63.金敷部(B)静かに始動
金敷部(B)が立ち上がったからといって、すぐに何かが劇的に変わるーーそんな展開はなかった。
部の存在そのものがどこかふんわりと伝わっているせいか、世間に浸透するには至っていないようだった。
面白そうな部活ができたらしい、そんな噂が廊下の隅を通り過ぎる程度でそれ以上深掘りされることもない。
あるいは何か困ったことが起きても、それは各自や学校が対応するものでわざわざ怪しげな新設部に助けを求めようという発想自体が浮かばないのかもしれない。
皆人は考えるまでもなく、それは後者だと内心で即答していた。
放っておいてもそのうち新聞部の朝日が何らかの形で金敷部(B)の特集を組むだろう。
それが掲載されれば、せめて冷やかし半分の訪問者くらいは現れるかもしれない。
ただ月に一度の新聞だから掲載はまだ先。しばらくは何も起きない、そんな穏やかな日々が続くだろう。
皆人が北校舎の最上階へと足を運ぶ途中、吹き抜ける暖かな風に乗ってどこか高らかに響く笑い声が耳に届いた。
今日もまた、我らが可憐なるお嬢様は哄笑という名の役割を果たしているようだ。
放課後の多目的室。
ドアを開けると、中央には大きな長机といくつもの椅子が整然と並んでいる。
それらは全て、ローズが部費を使って購入した『金敷部(B)』の備品であり、普段は奥の倉庫にしまわれている。
今ではすっかり、この部屋は彼らだけの秘密基地のような空間と化していた。
奥の一角では組み立て式のハンモックに体を沈め、惰眠を貪る桐人の姿があった。
隣では美月が電子ピアノを気ままに奏でている。
その音色は日常のざわめきをそっと包み込むような優しい旋律で皆人の耳にも心地よく響いた。
そして窓際の小さなミニハウスではムックが今日もせっせとお菓子を口に運んでいる。
くうちゃんと書かれた木製の小屋には彼のお気に入りおやつ、ローズが自宅から持ってきた高そうなクッションやブランケットが詰め込まれ、見ようによっては犬小屋のようにも見えたが本人はどこか満足げだった。
「……あれ? 桜や鉄将は?」
皆人は椅子に腰を下ろし、テーブルに置かれた薔薇模様のカップで紅茶を啜る強に向かって声をかけた。
強はわざとらしくカップをくるくると回す。
その所作はまるで淹れた紅茶の香りを堪能しているかのようだがーーもちろん、強はそんな違いが分かる男ではない。それはただの雰囲気作りでしかなかった。
それが余計に皆人の神経を逆撫でする。
一呼吸置いて強が応じた。
「桜は柔道部と稽古。鉄将は花弄りだ」
「……柔道部も懲りないな」
あの一件以来、一色桜に挑もうとする者は激減したーーというより、もはや絶滅危惧種である。
だが本人はやる気満々で、既存の技を磨き上げたり、新たな必殺技を開発したりと充実した時間を過ごしているらしい。
強は腕を組み、空を見上げるようにぼやいた。
「あれだな。暇だな」
「……そうだな」
強が嘆くその空白の時間を皆人はむしろ心地よいと感じていた。
美月の機嫌が良い時は彼女のピアノが静かに部室を満たしてくれるし、ムックのもっちりした顔を見るだけで妙に癒やされる。
今やこの場所はどんな名所よりも皆人の心を洗う場所となっていた。
だが目の前の男はそうした穏やかな日常が苦手らしい。
刺激に飢えた彼はもはや自らトラブルを探しに出ようとすらしているようだった。
「暇すぎてムックの餌やりくらいしかやることがねぇ」
そう呟くと、強は大きなマシュマロを一つ取り、小屋に向けて放った。
それはふわりと弧を描き、途中でやや失速しつつも、ムックがちょうど顔を出してパクリと咥える。
「人としての尊厳は!?」
そう言いながらも皆人も自然とマシュマロを手に取り、強と共に餌やり遊びに加わっていた。
二度、三度と投げるうちにムックはそのどれもを器用にキャッチしてゆく。精度のバラつきなど気にも留めず、満面の笑みで。
そんな光景に水を差すように、ふわりと扇子の風が舞った。
「ちょっとお二人共、何をしてますの!?」
扇子を手にドアを開けたローズが憤慨の眼差しでムックのハウスに歩み寄ってくる。
彼女にとって、くうちゃんは尊い存在。餌付けされるなどもってのほかだ。
が、次の瞬間には声のトーンが変わる。
「……わたくしも混ぜてくださいまし!」
マシュマロを抱えて皆人の隣に陣取り、今度は自らの手でムックへと投げ始めた。
もはや誰も止める者はいない。むしろ、ほのぼのとしたBGMに彩られ、平和な一幕のようだった。
「戯れはこれくらいにして……紅茶を淹れましょうか」
写真を数枚収めたローズは手馴れた様子でティーポットに茶葉と湯を注いだ。
薔薇模様の陶磁器が陽光の下できらめく。
ローズの動作にはどこか優雅な所作が漂っていた。
「ティーバッグで飲む紅茶とはやっぱり全然違うな」
「当たり前ですわ。これは我が家自慢のローズティーですもの」
ローズが笑みを浮かべたと同時に部室の空気がふわりと変わった。
薔薇の香りが鼻をくすぐり、視線が自然とティーカップに集まる。
その香りに誘われるように、美月がピアノの鍵盤から手を離し、桐人が眠りから目を覚まし、ムックがそっと小屋から顔を出した。
誰が合図したわけでもない。
気づけばそこにささやかなお茶会が始まっていた。
カップを持つ手が重なり、笑い声がふわりと弾ける。
こんな何気ない日常がどれだけ続いてくれるだろうか。
ふとそんな思いが浮かび、皆人は小さく首を振った。
今はただ、考えるのをやめておこう。
変に思い浮かべればきっと天邪鬼な神様が災いを運んでくる。
いわゆるフラグというやつだ。
そうして彼らが和気あいあいとお菓子を頬張り、紅茶を啜りながら、まったりと過ごしていたそのときーー。
コン、コン。
多目的室のドアが静かにノックされた。




