」
短髪の少年はそう言って一冊の本を差し出した。
「あ……ありがとう……ございます」
彼女は戸惑いながら本を受け取る。だがその表紙に目を落とした瞬間、顔がひきつった。
『強いビンタのやり方』
明らかに違う。こんな本を探していたわけじゃない。
「あのー……」
訂正しようとしたその瞬間、彼は屈託のない笑みで言葉を続けた。
「面白そうな本読むんだね」
思わず言葉が詰まる。
彼の足元を見ると青のサンダル。まだ入学したばかりの一年生だ。
自分は上級生だと、ちゃんと教えてあげなければ——そう思って、口を開きかけた時だった。
「おーい、チビでかー! 良かったなぁ、優しい後輩がいてよぉ!」
「ぎゃーははは!」
図書室に響いたのは、あの二人のチンピラの嘲笑だった。
彼女は凍りついた。彼——まだ何も知らないこの後輩に、自分の最低なあだ名が伝わってしまった。
顔を上げるのが怖かった。
彼は今、どんな表情をしているだろう? それを知りたくなかったから。
それでも、恐る恐る視線を上げると、彼はもう彼女を見ていなかった。
そのままの姿勢で、ゆっくりと視線をチンピラたちに向けていた。
彼女が横から覗き込んだ時、そこにあったのは先程までの笑顔ではなかった。
その目は鋭く、まるで獣のようだった。
眉間にしわを寄せ、顔には怒りが刻まれている。
「おい、何だ一年坊。何か文句でもあんのか?」
金髪が声を荒げ、茶髪も奇声を上げる。二人が彼に詰め寄った。額をぶつけ、鼻先が触れるほどの距離。
——怖い。彼女はそう思った。
周囲も空気を察して静かに立ち去る。誰も彼を助けようとはしない。
「誰が……」
沈黙を破ったのは、一年生の方だった。
「あぁん!? 何だって!?」
「誰が一年坊だコラ! 勝手に決めつけんなよ!!」
一瞬、空気が止まった。
彼は一体、何を言っているのか。
金髪がすかさず言い返す。
「青のサンダルだからお前一年だろうが!舐めんなよコラ!」
その言葉で彼はようやく自分の足元に目をやり、バツが悪そうに顔を曇らせた。
——ああ、知らなかったんじゃなくて、忘れてたんだ。
彼女は思った。もっと早く教えてあげればよかった。そうすれば、こんな目に遭わせずに済んだのに。
でもその時、彼はふと彼女の方を向き、深々と頭を下げた。
「すいません! 先輩にとんだ失礼を!」
彼女は驚いて、あたふたと手を振った。
「いやいや、大丈夫だよ! 私も、もっと早く言えばよかったんだけど——」
「良かった」
ふわりと笑ってくれた彼のその顔を見た瞬間、彼女の胸の奥がきゅっと締め付けられた。
その笑顔は、彼女の中の何かを確かに揺らした。
「おいおいおい! 謝るのはチビでかじゃなくて、こっちだろうが!」
「にゃアアん! おあああん?」
嘲りの声が再び響く。彼の顔から再び笑みが消えた。
彼は静かに、しかし確実に二人を睨みつけて言った。
「お前らさ、この先輩のことが好きなんか?」
「はぁ?」
「好きな女の子をいじめるみたいなさぁ? まぁ、分かるぜ。こんな小さくて可愛いのに胸がこんなでかいんだもんな? 女神かよ!」
彼の魂の叫びが、静かな図書室に響き渡った。
彼女の顔は一瞬で真っ赤になった。
——恥ずかしい、でも……なんだろう、この感じは。
同じ目線なのに……今まで受けてきた視線とは、何かが違った。
「何言ってんだ、てめぇ!」
金髪が拳を振り上げ、彼も拳を握り返す。
今にも衝突しそうな空気の中、彼女は声を出そうとしても出せず、身体が強ばる。
だがその瞬間——
どこからともなく現れた巨人が彼の腕を掴んで止めたのだった。